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2021年12月24日金曜日

アンチキリスト[DER ANTICHRIST]=根源的キリスト教[das ursprüngliche Christentum]

 


キリスト教が、その最初の地盤を、最下層の階級を、古代世界の冥府[die Unterwelt der antiken Welt]を立ちさったとき、権力をもとめて野蛮民族のあいだへと出かけていったとき、そこで前提となったのは、もはや疲れた人間ではなく、内的に粗野となったおのれを引き裂く人間、――強いが、しかし出来そこないの人間であった。

Das Christentum, als es seinen ersten Boden verließ, die niedrigsten Stände, die Unterwelt der antiken Welt, als es unter Barbaren-Völkern nach Macht ausging, hatte hier nicht mehr müde Menschen zur Voraussetzung, sondern innerlich verwilderte und sich zerreißende ― den starken Menschen, aber den mißratnen. (ニーチェ『反キリスト者』第22章、1888年)



ニーチェにとって、アンチキリスト[DER ANTICHRIST]とは、根源的キリスト教[das ursprüngliche Christentum]のことである。それは次の文を読めば明白である。


――もとに話をかえして、私はキリスト教のほんとうの歴史を物語る。――すでに「キリスト教」という言葉が一つの誤解であるーー、根本においてはただ一人のキリスト教者がいただけであって、その人は十字架で死んだのである[― Ich kehre zurück, ich erzähle die echte Geschichte des Christentums. ― Das Wort schon »Christentum« ist ein Mißverständnis ―, im Grunde gab es nur einen Christen, und der starb am Kreuz. ]


「福音」は十字架で死んだのである。この瞬間以来「福音」と呼ばれているものは、すでに、その人が行きぬいたものとは反対のものであった。すなわち、「悪しき音信」、禍音であった[Das »Evangelium« starb am Kreuz. Was von diesem Augenblick an »Evangelium« heißt, war bereits der Gegensatz dessen, was er gelebt: eine »schlimme Botschaft«, ein Dysangelium.]


「信仰」のうちに、たとえばキリストによる救済の信仰のうちに、キリスト者のしるしを見てとるとすれば、それは馬鹿げきった誤りである。たんにキリスト教的実践のみが、十字架で死んだその人が生きぬいたと同じ生のみが、キリスト教的なのである・・・[Es ist falsch bis zum Unsinn, wenn man in einem »Glauben«, etwa im Glauben an die Erlösung durch Christus das Abzeichen des Christen sieht: bloß die christliche Praktik, ein Leben so wie der, der am Kreuze starb, es lebte, ist christlich...]


今日なおそうした生は可能であり、或る種の人たちにとってはそのうえ必然的ですらある。真正のキリスト教、根源的キリスト教は、いかなる時代にも可能であるであろう・・・[Heute noch ist ein solches Leben möglich, für gewisse Menschen sogar notwendig; das echte, das ursprüngliche Christentum wird zu allen Zeiten möglich sein .. . ]


信仰ではなく、行為、なによりも、多くのことをおこなわないこと、別様の存在である・・・[Nicht ein Glauben, sondern ein Tun, ein Vieles-nicht-tun vor allem, ein andres Sein . . . ]


意識の状態、たとえば、信仰とか真なりと思いこむとかはーーいずれの心理学者も知っていることだがーー本能の価値にくらべれば完全にどうでもよいことであり、五級どころのことである。もっと厳密に言うなら、精神的因果性の全概念が誤りなのである。キリスト者であることを、キリスト者であるゆえんのものを、真なりと思いこむことに、たんなる意識の現象性に還元することは、キリスト者であるゆえんのものを否定することにほかならない。実際のところ一人のキリスト者も全然いなかったのである。


「キリスト者」なるものは、二千年以来キリスト者と呼ばれているものは、たんに心理学的な自己誤解にすぎない[Der »Christ«, das, was seit zwei Jahrtausenden Christ heißt, ist bloß ein psychologisches Selbst-Mißverständnis. ](ニーチェ『反キリスト者』第39章、1888年)


ニーチェが最も嫌ったのは、何もせず祈りを捧げるだけで「行為」のない信者あるいは信者共同体、その究極は、俗うけするメシア待望 [die populäre Erwartung eines Messias」を語る信者たちである。


――福音の宿業はあの死とともに決せられた、――それは「十字架」にかかったのである・・・[― Das Verhängnis des Evangeliums entschied sich mit dem Tode  ― es hing am »Kreuz« ... ]


死がはじめて、この予期もしない恥ずべき死がはじめて、一般にはたんに悪党をかえるためにのみ取っておかれた十字架がはじめて、――この最も身の毛のよだつパラドックスがはじめて、使途たちに本来の謎を提示した、「あれは誰であったのか? あれは何であったのか?」――動揺させられ、最も深い傷手をおった感情、そうした死はおのれたちの関心事の論駁であるかもしれないとの疑惑、「なぜまさしくこうであるのか?」との恐ろしい疑問符――こうした状態はあまりにもよく理解できることである。


ここでは万事が必然的であり、意味を、合理性を、最高の合理性をもたなければならなかった。使徒の愛はなんらの偶然も知らないのである。いまやはじめて深淵が口を開いた、「彼を殺してしまったのは誰か? 彼のほんとうの敵は誰であったのか?」――こうした問いが閃光のごとくひらめいたのである。答え、支配権をにぎっているユダヤ人ども、その最上流階級。この瞬間以来彼らはおのれたちが秩序に反抗する叛乱のうちにあると自覚し、その後はイエスをも秩序に反抗して叛乱をくわだてたと解した。そのときまでは、こうした戦闘的な、こうした否と断言し、否を実行する特徴はイエスの像のうちにはなかった。それどころか、彼はこうしたこととはあいいれなかった。


明らかにこの小さな集団はまさしく主要な点を理解していなかった、自由、ルサンチマンのあらゆる感情を越えでた卓越性という、こうした死に方のうちにある模範を、――これこそ、総じて彼らがイエスをいかに少ししか理解していなかったかを示す一つの目じるしである! 本来イエスがその死でねがったのは、おのれの教えの最も強力な証拠を、証明を公然とあたえるということ以外の何ものでもありえなかった・・・[An sich konnte Jesus mit seinem Tode nichts wollen, als öffent lich die stärkste Probe, den Beweis seiner Lehre zu geben ... ]


しかし彼の使徒たちには、この死を容赦することなど思いもおよばなかった、――そうすれば、最高の意味で福音的であったであろうに。ましてや、心の柔和な好ましい平安のうちでイエスと同じ死にわが身を提供することなど思いもおよばなかった・・・まさしくこのうえなく非福音的な感情が、復讐が、ふたたび優勢となった。事態がこうした死でけりがつくことなどありうべからざることであった。「報復」が、「審判」が必要となったのである(――しかし、「報復」、「罰」、「審判」にもまして非福音的なものがなおありえようか!)。


もういちど俗うけするメシアの待望が前景にでてきた。歴史上の一瞬間が注視された、「神の国」はその敵を審くために来るというのである・・・[Noch einmal kam die populäre Erwartung eines Messias in den Vordergrund; ein historischer Augenblick wurde ins Auge gefaßt: das »Reich Got tes« kommt zum Gericht über seine Feinde ... ]


しかしかくして万事が誤解されてしまった、終幕としての、約束としての「神の国」とは! だが、福音とはまさしく、この「国」の現存、実現、現実であったのだ。まさしくそうした死こそこの「神の国」であった。いまやはじめて、パリサイ人や神学者に対する軽蔑や反感の全部が師の類型のうちへともちこまれた、――かくして師その人が一箇のパリサイ人、神学者にでっちあげられた!  


他方、これらまったくの支離滅裂におちいった者どもの狂暴となった崇拝は、イエスが教えたところの、誰にも神の子たるの資格をあたえるあの福音的な平等観はもはや我慢できなくなった。彼らの復讐は、法外な仕方でイエスを持ちあげ、おのれたちから引きはなすことであったのである。あたかも、以前ユダヤ人がその敵たちへの復讐からその神をおのれたちから引きはなして、高所に持ちあげてしまったのとまったく同様である。ただ一つの神とただ一人の神の子、この両者こそルサンチマンの所産である・・・[ Der eine Gott und der eine Sohn Gottes: beides Erzeugnisse des ressentiment...](ニーチェ『反キリスト者』第40章 )





この文脈のなかで前回引用した文がある。前後を含め、もう少し長く掲げておこう。


私が嘘と名づけるのは、見ているものを見ようとしないこと、見えるとおりにものを見ようとしないことである。はたして目撃者の面前で嘘するのか、目撃者がいないとき嘘するのかは、考慮しなくともよいことなのである。


最もよく見られる嘘は、自分自身を欺く嘘であり、他人を欺くのは比較的に例外の場合である[Die gewöhnlichste Lüge ist die, mit der man sich selbst belügt; das Belügen andrer ist relativ der Ausnahmefall. ]


――ところで、この見ているものを見ようとしないこと、この見えるとおりに見ようとしないことは、なんらかの意味で党派的であるすべての人にとっては、ほとんど第一条件である[― Nun ist dies Nicht-sehn-wollen, was man sieht, dies Nicht-so-sehn-wollen, wie man es sieht, beinahe die erste Bedingung für alle, die Partei sind, in irgendwelchem Sinne:]


すなわち、党派人は必然的に嘘つきとなる[der Parteimensch wird mit Notwendigkeit Lügner]。党派的な人は誰でも、本能的に、道徳的な大きな言葉を口にするものである。そうであってみれば、道徳が存続するのはあらゆる種類の党派人がそれをたえまなく必要とするからだ、という事実に、もはや驚くこともあるまい。(ニーチェ『反キリスト者 DER ANTICHRIST』第55章 、1888年)



……………………



何度も繰り返しているが、フロイトはニーチェに多くを負っている。上のニーチェの「翻訳」のいくつかが次の文である。


信者の共同体[Glaubensgemeinschaft]…そこにときに見られるのは他人に対する容赦ない敵意の衝動[rücksichtslose und feindselige Impulse gegen andere Personen]である。…宗教は、たとえそれが愛の宗教[Religion der Liebe ]と呼ばれようと、所属外の人たちには過酷で無情なものである。


もともとどんな宗教でも、根本においては、それに所属するすべての人びとにとっては愛の宗教であるが、それに所属していない人たちには残酷で偏狭になりがちである[Im Grunde ist ja jede Religion eine solche Religion der Liebe für alle, die sie umfaßt, und jeder liegt Grausamkeit und Intoleranz gegen die Nichtdazugehörigen nahe. ](フロイト『集団心理学と自我の分析』第5章、1921年)


集団は異常に影響をうけやすく、また容易に信じやすく、批判力を欠いている[Die Masse ist außerordentlich beeinflußbar und leichtgläubig, sie ist kritiklos,] 〔・・・〕

集団にはたらきかけようと思う者は、自分の論拠を論理的に組みたてる必要は毛頭ない。きわめて強烈なイメージをつかって描写し、誇張し、そしていつも同じことを繰り返せばよい[Wer auf sie wirken will, bedarf keiner logischen Abmessung seiner Argumente, er muß in den kräftigsten Bildern malen, übertreiben und immer das gleiche wiederholen.](フロイト『集団心理学と自我の分析』第2章)

集団内部の個人は、その集団の影響によって彼の精神活動にしばしば深刻な変化をこうむる。彼の情動は異常にたかまり、彼の知的活動[ intellektuelle Leistung] はいちじるしく制限される。そして情動と知的活動は両方とも、集団の他の個人に明らかに似通ったものになっていく。そしてこれは、個人に固有な欲動制止 [Triebhemmungen] が解除され、個人的傾向の独自な発展を断念することによってのみ達せられる結果である。


この、のぞましくない結果は、集団の高度の「組織」によって、少なくとも部分的にはふせがれるといわれたが、集団心理の根本事実である原集団 [primitiven Masse」 における情動興奮[Affektsteigerung]と思考の制止[Denkhemmung] という二つの法則は否定されはしない。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第4章、1921年)





もうふたつ、別の翻訳ヴァージョンを掲げておこう。


ただ一人の者への愛は一種の野蛮である。それはすべての他の者を犠牲にして行なわれるからである。神への愛もまた然りである[Die Liebe zu Einem ist eine Barbarei: denn sie wird auf Unkosten aller Übrigen ausgeübt. Auch die Liebe zu Gott.](ニーチェ『善悪の彼岸』第67番、1986年)


原初的集団は、同一の対象を自我理想の場に置き、その結果おたがいの自我において同一化する集団である[Eine solche primäre Masse ist eine Anzahl von Individuen, die ein und dasselbe Objekt an die Stelle ihres Ichideals gesetzt und sich infolgedessen in ihrem Ich miteinander identifiziert haben.](フロイト『集団心理学と自我の分析』第8章、1921年)

指導者や指導的理念が、いわゆるネガティヴの場合もあるだろう。特定の個人や制度にたいする憎悪は、それらにたいする積極的依存と同様に、多くの人々を一体化させるように作用するだろうし、類似した感情的結合を呼び起こしうる[Der Führer oder die führende Idee könnten auch sozusagen negativ werden; der Haß gegen eine bestimmte Person oder Institution könnte ebenso einigend wirken und ähnliche Gefühlsbindungen hervorrufen wie die positive Anhänglichkeit. ](フロイト『集団心理学と自我の分析』第6章、1921年)


…………………



愛とは、人間が事物を、このうえなく、ありのままには見ない状態である。甘美ならしめ、変貌せしめる力と同様、イリュージョンの力 [illusorische Kraft] がそこでは絶頂に達する。

Die Liebe ist der Zustand, wo der Mensch die Dinge am meisten so sieht, wie sie nicht sind. Die illusorische Kraft ist da auf ihrer Höhe, (ニーチェ『反キリスト者』第23節、1888年)


教会ではーー便宜上、カトリック教会を見本にとってみよう〔・・・〕ーー集団のすべての個人を一様に愛する首長がいる、というおなじ眩惑(イリュージョン)[Vorspiegelung (Illusion)]が通用している。


In der Kirche ― wir können mit Vorteil die katholische Kirche… sein mögen, die nämliche Vorspiegelung (Illusion), daß ein Oberhaupt da ist ― in der katholischen Kirche Christus, …―, das alle Einzelnen der Masse mit der gleichen Liebe liebt. (フロイト『集団心理学と自我の分析』第5章、1921年)



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もっとも「翻訳」とは言い過ぎかもしれない。真に「あらゆる信者共同体」を観察すれば、この認識に必ず至ると言っておいてもよい。



弟子(信者)たちよ、わたしはこれから独りになって行く。君たちも今は去るがよい。しかもおのおのが独りとなって。そのことをわたしは望むのだ。

Allein gehe ich nun, meine Jünger! Auch ihr geht nun davon und allein! So will ich es.


まことに、わたしは君たちに勧める。わたしを離れて去れ。そしてツァラトゥストラを拒め。いっそうよいことは、ツァラトゥストラを恥じることだ。かれは君たちを欺いたかもしれぬ。

Wahrlich, ich rathe euch: geht fort von mir und wehrt euch gegen Zarathustra! Und besser noch: schämt euch seiner! Vielleicht betrog er euch. (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第一部「贈りあたえる徳」1883年)