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2022年1月22日土曜日

超自我は母なるモノ=エスの形象

  享楽はモノ」、「ひとりの女はトラウマ=モノ」に引き続いて、ここでは「超自我は母なるモノ=エスの形象」である。


超自我は原大他者の取り入れによって形成される。


超自我への取り入れ〔・・・〕。幼児は優位に立つ権威を同一化することによって、幼児の超自我になる[Introjektion ins Über-Ich…indem es diese unangreifbare Autorität durch Identifizierung in sich aufnimmt, die nun das Über-Ich wird …als Kind](フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第7章、1930年)

全能の構造は、母のなかにある、つまり原大他者のなかに。…それは、あらゆる力をもった大他者である[la structure de l'omnipotence, …est dans la mère, c'est-à-dire dans l'Autre primitif…  c'est l'Autre qui est tout-puissant](ラカン, S4, 06 Février 1957)



メラニー・クラインは母の乳房が超自我の核だとした。


私の観点では、乳房の取り入れは、超自我形成の始まりである。…したがって超自我の核は、母の乳房である[In my view…the introjection of the breast is the beginning of superego formation…The core of the superego is thus the mother's breast] (Melanie Klein, The Origins of Transference, 1951)



セミネールⅤのラカンはこのクラインを受け入れつつ、母なる超自我を語っている。


母なる超自我 ・太古の超自我 、この超自我は、メラニー・クラインが語る「原超自我 」 の効果に結びついているものである[Dans ce surmoi maternel, ce surmoi archaïque, ce surmoi auquel sont attachés les effets du surmoi primordial dont parle Mélanie KLEIN] (Lacan, S5, 02 Juillet 1958)


さらに前年のセミネールⅣでは母の乳房への固着を語っている。


母の乳房の、いわゆる原イマーゴの周りに最初の固着が形成される[sur l'imago dite primordiale du sein maternel, par rapport à quoi vont se former …ses premières fixations](Lacan, S4, 12 Décembre 1956)


先ほど示したように、フロイトにおいて同一化(取り入れ)は超自我に等しく、かつまた時期の異なるフロイトの記述を組み合わせれば、事実上、フロイトは母の乳房との同一化を示している(参照:超自我文献基本版)。


さらに最晩年のフロイトの定義において超自我は固着である。


超自我が設置された時、攻撃欲動の相当量は自我の内部に固着され、そこで自己破壊的に作用する[Mit der Einsetzung des Überichs werden ansehnliche Beträge des Aggressionstriebes im Innern des Ichs fixiert und wirken dort selbstzerstörend. ](フロイト『精神分析概説』第2章、1939年)


つまり、メラニー・クラインの「超自我の核は母の乳房」と前期ラカンの「母なる超自我」≒「母の乳房への固着」は基本的にはフロイトの思考圏内にある。


もっともフロイトは最後まではっきりとは母が超自我とは言っておらず、父母という監督者の代理しているが、最初に幼児を監督するのはよほどの例外を除いて母であるのはまがいようがない。


超自我は、人生の最初期に個人の行動を監督した彼の父母(そして教育者)の後継者・代理人である[Das Über-Ich ist Nachfolger und Vertreter der Eltern (und Erzieher), die die Handlun-gen des Individuums in seiner ersten Lebensperiode beaufsichtigt hatten](フロイト『モーセと一神教』3.2.4  Triebverzicht, 1939年)



話を少し前に戻そう。セミネールⅦのラカンは「母の乳房」をより一般化して「母の身体」というようになる。


(メラニー)クラインの分節化は次のようになっている、すなわちモノの中心的場に置かれるものは、母の神秘的身体である[L'articulation kleinienne consiste en ceci :  à avoir mis à la place centrale de das Ding le corps mythique de la mère, (Lacan, S7, 20  Janvier  1960)



「母の身体」とは後年のラカンにとって種々の意味がある。ラカンは母の言葉をララング[lalangue ]と呼んだが、母なるララングへの固着自体、超自我であるだろう。



ララングが、母の言葉と呼ばれることは正しい。というのは、ララングは常に最初期の世話に伴う身体的接触に結びついているから[lalangue… est justifié de la dire maternelle car elle est toujours liée au corps à corps des premiers soins](コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens, 2011)


サントームは、母の言葉に起源がある。話すことを学ぶ子供は、この言葉と母の享楽によって生涯徴付けられたままである[ le sinthome est enraciné dans la langue maternelle. L'enfant qui apprend à parler reste marqué à vie à la fois par les mots et la jouissance de sa mère .](Geneviève Morel,  Sexe, genre et identité : du symptôme au sinthome, 2005)

サントームは言語ではなくララングによって条件づけられる。le sinthome est conditionné non par le langage mais par lalangue (J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse, 10 décembre 2008)



そしてこの原症状としてのサントームは穴のシニフィアンS(Ⱥ)というマテームで示されるが、超自我のマテームでもあり、固着のマテームでもある。


シグマΣ、サントームのシグマは、シグマとしてのS(Ⱥ) と記される[c'est sigma, le sigma du sinthome, …que écrire grand S de grand A barré comme sigma] (J.-A. Miller, LE LIEU ET LE LIEN, 6 juin 2001)

S(Ⱥ)に、フロイトの超自我の翻訳を見い出しうる[S(Ⱥ) …on pourrait retrouver une transcription du surmoi freudien. ](J.-A.MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses Comités d'éthique - 27/11/96)

サントームは固着である[Le sinthome est la fixation]. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)



S(Ⱥ)は固着としての対象aと等価である。


言わなければならない、S(Ⱥ)の代わりに対象aを代替しうると[il faut dire … à substituer l'objet petit a au signifiant de l'Autre barré[S(Ⱥ)](J.-A. MILLER, - Illuminations profanes - 16/11/2005)

対象aはリビドーの固着点に現れる[petit(a) …apparaît que les points de fixation de la libido ](Lacan, S10, 26 Juin 1963)

無意識の最もリアルな対象a、それが享楽の固着である[ce qui a (l'objet petit a) de plus réel de l'inconscient, c'est une fixation de jouissance.](J.-A. MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses comités d'éthique, 26/2/97)






さてここで確認しよう、「モノの中心的場に母の身体がある」とラカンが言うときのモノとは、母なるモノであり、享楽の対象、現実界である。


母なるモノ、母というモノ、これがフロイトのモノ[das Ding]の場を占める[la Chose maternelle, de la mère, en tant qu'elle occupe la place de cette Chose, de das Ding.   ](Lacan, S7, 16  Décembre  1959)

享楽の対象としてのモノは、快原理の彼岸にあり、喪われた対象である[Objet de jouissance …La Chose…au niveau de l'Au-delà du principe du plaisir…cet objet perdu](Lacan, S17, 14 Janvier 1970、摘要)

フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne … ce que j'appelle le Réel ](ラカン, S23, 13 Avril 1976)



つまりラカンにとって超自我は母なる超自我であり、これが現実界、あるいは現実界の享楽である。


このところ二度にわたって次の図を示しているが、次の語彙群はすべて等価である。




そしてさらにここに超自我を加えることができる。

なぜなら超自我は通念とは異なり、先ほど示したフロイトの最後の定義において、固着なのだから。そして最初にある固着は、母への固着に相違ない。


母へのエロス的固着の残滓は、しばしば母への過剰な依存形式として居残る[Als Rest der erotischen Fixierung an die Mutter stellt sich oft eine übergrosse Abhängigkeit von ihr her ](フロイト『精神分析概説』第7章、1939年)


固着とはフロイトの思考において自我に同化されず或る対象がエスに置き残されることである。母なるモノ=サントーム=固着=超自我であり、ジャック=アラン・ミレールがサントームはエスの形象と言っているのはこの意味である。



ラカンがサントームと呼んだものは、ラカンがかつてモノと呼んだものの名、フロイトのモノの名である[Ce que Lacan appellera le sinthome, c'est le nom de ce qu'il appelait jadis la Chose, das Ding, ou encore, en termes freudiens]。ラカンはこのモノをサントームと呼んだのである。サントームはエスの形象である[ce qu'il appelle le sinthome, c'est une figure du ça ] (J.-A.MILLER, Choses de finesse en psychanalyse, 4 mars 2009)



つまり先ほど示した穴の表象S(Ⱥ)とはエスの形象マテームということになる。


ラカンは既に早い時期に、《モノは母である[das Ding, qui est la mère](Lacan, S7, 16 Décembre 1959)と言った同じセミネールⅦで、モノはエスの領域にあることを語っている。


忘れてはならない。フロイトによるエスの用語の発明を。(自我に対する)エスの優越性は、現在まったく忘れられている。〔・・・〕私はこのエスの確かな参照領域をモノと呼んでいる[N'oublions pas … à FREUD en formant le terme de das Es.  Cette primauté du Es  est actuellement tout à fait oubliée.  …j'appelle une certaine zone référentielle, la Chose. ](Lacan , S7, 03  Février  1960)



とはいえ参照領域あるいはエスの形象という表現に注意しなければならない。ダイレクトにエスではないのである。厳密には超自我あるいは固着のマテームS(Ⱥ)は、自我とエスの境界表象であるだろう。ーー《境界表象 S(Ⱥ)[boundary signifier [Grenzvorstellung ]: S(Ⱥ)]》(PAUL VERHAEGHE, DOES THE WOMAN EXIST?, 1997)


心的装置の一般的図式は、心理学的に人間と同様の高等動物にもまた適用されうる。超自我は、人間のように幼児の依存の長引いた期間を持てばどこにでも想定されうる。そこでは自我とエスの分離が避けがたく想定される。Dies allgemeine Schema eines psychischen Apparates wird man auch für die höheren, dem Menschen seelisch ähnlichen Tiere gelten lassen. Ein Überich ist überall dort anzunehmen, wo es wie beim Menschen eine längere Zeit kindlicher Abhängigkeit gegeben hat. Eine Scheidung von Ich und Es ist unvermeidlich anzunehmen. (フロイト『精神分析概説』第1章、1939年)


エスの境界表象S(Ⱥ)

………………


※付記


ジャック=アラン・ミレールは次のように言っている。


フロイトの自我と快原理、そしてラカンの大他者のあいだには結びつきがある[il y a une connexion entre le moi freudien, le principe du plaisir et le grand Autre lacanien] (J.-A. MILLER, Le Partenaire-Symptôme, 17/12/97)


ラカンは自我と大他者を区別した。ラカンの自我は自己イマージュ(想像界)であり、大他者は言語(象徴界)である。


自我は想像界の効果である[Le moi, c'est un effet imaginaire. ](J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse XX, Cours du 10 juin 2009)

大他者とは言語自体である [grand A…c'est que le langage comme tel](J.-A. MILLER, Le Partenaire-Symptôme, 14/1/98)


もっとも自我は言語に支配されている。


想像界、自我はその形式のひとつだが、象徴界の機能によって構造化されている[la imaginaire …dont le moi est une des formes…  et structuré :… cette fonction symbolique](ラカン, S2, 29 Juin 1955)

象徴界は言語である[Le Symbolique, c'est le langage](Lacan, S25, 10 Janvier 1978)


この意味での、ミレールの自我と大他者を結びつけである。


この前提を受け入れるならラカンマテームとフロイトの自我エス超自我は次のように示すことができる。



超自我とエスの境界線はどちらも身体的な原無意識という点で区別し難いという意味での点線である。自我内での無意識は実際は既に言語表象になった前意識であり、前者とは大きく異なる。フロイトはこれを無意識の後裔あるいは力動的無意識とも呼んだが、巷間で無意識と呼ばれているものは、実際はほとんどこの自我内の無意識に過ぎない。ラカンが《無意識は言語のように構造化されている[ L'inconscient est structuré comme un langage ]》(Lacan, S11, 22  Janvier  1964)と言った時の無意識とは、実際は前意識(力動的無意識)なのである(ラカンはこの無意識の定義を強調し過ぎたのは大きな落ち度であり、フロイトを誤読したに過ぎないとの批判がかつてからある[参照]。巷間で潜在的無意識やらと言われているものは、このラカンの誤読を引き摺っている。ラカンが無意識を定義し直したのは漸く1973年である)。




重要なのは超自我あるいはエスの原無意識である。



自我はエスから発達している。エスの内容の一部分は、自我に取り入れられ、前意識状態に格上げされる。エスの他の部分は、この翻訳に影響されず、原無意識としてエスのなかに置き残されたままである。das Ich aus dem Es entwickelt. Dann wird ein Teil der Inhalte des Es vom Ich aufgenommen und auf den vorbewußten Zustand gehoben, ein anderer Teil wird von dieser Übersetzung nicht betroffen und bleibt als das eigentliche Unbewußte im Es zurück. (フロイト『モーセと一神教』3.1.5 Schwierigkeiten, 1939年、摘要)


この置き残された原無意識が超自我=固着(原抑圧)による異者身体=モノである。

……………


※追記


実は享楽概念自体、初期ラカンにおいては問題があった。これはミレールが義父を傷つけないようにしながらもはっきりと批判している。



ラカンの最初の教えにおいて、享楽はとりわけイマジネールなものとして現れる。La jouissance …dans le premier enseignement de Lacan, elle figure avant tout comme imaginaire〔・・・〕


イマジネールな享楽は、ラカンがフロイトのナルシシズム理論から展開させたものだ。イマジネールな享楽概念は、欲動理論から展開されていない! イマジネールな享楽は本質的にイマージュのナルシシズム的享楽だ。そして享楽のイマジネールな地位は、症状の享楽[la jouissance du symptôme]を明らかにするようになる時、お釈迦となる。それは基本的に、ラカンがフロイトの『制止、症状、不安』を真剣に取り上げた瞬間からだ!

La jouissance imaginaire, c'est ce que Lacan a élaboré à partir de la théorie freudienne du narcissisme. La notion de jouissance imaginaire n'est pas élaborée à partir de la théorie des pulsions !, elle est élaborée à partir de la théorie du narcissisme. C'est essentiellement la jouissance narcissique de l'image. Et ce statut imaginaire de la jouissance défaille quand il s'agit de rendre compte de la jouissance du symptôme -  : c'est au fond le moment où Lacan a pris au sérieux Inhibition, Symptôme et Angoisse !

そして享楽はイマジネールな地位とは別の地位として明示化されることになる。Et ça impose d'élaborer pour la jouissance un autre statut que le statut imaginaire.〔・・・〕

われわれはそれを区別しなければならない。もしそうでなければ、享楽はたんに「影と反映」に過ぎない。il faut commencer par avoir distingué …si on ne les distingue pas, la jouissance n'est « qu'ombres et reflets ». (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un,  -09/03/2011)



「症状の享楽」とあるが、この症状は原症状としてのサントームである。ミレールはサントームという語を使っていないが、既に最初期のセミネールで、この症状を超自我と結びつけている、《症状の享楽…この症状が超自我の核である[La jouissance du symptôme …C'est ce nexus-là qu'on a appelé le surmoi]》. (J.-A. MILLER, LA CLINIQUE LACANIENNE, 24 MARS 1982)。ここが核心である。


他方、巷間で享楽概念を使っている論者のかなりの割合はこのイマジネールな享楽に過ぎないので注意されたし。ラカン研究者プロパもいまだ免れていない人物がいる(ツイッターでラカンセミネールなるものをやっている人物はことさらひどく唖然とせざるを得ない・・・)