バルトは、《二度と戻ってくるはずのないもののうちで、私に戻ってくるもの、それはにおいである》としている。
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プルーストにおいては、五感のうち三つの感覚によって思い出が導き出される。しかし、その肌理〔きめ〕という点で実は音響的であるよりもむしろ《香りをもつ》ものというべき声を別とすれば、私の場合、思い出や欲望や死や不可能な回帰は、プルーストとはおもむきが異なっている。私の身体は、マドレーヌ菓子や舗石やバルベックのナプキンの話にうまく乗せられることはないのだ。二度と戻ってくるはずのないもののうちで、私に戻ってくるもの、それはにおいである。
Chez Proust, trois sens sur cinq conduisent le souvenir. Mais pour moi, mise à part la voix, moins sonore au fond que, par son grain, parfumée, le souvenir, le désir, la mort, le retour impossible, ne sont pas de ce côté-là ; mon corps ne marche pas dans l’histoire de la madeleine, des pavés et des serviettes de Balbec. De ce qui ne reviendra plus, c’est l’odeur qui me revient. (『彼自身によるロラン・バルト』1975 年)
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五感の古典的区分、アルストテレスに起源がある区分は、視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚だが、バルトはここでプルーストのレミニサンスには嗅覚はないと言っているのだろう。
愛するバルトに文句を言いたくないが、だが匂の回帰はプルーストにないどころではない。ひょっとしてプルーストのレミニサンスはにおいがベースではないか、と言いたくなるほど。
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彼らが私の注意をひきつけようとする美をまえにして私はひややかであり、とらえどころのないレミニサンスにふけっていた[j'étais froid devant des beautés qu'ils me signalaient et m'exaltais de réminiscences confuses]〔・・・〕そして戸口を吹きぬけるすきま風の匂を陶酔するように嗅いで立ちどまったりした。「あなたはすきま風がお好きなようですね」と彼らは私にいった[je m'arrêtai avec extase à renifler l'odeur d'un vent coulis qui passait par la porte. « Je vois que vous aimez les courants d'air », me dirent-ils. ](プルースト「ソドムとゴモラ」)
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すきま風のにおい、ーー書簡にもこうある。
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わたしたちは生がリアルなものだと信じていない、なぜなら忘れてしまっているから。けれども古い匂を嗅いだら、突如として酩酊する[De sorte que nous ne croyons pas la vie réelle parce que nous ne nous la rappelons pas, mais que nous sentions une odeur ancienne, soudain nous sommes enivrés;] (プルースト書簡 Comment parut Du côté de chez Swann. Lettre de M.Proust à René Blum de février 1913)
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マドレーヌの回帰だって味覚の回帰ではなく古い匂の回帰ではないかと疑ってみることだってできる。
バルトが言っている《肌理〔きめ〕という点で実は音響的であるよりもむしろ《香りをもつ》ものというべき声[la voix, moins sonore au fond que, par son grain, parfumée]》、つまり声の粒[le grain de la voix]は回帰する、匂の粒も同じようにだ。
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声の粒[le grain de la voix]…それは、肌で覆われた言語活動であり、喉の粒、子音の艶、母音の官能等、肉体の奥に発する立体音響のすべてが聞えるテクストである。肉体の分節、舌〔ラング〕の分節[c'est le langage tapissé de peau, un texte où l'on puisse entendre le grain du gosier, la patine des consonnes, la volupté des voyelles, toute une stéréophonie de la chair profonde : l'articulation du corps, de la langue]…
あ、こいつ、粒々しているぞ。しゅうしゅういっている。くすぐっている。こすっている。傷つけている。つまり、悦しているのだ。ça granule, ça grésille, ça caresse, ça rape, ça coupe : ça jouit. (ロラン・バルト『快楽のテキスト』1973年)
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ここではどの感覚の回帰があるのかはいったんはもう問わないでおこう。人にはそれぞれの固有の感覚に愛着を覚えている筈だから。重要なのは悦の身体は回帰することである。
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私に快[plaisir]を与えたテクストを《分析》しようとする時、いつも私が見出すのは私の《主体性》subjectivitéではない。私の《個体》individuである。私の身体を他の身体から切り離し、固有の苦痛と快[sa souffrance et son plaisir]を与える与件である。私が見出すのは私の悦の身体[mon corps de jouissance]である。
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そして、この悦の身体[ce corps de jouissance 」はまた私の歴史的主体である。
なぜなら、伝記的、歴史的、神経症的要素(教育、社会階級、小児的形成、等々)が極めて微妙に結合しているからこそ、私は(文化的)快と(非文化的)悦の矛盾した働き[le jeu contradictoire du plaisir (culturel) et de la jouissance (inculturelle)]を調整するのであり、また、余りに遅く来たか、あるいは、余りに早く来たか(この余りには未練や失敗や不運を示しているのではなく、単にどこにもない場所に招いているだけだ)、現に所を得ていない主体[un sujet actuellement mal placé] 時代錯誤的な、漂流している主体[sujet anachronique, en dérive ]として自分自身を置くからである。(ロラン・バルト『テキストの快』1973年)
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悦の身体はわれわれの日常において、常に漂流している。
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私は欲動を翻訳して、漂流、悦の漂流と呼ぶ[j'appelle la dérive pour traduire Trieb, la dérive de la jouissance. ](ラカン、S20、08 Mai 1973)
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ラカンは、悦によって身体を定義するようになる [Lacan en viendra à définir le corps par la jouissance](J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)
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エスの要求によって引き起こされる緊張の背後にあると想定された力を欲動と呼ぶ。欲動は心的生に課される身体的要求である[Die Kräfte, die wir hinter den Bedürfnisspannungen des Es annehmen, heissen wir Triebe.Sie repräsentieren die körperlichen Anforderungen an das Seelenleben.](フロイト『精神分析概説』第2章1939年)
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欲動の身体、悦の身体とはエスの身体である。
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フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne …ce que j'appelle le Réel](Lacan, S23, 13 Avril 1976)
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フロイトのモノ、これが後にラカンにとってエスとなる[das Ding –, qui sera plus tard pour lui la jouissance]。…フロイトのエス、欲動の無意識。事実上、このエスがモノである。[ça freudien, l'inconscient de la pulsion. En fait, cette jouissance, la Chose](J.A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse X, 4 mars 2009)
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漂流するのは快の身体、自我の身体ではなくーー《意識的自我は何よりもまず身体自我である[bewußten Ich ausgesagt haben, es sei vor allem ein Körper-Ich. ]》(フロイト『自我とエス』第2章、1923年)ーー、悦の身体、エスの身体である。
フロイトはこのエスの身体を異者身体[Fremdkörper]と呼んだ。
エスの欲動蠢動は、自我組織の外部に存在し、自我の治外法権である。われわれはこのエスの欲動蠢動を、たえず刺激や反応現象を起こしている異者身体 [Fremdkörper]の症状と呼んでいる[Triebregung des Es … ist Existenz außerhalb der Ichorganisation …der Exterritorialität, …betrachtet das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen ](フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要)
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ラカンがフロイトのモノはリアルだというときのモノ自体、この異者のことである、ーー《モノの概念、それは異者としてのモノである[La notion de ce Ding, de ce Ding comme fremde, comme étranger]》(Lacan, S7, 09 Décembre 1959)
かつての幼い日のあの異者[l'étranger c'était l'enfant que j'étais alors]は必ず回帰する。
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私の現時の思考とあまりにも不調和な何かの印象に打たれたような気がして、はじめ私は不快を感じたが、ついに涙を催すまでにこみあげた感動とともに、その印象がどんなに現時の思考に一致しているかを認めるにいたった。〔・・・〕最初の瞬間、私は腹立たしくなって、誰だ、ひょっこりやってきておれの気分をそこねた見知らぬやつ(異者)は、と自問したのだった。その異者は、私自身だった、かつての少年の私だった。
je me sentis désagréablement frappé comme par quelque impression trop en désaccord avec mes pensées actuelles, jusqu'au moment où, avec une émotion qui alla jusqu'à me faire pleurer, je reconnus combien cette impression était d'accord avec elles.[…] Je m'étais au premier instant demandé avec colère quel était l'étranger qui venait me faire mal, et l'étranger c'était moi-même, c'était l'enfant que j'étais alors, (プルースト「見出された時」)
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過去の復活とは異者が復活すること、悦の身体、エスの身体のレミニサンスだ、ーー《異者身体は、心的痛みを呼び起こし、レミニサンスをもたらす[Fremdkörper…erinnerter psychischer Schmerz …leide größtenteils an Reminiszenzen.]》(フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年、摘要)
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過去の復活[résurrections du passé] は、その状態が持続している短いあいだは、あまりにも全的で、並木に沿った線路とあげ潮とかをながめるわれわれの目は、われわれがいる間近の部屋を見る余裕をなくさせられるばかりか、われわれの鼻孔は、はるかに遠い昔の場所の空気を吸うことを強制され[Elles forcent nos narines à respirer l'air de lieux pourtant si lointains]、われわれの意志は、そうした遠い場所がさがしだす種々の計画の選定にあたらせられ、われわれの全身は、そうした場所にとりかこまれていると信じさせられるか、そうでなければすくなくとも、そうした場所と現在の場所とのあいだで足をすくわれ、ねむりにはいる瞬間に名状しがたい視像をまえにしたときどき感じる不安定にも似たもののなかで、昏倒させられるからである。
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car ces résurrections du passé, dans la seconde qu'elles durent, sont si totales qu'elles n'obligent pas seulement nos yeux à cesser de voir la chambre qui est près d'eux pour regarder la voie bordée d'arbres ou la marée montante. Elles forcent nos narines à respirer l'air de lieux pourtant si lointains, notre volonté à choisir entre les divers projets qu'ils nous proposent, notre personne tout entière à se croire entourée par eux, ou du moins à trébucher entre eux et les lieux présents, dans l'étourdissement d'une incertitude pareille à celle qu'on éprouve parfois devant une vision ineffable, au moment de s'endormir. (プルースト「見出された時」)
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ここでもレミニサンスはにおいである、ーー《われわれの鼻孔は、はるかに遠い昔の場所の空気を吸うことを強制される[Elles forcent nos narines à respirer l'air de lieux pourtant si lointains]》。これが仮に隠喩だとしても、やはり視覚では隠喩としてふさわしくない。
失われた時の匂い、あの身体の記憶、それがどうして痛みとともに回帰しないはずがあろう。
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私の身体は、歴史がかたちづくった私の幼児期である[mon corps, c'est mon enfance, telle que l'histoire l'a faite]。…匂いや疲れ、人声の響き、競争、光など[des odeurs, des fatigues, des sons de voix, des courses, des lumières]、…失われた時の記憶[le souvenir du temps perdu]を作り出すという以外に意味のないもの…(幼児期の国を読むとは)身体と記憶[le corps et la mémoire]によって、身体の記憶[la mémoire du corps]によって、知覚することだ。(ロラン・バルト「南西部の光 LA LUMIÈRE DU SUD-OUEST」1977年)
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人の声、光の回帰ともあるが、バルトにとって至高の光ーー心を引き裂くような光ーーは音楽的な光である。
ある兆候で私は自分が家の敷居をまたいで、幼児期の郷里に入ったことを知らされる。それは、道の脇の松林、家の中庭に立つ棕櫚の木、地面に影をおとして人間の顔のような表情を映し出す独特の雲の高さ。そこから南西部の大いなる光が始まる。高貴でありながら同時に繊細で、決してくすんだり淀んだりしない光(太陽が照っていないときでさえ)。それはいわば空間をなす光で、事物に独特の色あいを与える(もう一つの南部はそうだが)というより、この地方をすぐれて住み心地のよいものにするところに特徴がある。明るい光だ、それ以外にいいようがない[Je ne trouve pas d'autre moyen que de dire : c'est une lumière lumineuse]。その光はこの土地でいちばん季節のいい秋にみるべきだ(私はほとんど「聴くべきだ」といいたい。それほど音楽的な光なのだ)[Il faut la voir, cette lumière (je dirais presque : l'entendre, tant elle est musicale), à l'automne, qui est la saison souveraine de ce pays ]。液体のようで、輝きがあり、心を引き裂くような光、というのも、それは一年の最後の美しい光だから[liquide, rayonnante, déchirante puisque c'est la dernière belle lumière de l'année](ロラン・バルト「南西部の光」1977『偶景』所収)
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悦の回帰、それは喪われた身体の記憶の回帰であり、身体の記憶の根は視覚であるよりも(もし視覚の回帰ということが言いたいなら、何よりもまず光の回帰だ)、おそらくずっと嗅覚の記憶、聴覚の記憶であるだろう。もっとも谷崎潤一郎的な触覚の記憶もおおいにその根にありうるし振動感覚も忘れるわけにはいかない。そして味覚の回帰は口唇感覚の回帰でもありうる。
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反復は悦の回帰に基づいている[la répétition est fondée sur un retour de la jouissance]。〔・・・〕フロイトは強調している、反復自体のなかに、悦の喪失があると[FREUD insiste : que dans la répétition même, il y a déperdition de jouissance]。ここにフロイトの言説における喪われた対象の機能がある。これがフロイトだ[C'est là que prend origine dans le discours freudien la fonction de l'objet perdu. Cela c'est FREUD]. 〔・・・〕フロイトの全テキストは、この「廃墟となった悦」への探求の相がある[conçu seulement sous cette dimension de la recherche de cette jouissance ruineuse, que tourne tout le texte de FREUD.](Lacan, S17, 14 Janvier 1970)
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例えば、人が心を引き裂くような音楽、と感じるとき、あれは喪われた悦の身体の回帰にかかわっているのではないか。
少なくともプルーストの思考の下では、全芸術がレミニサンスにかかわる。
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私は作品の最後の巻ーーまだ刊行されていないーーで、無意識の再起の上に私の全芸術論をすえる[je trouve à ces ressouvenirs inconscients sur lesquels j'asseois, dans le dernier volume non encore publié de mon œuvre, toute ma théorie de l'art, ](Marcel Proust, « À propos du “ style ” de Flaubert » , 1er janvier 1920)
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この「スワン家のほう」はある意味で極めてリアルな書だが、 無意志的記憶を模倣するために、突如のレミニサンスによって支えられている。この書の一部は、私が忘れてしまった私の生の一部であり、マドレーヌのかけらを食べているとき、突然に再発見したものである。C'est un livre extrêmement réel mais supporté en quelque sorte, pour imiter la mémoire involontaire …par des réminiscences brusques une partie du livre est une partie de ma vie que j'avais oubliée, et que tout d'un coup je retrouve en mangeant un peu de madeleine (Comment parut Du côté de chez Swann. Lettre de M.Proust à René Blum de février 1913)
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そして私もこの数年のあいだに真にそう思うようになってきた。いや芸術に限らずすべての愛の感動はレミニサンス、過去の失われた記憶、あの《傷ついた悦[jouissance blessée]》(Colette Soler, Les affects lacaniens 2011)にかかわるのではないか、と。
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ある年齢に達してからは、われわれの愛やわれわれの愛人は、われわれの苦悩から生みだされるのであり、われわれの過去と、その過去が刻印された肉体の傷とが、われわれの未来を決定づける。Or à partir d'un certain âge nos amours, nos maîtresses sont filles de notre angoisse ; notre passé, et les lésions physiques où il s'est inscrit, déterminent notre avenir. (プルースト「逃げ去る女」)
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