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2021年12月25日土曜日

プルーストによるニーチェ批判

 前回、ニーチェは信者共同体[Glaubensgemeinschaft]を批判し、独りになることを進めたことを示したが、少なくともある時期のニーチェにとって友情[Freundschaft]は別だった。


すべて愛と呼ばれるもの [Was Alles Liebe genannt wird]


所有欲と愛[ Habsucht und Liebe]、これらの言葉のそれぞれが何と違った感じを我々にあたえることだろう! ―だがしかしそれらは同一の欲動 Trieb なのによびかたが二様になっているのかもしれぬ。つまり一方のは、すでに所有している者ーーこの欲動がどうやら鎮まって今や自分の「所有物 Habe」が気がかりになっている者ーーの立場からの、誹謗された呼び名であるし、他方のは、不満足な者・渇望している者の立場からして、それゆえそれが「善」として賛美された呼び名であるかもしれない。我々の隣人愛ーーそれは新しい所有権への衝迫[ Drang nach neuem Eigenthum]ではないか? 知への愛、真理への愛[ Liebe zum Wissen, zur Wahrheit]も、同様そうでないのか? およそ目新しいものごとへのあの衝迫 Drang の一切が、そうでないのか? ……


我々は古いもの、安全に所有しているものにしだいに退屈し、ふたたび手を伸ばすようになる。最も美しい風景でさえも三カ月住めば、もはや我々の愛を確保しない。そして遠くの海辺が所有欲を刺激する。所有物は、所有されることによって大抵つまらないものとなるのである[der Besitz wird durch das Besitzen zumeist geringer]。自分自身について覚えるわれわれの快楽は、くりかえし何か新しいものをわれわれ自身のなかへ取り入れ、変化させることによって維持しようとする。所有するとは、まさにそういうことだ。


所有への衝迫 [Drang nach Eigenthum] としての正体を最も明瞭にあらわすのは性愛 [Liebe der Geschlechter] である。愛する者は、じぶんの思い焦がれている人を無条件に独占しようと欲する。彼は相手の身も心をも支配する無条件の主権を得ようと欲する。彼は自分ひとりだけ愛されていることを願うし、また自分が相手の心のなかに最高のもの最も好ましいものとして住みつき支配しようと望む。…


われわれは全くのところ次のような事実に驚くしかない、ーーつまり性愛 のこういう荒々しい所有欲と不正が、あらゆる時代におこったと同様に賛美され神聖視されている事実、また実に、ひとびとがこの性愛からエゴイズムの反対物とされる愛の概念を引き出したーー愛とはおそらくエゴイズムの最も端的率直な表現である筈なのにーーという事実に、である。

so wundert man sich in der That, dass diese wilde Habsucht und Ungerechtigkeit der Geschlechtsliebe dermaassen verherrlicht und vergöttlicht worden ist, wie zu allen Zeiten geschehen, ja, dass man aus dieser Liebe den Begriff Liebe als den Gegensatz des Egoismus hergenommen hat, während sie vielleicht gerade der unbefangenste Ausdruck des Egoismus is


だがときどきはたしかに地上にも次のような愛の継続[ Fortsetzung der Liebe] がある、つまりその際には二人の者相互のあの所有欲的要求 [habsüchtige Verlange ]がある新しい熱望と所有欲 [neuen Begierde und Habsucht]に、彼らを超えてかなたにある理想へと向けられた一つの共同の高次の渇望[höheren Durste] に道をゆずる、といった風の愛の継続である。そうはいっても誰がこの愛を知っているだろうか? 誰がこの愛を体験したろうか? この愛の本当の名は友情[Freundschaft]である。(ニーチェ『悦ばしき知識』14番、1881年)



ここでの問いは、たとえば二人だけの友情でも、それは信者共同体ではないのかということだ。


プルーストの小説の話者はこう書いている。


友情はきわめてとるに足らぬものであるというのが私の考えかたであり、なんらかの天才と称せられる人たち、たとえばニーチェなどが、これにある種の知的価値を賦与するといった、したがって知的尊敬にむすびつかなかったような友情はこれを認めないといった、そのような素朴な考をもったのは、私の理解に苦しむところなのだ。

ce que je pense de l'amitié : à savoir qu'elle est si peu de chose que j'ai peine à comprendre que des hommes de quelque génie, et par exemple un Nietzsche, aient eu la naïveté de lui attribuer une certaine valeur intellectuelle et en conséquence de se refuser à des amitiés auxquelles l'estime intellectuelle n'eût pas été liée. 

そうだ、自己への誠実さに徹するあまり、良心にとがめて、ワグナーの音楽と手を切るまでになった人間が、本来つかみどころがなく妥当性を欠く表現形式であり、一般的には行為であるが個別的には友情であるこの表現形式のなかに、真実があらわされうると想像した、またルーヴルが焼けたというデマをきいて、自分の仕事をすてて友人に会いに行き、その友人といっしょに泣く、といったことをやりながら、そこに何ほどかの意味がありうると想像した、そんな例を見ると、私はいつもあるおどろきを感じてきたのである。


Oui, cela m'a toujours été un étonnement de voir qu'un homme qui poussait la sincérité avec lui-même jusqu'à se détacher, par scrupule de conscience, de la musique de Wagner, se soit imaginé que la vérité peut se réaliser dans ce mode d'expression par nature confus et inadéquat que sont, en général, des actions et, en particulier, des amitiés, et qu'il puisse y avoir une signification quelconque dans le fait de quitter son travail pour aller voir un ami et pleurer avec lui en apprenant la fausse nouvelle de l'incendie du Louvre 。


私がバルベックで若い娘たちとあそぶことに快楽を見出すにいたったのも、そういう考えかたからなので、つまりそんな快楽は、精神生活にとって友情よりも有害ではない、すくなくとも精神生活とはかかわりがないと思われたのであって、そもそも友情なるものは、われわれ自身のなかの、伝達不可能な(芸術の手段による以外は)、唯一の真実な部分を、表面だけの自我[un moi superficiel]のために犠牲にするという努力ばかりを要求するのであり、この表面だけの自我のほうは、もう一つの真実の自我のようには自己のなかによろこびを見出さないで、自分が外的な支柱にささえられ、他人から個人的に厚遇されていると感じて、つかみどころのない感動をおぼえる、そしてそういう感動にひたりながら、この表面だけの自我[un moi superficiel]は、そとからあたえられる保護に満悦し、その幸福感をにこにこ顔でほめたたえ、自己のなかでなら欠点と呼んでそれを矯正しようとつとめるであろうような相手の性癖のたぐいにも、目を見張って関心するのである。

J'en étais arrivé, à Balbec, à trouver le plaisir de jouer avec des jeunes filles moins funeste à la vie spirituelle, à laquelle du moins il reste étranger, que l'amitié dont tout l'effort est de nous faire sacrifier la partie seule réelle et incommunicable (autrement que par le moyen de l'art) de nous-même, à un moi superficiel, qui ne trouve pas comme l'autre de joie en lui-même, mais trouve un attendrissement confus à se sentir soutenu sur des étais extérieurs, hospitalisé dans une individualité étrangère, où, heureux de la protection qu'on lui donne, il fait rayonner son bien-être en approbation et s'émerveille de qualités qu'il appellerait défauts et chercherait à corriger chez soi-même.(プルースト 「ゲルトマントのほう」)



ニーチェの名をあげて友情批判をしているのはこの個所だけだが、こういった記述ーー表面だけの自我[un moi superficiel]にかかわる記述ーーは他にも種々ある。➡︎「プルーストの友情批判」)



友情で、《私が味わうのは、自分にとって本然のものである快感とは正反対のもの、自分の薄くらがりにかくれている何かを自分自身からひきだしてそれをあかるみにひきだしたというあの快感とは正反対のものなのであった。》(プルースト「花咲く乙女たちのかげに」)


《ひとりでいると、ときどき、なんともいえないやすらかなたのしい気持に私をさそうあの印象のあるものが、私の心の底からあふれあがるのを感じるのであった。ところが、誰かといっしょになったり、友人に話しかけたりすると、すぐ私の精神はくるりと向きを変え、思考の方向は、私自身にではなく、その話相手に移ってしまうので、思考がそんな反対の道をたどっているときは、私にはどんな快楽もえられないのであった。》(同上)


《精神高揚のための力を友情に費すのはいわばお門違であり、そのやりかたでは、なんの得るところもなくておわる個人的友情を目ざすことになり、もともと精神高揚のための力はわれわれを真実にみちびくものであるのに、その真実からそれてしまうことになる》(「見出された時」)等々


友情という語は出てこないが、次の文も同じ文脈のなかにある。


未知のシーニュ(私が注意力を集中して、私の無意識を探索しながら、海底をしらべる潜水夫のように、手さぐりにゆき、ぶつかり、なでまわす、いわば浮彫状のシーニュ)[ces signes inconnus (de signes en relief, semblait-il, que mon attention explorant mon inconscient allait chercher, heurtait, contournait, comme un plongeur qui sonde)](プルースト『見出された時』)


われわれ自身から出てくるものといえば、われわれのなかにあって他人は知らない暗所から、われわれがひっぱりだすものしかないのだ。Ne vient de nous-même que ce que nous tirons de l'obscurité qui est en nous et que ne connaissent pas les autres. (プルースト「見出された時」)



ほかにも私が長いあいだ愛してきた文。


この音楽のなかで、くらがりにうごめくはっきりしない幼虫[ larves obscures alors indistinctes] のように目につかなかったいくつかの楽節が、いまはまぶしいばかりにあかるい建造物になっていた。そのなかのある楽節はうちとけた女の友人たちにそっくりだった、はじめはそういう女たちに似ていることが私にはほとんど見わけられなかった、せいぜいみにくい女たちのようにしか見えなかった、ところが、たとえば最初虫の好かなかった相手でも、いったん気持が通じたとなると、思いも設けなかった友人を発見したような気にわれわれがなる、そんな相手に似ているのであった。このような二つの状態のあいだに起きたのは、まぎれもない質の変化ということだった。それとはべつに、いくつかの楽節によっては、はじめからその存在ははっきりしていたが、そのときはどう理解していいかわからなかったのに、いまはどういう種類の楽節であるかが私に判明するのであった……(プルースト「囚われの女」)



ーーニーチェも事実上、多くの時期はこれらプルーストの書くようではなかったのか、その問いはここでは保留しておこう。


ドゥルーズは上のプルーストに依拠しつつこう書いている。



哲学者には、《友人》が存在する。プルーストが、哲学にも友情にも、同じ批判をしているのは重要なことである。Dans philosophe, il y a « ami ». li est important que Proust adresse la même critique à la philosophie et à l'amitié. 


友人たちは、事物や語の意味作用について意見が一致する、積極的意志のひとたちとして、互いに関係している。彼らは、共通の積極的意志の影響下にたがいにコミュニケーションをする。Les amis sont, l'un par rapport à l'autre, comme des esprits de bonne volonté qui s'accordent sur la signification des choses et des mots: ils communiquent sous l'effet d'une bonne volonté commune.


哲学は、明白で、コミュニケーションが可能な意味作用を規定するため、それ自体と強調する、普遍的精神の実現のようなものである。La philosophie est comme l'expression d'un Esprit universel qui s'accorde avec soi pour déterminer des significations explicites et communicables. 


プルーストの批判は、本質的なものにかかわっている。つまり、真実は、思考の積極的意志  にもとづいている限り、恣意的で抽象的なままだというのである。La critique de Proust touche à l'essentiel : les vérités restent arbitraires et abstraites, tant qu'elles se fondent sur la bonne volonté de penser. 


慣習的なものだけが明示的である。つまり、哲学は、友情と同じように、思考に働きかける、影響力のある力、われわれに無理やりに考えさせるもろもろの決定力が形成される、あいまいな地帯を無視している。Seul le conventionnel est explicite. C'est que la philosophie, comme l'amitié, ignore les zones obscures où s'élaborent les forces effectives qui agissent sur la pensée, les déterminations qui nous forcent à penser.


思考することを学ぶには、積極的意志や、作り上げられた方法では決して十分ではない。真実に接近するには、友人では足りない。ひとびとは慣習的なものしか伝達しない。人間は、可能なものしか生み出さない。


 Il n'a jamais suffi d'une bonne volonté, ni d'une méthode élaborée, pour apprendre à penser; il ne suffit pas d'un ami pour s'approcher du vrai. Les esprits ne se communiquent entre eux que le conventionnel; l'esprit n'engendre que le possible. 


哲学の真実には、必然性と、必然性の爪が欠けている。実際、真実はおのれを示すのではなく、おのずから現れるのである。それはおのれを伝達せず、おのれを解釈する。真実は望まれたものではなく、無意志的である。.


Aux vérités de la philosophie, il manque la nécessité, et la griffe de la nécessité. En fait, la vérité ne se livre pas, elle se trahit ; elle ne se communique pas, elle s'interprète; elle n'est pas voulue, elle est involontaire. Le grand thème du Temps retrouvé est celui-ci : la recherche de la vérité est l'aventure propre de l'involontaire. 


『見出された時』の大きなテーマは、真実の探求が、無意志的なものに固有の冒険だということである。思考は、無理に思考させるもの、思考に暴力をふるう何かがなければ、成立しない。思考より重要なことは、《思考させる》ものがあるということである。哲学者よりも、詩人が重要である。

Le grand thème du Temps retrouvé est celui-ci : la recherche de la vérité est l'aventure propre de l'involontaire. La pensée n'est rien sans quelque chose qui force à penser, qui fait violence à la pensée. Plus important que la pensée, il y a ce qui « donne à penser» ; plus important que le philosophe, le poète. 〔・・・〕


『見出された時』にライトモチーフは、「強制する forcer」という言葉である。たとえば、我々に見ることを強制する印象とか、我々に解釈を強制する出会いとか、我々に思考を強制する表現、などである。


Le leitmotiv du Temps retrouvé, c'est le mot forcer : des impressions qui nous forcent à regarder, des rencontres qui nous forcent à interpréter, des expressions qui nous forcent à penser. 〔・・・〕


われわれは、無理に強制されて、時間の中でのみ真実を探求する。真実の探求者とは、恋人の表情に、嘘のシーニュを読み取る、嫉妬する者である 。Nous ne cherchons la vérité que dans le temps, contraints et forcés. Le chercheur de vérité, c'est le jaloux qui surprend un signe mensonger sur le visage de l'aimé. 


それは、印象の暴力に出会う限りにおいての、感覚的な人間である。C'est l'homme sensible, en tant qu'il rencontre la violence d'une impression. 


それは、天才がほかの天才に呼びかけるように、芸術作品が、おそらくは創造を強制するシーニュを発する限りにおいて、読者であり、聴き手である。C'est le lecteur, c'est l'auditeur, en tant que l'œuvre d'art émet des signes qui le forcera peut.être à créer, comme l'appel du génie à d'autres génies. 


恋する者の沈黙した解釈の前では、おしゃべりの友人同士のコミュニケーションはなきに等しい。Les communications de l'amitié bavarde ne sont rien, face aux interprétations silencieuses d'un amant. 


哲学は、そのすべての方法と積極的意志があっても、芸術作品の秘密な圧力の前では無意味である。La philosophie, avec toute sa méthode et sa bonne volonté, n'est rien face aux pressions secrètes de l'œuvre d'art. 


思考する行為の発生としての創造は、常にシーニュから始まる。芸術作品は、シーニュを生ませるとともに、シーニュから生まれる。創造する者は、嫉妬する者のように、真実がおのずから現れるシーニュを監視する、神的な解釈者である。Toujours la création, comme la genèse de l'acte de penser, part des signes. L'œuvre d'art naît des signes autant qu'elle les fait naître ; le créateur est comme le jaloux, divin interprète qui surveille les signes auxquels la vérité se trahit. 

(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「思考のイマージュ」第2版、1970年)



このなかで私が特に好むのは、《恋する者の沈黙した解釈の前では、おしゃべりの友人同士のコミュニケーションはなきに等しい。Les communications de l'amitié bavarde ne sont rien, face aux interprétations silencieuses d'un amant. 》である。