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2021年12月16日木曜日

若者たちのBWV4賛!

【音楽日記】

腋毛の実に美しい女は蚊居肢子が24歳のときに死んだ。






彼は棺のなかにBWV4のレコードを入れた。二人がとても愛したカール・リヒター版である。


第3曲 は、「死に打ち勝てる者絶えてなかりき」(Den Tod niemand zwingen kunnt)である。リヒター版は彼にはいまでも重い、あまりにも痛切で。


ところでこの曲を実に愛をこめて歌っている二人の若者がいる。




ああ、この曲にこのように接する方法もあるのか、ひどく心を動かされる。真の文化とはこのようなものである。祈りの気配が微塵もない日本のカラオケ文化とは大違いである。何も父なる神に祈らなくてもよろしい。すれちがう少女の残す腋臭のほのかさに祈りを捧げればよいのである。


もちろん少女たちが笑って通りすぎればなおよい。



ときにふと思うこと、傷心と労苦ののち

運命はなお私を祝福しようとする、

祝日の気分に満ちた日曜の朝

笑いつつ少女らの通りすがるとき……

少女らの笑うのを聞くのはたのしい。

すると長いことその笑いは私の耳に残つている、

決して忘れられぬ、とすら私は思う……

日が丘の向うに消えてゆくとき

私はそれをうたおうと思い立つ……だが

もう頭上で星たちがそれをうたつている……


Manchmal da ist mir: Nach Gram und Müh

will mich das Schicksal noch segnen,

wenn mir in feiernder Sonntagsfrüh

lachende Mädchen begegnen...

Lachen hör ich sie gerne.

Lange dann liegt mir das Lachen im Ohr,

nie kann ichs, wähn ich, vergessen...

Wenn sich der Tag hinterm Hange verlor,

will ich mirs singen... Indessen

singen schon oben die Sterne...


リルケ 第一詩集 XXI  1909年



もっともリルケは後年この詩を自己批判したのではあるが。



愛するものを歌うのはよい。しかし、あの底ふかくかくれ棲む罪科をになう血の河神をうたうのは、それとはまったく別なことだ。恋する乙女が遥かから見わけるいとしいもの、かの若者みずからは、その悦の王[Herren der Lust]について何を知ろう。

EINES ist, die Geliebte zu singen. Ein anderes, wehe, jenen verborgenen schuldigen Fluß-Gott des Bluts. Den sie von weitem erkennt, ihren Jüngling, was weiß er selbst von dem Herren der Lust, 〔・・・〕


聴け、いかに夜がくぼみ、またえぐられるかを。星々よ、いとしい恋人への彼の乞いは、あなたから来るのではなかったか。

Horch, wie die Nacht sich muldet und höhlt. Ihr Sterne, stammt nicht von euch des Liebenden Lust zu dem Antlitz seiner Geliebten 〔・・・〕


朝風に似て歩みもかるくすがしい乙女よ、あなたの出現がかれをかほどまでに激動さしたと、あなたはほんとうに信ずるのか。まことにあなたによってかれの心は驚愕した。けれど、もっと古くからの恐怖がこの感動に触発されてかれの中へと殺到したのだ。彼を揺すぶれ、目覚めさせよ…しかしあなたは、彼を暗いものとの交わりから完全に呼びさますことはできない。Meinst du wirklich, ihn hätte dein leichter Auftritt also erschüttert, du, die wandelt wie Frühwind? Zwar du erschrakst ihm das Herz; doch ältere Schrecken stürzten in ihn bei dem berührenden Anstoß. Ruf ihn . . .  du rufst ihn nicht ganz aus dunkelem Umgang. 


ーーリルケ『ドゥイノエレギー』第三歌より


そう、悦の王[Herren der Lust]に気づいたのである、愛とは第一詩集のように甘っちょろいものではないことを齢をかさねて知ったのである。


したがって重要なのは少女の笑い声ではない、少女の残す腋臭である。



においを嗅ぐ悦[Riechlust]のうちには、さまざまの傾向が混じり合っているが、そのうちには、下等なものへの昔からの憧れ、周りをとり巻く自然との、土と泥との、直接的合一への憧れが生き残っている[alte Sehnsucht nach dem Unteren fort, nach der unmittelbaren Vereinigung mit umgebender Natur, mit Erde und Schlamm]。対象化することなしに魅せられるにおいを嗅ぐという働きは、あらゆる感性の特徴について、もっとも感覚的には、自分を失い他人と同化しようとする衝動[Drang]について、証しするものである。だからこそにおいを嗅ぐことは、知覚の対象と同時に作用であり――両者は実際の行為のうちでは一つになる――、他の感覚よりは多くを表現する。見ることにおいては、人は人であることにとどまっているが、嗅ぐことにおいて、人は消えてしまう[Im Sehen bleibt man, wer man ist, im Riechen geht man auf. ]。だから文明にとって嗅覚は恥辱[Geruch als Schmach]であり、社会的に低い階層、少数民族と卑しい動物たちの特徴という意味を持つ。文明人にはそういう悦[Lust]に身をまかせることは許されない。(アドルノ&ホルクハイマー『啓蒙の弁証法』第5章、1947年)




ああ話が逸れてしまった、あの至高のカンタータに戻らねばならぬ。


BWV4の7曲目は「かくて我ら尊き祭を言祝ぎ」(So feiern wir das hohe Fest)である。これも二人の若者が歌っている。





これまた実に素晴らしい、

このように接するべきなのだ。

二人は悦の王について知りつつある

関係性にあるようにみうけられる。

それがなおよい。


彼を揺すぶれ、目覚めさせよ…

しかしあなたは、彼を暗いものとの交わりから

完全に呼びさますことはできない。


ああ若者たちのBWV4賛!