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2022年1月23日日曜日

自閉症と母なるモノ

以下、現在の日本で使われている「自閉症」とはおそらく大きく異なるという前提で読まれたし。

……………

自閉[Autismus]という語は、ギリシャ語のautos-(ατός 自己)と-ismos(状態)を組み合わせた造語であり、もともとは、自己状態、自己身体状態の意味である。

自閉症概念の創出者ブロイラーは、自閉症をフロイトの自体性愛と事実上、等置している。


自閉症はフロイトが自体性愛と呼ぶものとほとんど同じものである [Autismus ist ungefähr das gleiche, was Freud Autoerotismus nenn](オイゲン・ブロイラー『早発性痴呆または精神分裂病群 Dementia praecox oder Gruppe der Schizophrenien』1911年)


分裂病概念の創出者でもあるブロイラーにとって、自閉症とは最も重度の分裂病である。


外界とはもはや何の交流もない最も重度の分裂病者は、彼ら自身の世界に生きている。彼らは、叶えられたと思っている願望や迫害されているという苦悩を携えて繭の中に閉じこもるのである。彼らは可能なかぎり、外界から自らを切り離す。この「内なる生 Binnenlebens」の相対的、絶対的優位を伴った現実からの遊離を、われわれは自閉症[Autismus]と呼ぶ。


Die schwersten Schizophrenien, die gar keinen Verkehr mehr pflegen, leben in einer Welt für sich; sie haben sich mit ihren Wünschen, die sie als erfüllt betrachten, oder mit den Leiden ihrer Verfolgung in sich selbst verpuppt und beschranken den Kontakt mit der Außenwelt so weit als möghch.Diese Loslösung von der Wirklichkeit zusammen mit dem relativen und absoluten Uberwiegen des Binnenlebens nennen wir Autismus.(オイゲン・ブロイラー『早発性痴呆または精神分裂病群 Dementia praecox oder Gruppe der Schizophrenien』1911年)




さてブロイラーのいう自閉症≒自体性愛とは自己身体愛であり、フロイトは原初にある欲動としている。


自体性愛的欲動は原初的である[Die autoerotischen Triebe sind aber uranfänglich](フロイト『ナルシシズム入門』第1章、1914年)


これがラカン派の自己身体の享楽である。


自閉症的享楽としての自己身体の享楽がある[il y a comme jouissance du corps propre, comme jouissance autiste] (J.-A. Miller, L'ÊTRE ET L'UN -2 mai 2001)


自閉症的享楽という表現自体は、ラカンのセミネールⅩに一度だけ現れる。




去勢(-φ)を軸に、


自己身体[corps proper]

原ナルシシズム[narcissisme primaire]

自体性愛 [auto-érotisme]

自閉症的享楽[jouissance autiste]


と等置している。これは「自己身体=原ナルシシズム=自体性愛=自閉症」の対象は、去勢されているという意味である。


「自閉症的」にだけ「享楽」がついているが、他の語彙にももちろん享楽を付記しうる。


自己身体の享楽[jouissance du corps propre]

=原ナルシシズム的享楽[jouissance narcissique primaire]

=自体性愛的享楽[jouissance  auto-érotique]

=自閉症的享楽[jouissance autiste]






これらの表現群がラカンの享楽自体なのである。


享楽は去勢である[la jouissance est la castration](Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)

去勢は享楽の名である[la castration est le nom de la jouissance ] (J.-A. MILLER, - L'Être et l 'Un 25/05/2011)


別の言い方なら、フロイトの自体性愛がラカンの享楽である。


ラカンは、享楽によって身体を定義するようになる。より正確に言えばーー私は今年、強調したいがーー、享楽とは、フロイディズムにおいて自体性愛と伝統的に呼ばれるもののことである。〔・・・〕ラカンはこの自体性愛的性質を、全き厳密さにおいて、欲動概念自体に拡張した。ラカンの定義においては、欲動は自体性愛的である。

Lacan en viendra à définir le corps par la jouissance, et plus précisément, comme je l'ai accentué cette année, par sa jouissance, qu'on appelle traditionnellement dans le freudisme l'auto-érotisme. […] Lacan a étendu ce caractère auto-érotique  en tout rigueur à la  pulsion elle-même. Dans sa définition lacanienne, la pulsion est auto-érotique. (J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)


もっとも自体性愛という表現には十全に注意しなければならない。実体は「去勢された」自己身体愛である。


享楽自体は、自体性愛・自己身体のエロスに取り憑かれている。そしてこの根源的な自体性愛的享楽は、障害物によって徴づけられている。根底は、去勢と呼ばれるものが障害物の名である。この去勢が自己身体の享楽の徴である。この去勢された享楽の対象は、外密のポジションにある。ラカンはこの外密をモノの名として示した。[ La jouissance comme telle est hantée par l'auto-érotisme, par l'érotique de soi-même, et c'est cette jouissance foncièrement auto-érotique qui est marquée de l'obstacle. Au fond, ce qu'on appelle la castration, c'est le nom de l'obstacle qui marque la jouissance du corps propre. Cet objet de la jouissance … comme occupant une position extime, …c'est ce que Lacan a désigné du nom de la Chose](J.-A. Miller,Introduction à l'érotique du temps, 2004)


去勢された享楽の対象がモノ=外密とある(外密[Extimité]とは親密な外部という意味で、フロイトのモノ[das Ding]=不気味なもの[Unheimliche]=異者身体[Fremdkörper]と同じ意味)。


何度か示しているが、フロイトラカンにおいて穴喪失去勢(トラウマ喪失去勢)は等価である[参照]。つまり去勢された自己身体の享楽とは、喪われた自己身体の享楽である。ミレールの言う「去勢された享楽の対象」とは「喪われた享楽の対象」と同一であり、これがモノである。


享楽の対象としてのモノは、快原理の彼岸にあり、喪われた対象である[Objet de jouissance …La Chose…au niveau de l'Au-delà du principe du plaisir…cet objet perdu](Lacan, S17, 14 Janvier 1970、摘要)



モノについては、このところ二度にわたって示しているが[参照1][参照2]、次の語彙のどれを置き換えてもよい。フロイトラカンにおいてすべて等価である。




現代ラカン派において何よりも強調されているのは固着であり、その原点の意味は喪われた自己身体=母の身体への固着である。




固着は、フロイトが原症状と考えたものである[Fixations, which Freud considered to be primal symptoms,](Paul Verhaeghe and Declercq, Lacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way, 2002)

分析経験の基盤は厳密にフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである[fondée dans l'expérience analytique, et précisément dans ce que Freud appelait Fixierung, la fixation. ](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)

精神分析における主要な現実界の到来は、固着としての症状である[l'avènement du réel majeur de la psychanalyse, c'est Le symptôme, comme fixion,](Colette Soler, Avènements du réel, 2017年)


享楽は真に固着にある。人は常にその固着に回帰する[La jouissance, c'est vraiment à la fixation … on y revient toujours. ](J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse, 20/5/2009)

サントームは固着である[Le sinthome est la fixation]. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)

われわれは言うことができる、サントームは固着の反復だと。サントームは反復プラス固着である。[On peut dire que le sinthome c'est la répétition d'une fixation, c'est même la répétition + la fixation]. (Alexandre Stevens, Fixation et Répétition ― NLS argument, 2021/06)



例えば1909年のフロイトは自体性愛は固着に近似する言っている。


自体性愛から対象愛への発展において、ある点に固着されたままのものがあり、それは自体性愛に近似する[Sie sind in der Entwicklung vom Autoerotismus zur Objektliebe an einer Stelle, dem Autoerotismus näher, fixiert geblieben. ](フロイト『症例ハンス』第3章、1909年)


後年のフロイトは喪失=去勢された自己身体(母の身体)と言っているが、この喪われた自己身体への固着が自体性愛である。


乳児はすでに母の乳房が毎回ひっこめられるのを去勢[der Säugling schon das jedesmalige Zurückziehen der Mutterbrust als Kastration」つまり、自己身体の重要な一部の喪失[Verlust eines bedeutsamen, zu seinem Besitz gerechneten Körperteils] と感じるにちがいないこと、規則的な糞便もやはり同様に考えざるをえないこと、そればかりか、出産行為[Geburtsakt ]がそれまで一体であった母からの分離[Trennung von der Mutter, mit der man bis dahin eins war]として、あらゆる去勢の原像[Urbild jeder Kastration]であるということが認められるようになった。(フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』「症例ハンス」1909年ーー1923年註)


母へのエロス的固着の残滓は、しばしば母への過剰な依存形式として居残る[Als Rest der erotischen Fixierung an die Mutter stellt sich oft eine übergrosse Abhängigkeit von ihr her](フロイト『精神分析概説』第7章、1939年)

オットー・ランクは『出産外傷[Das Trauma der Geburt]』にて、出生という行為は、一般に、母への原固着[ »Urfixierung«an die Mutter ]が克服されないまま、原抑圧[Urverdrängung]を受けて存続する可能性をともなうと仮定した。これが原トラウマ[Urtrauma]である。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第1章、1937年、摘要)



原ナルシシズム的リビドーという表現が出現する文も掲げておこう。


疑いもなく最初は、子供は乳房と自己身体とのあいだの区別をしていない[Die Brust wird anfangs gewiss nicht von dem eigenen Körper unterschieden]。


乳房が身体から分離され「外部」に移行されなければならないときーー子供はたいへんしばしば乳房の不在を見出す--、幼児は、対象としての乳房を、原ナルシシズム的リビドー備給の部分と見なす。[wenn sie vom Körper abgetrennt, nach „aussen" verlegt werden muss, weil sie so häufig vom Kind vermisst wird, nimmt sie als „Objekt" einen Teil der ursprünglich narzisstischen Libidobesetzung mit sich.](フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』第7章、1939年)


原ナルシシズム的リビドーは上に図として示したラカンの「原ナルシシズム的享楽=自己身体の享楽=自閉症的享楽」であり、これが自体性愛であり、母なるモノの享楽[la jouissance de la Chose maternelle]である[参照]。


例えばジャック=アラン・ミレールは自閉症は主体の故郷と言っている。


言うなれば、自閉症は主体の故郷の地位にある[ l'autisme était le statut natif du sujet, si je puis dire. ](J.-A. MILLER, - Le-tout-dernier-Lacan – 07/03/2007)


この意味は、ラカン派において享楽は主体の故郷ということである。


ラカンは強調した、疑いもなく享楽は主体の起源に位置付けられると。[Lacan souligne que la jouissance est sans doute ce qui se place à l'origine du sujet] (J.-A. MILLER, - Illuminations profanes -16/11/2005)

享楽の核は自閉症的である[Le noyau de la jouissance est autiste]   (Françoise Josselin「享楽の自閉症 L'autisme de la jouissance」2011)