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2022年1月8日土曜日

口惜しき人

 ◼️大岡昇平『中原中也』より


大正十四年十一月、長谷川泰子は中原中也の許を去り、小林秀雄と同棲した。中原の生涯はこの事件を抜いては語れないのだが、当事者の一方が生きていては、これは微妙な問題である。


昭和二十四年の「中原中也の思ひ出」で、小林は初めて事件について書いた。


私は中原との関係を一種の悪縁であったと思っている。大学時代、初めて中原と会った当時、私は何もかも予感していた様な気がしてならぬ。尤も、誰も、青年期の心に堪えた経験は、後になってからそんな風に思い出し度がるものだ。中原と会って間もなく、私は彼の情人に惚れ、三人の協力の下に(人間は憎み合う事によっても協力する)、奇怪な三角関係が出来上り、やがて彼女と私は同棲した。この忌わしい出来事が、私と中原との間を目茶々々にした。言うまでもなく、中原に関する思い出は、この処を中心としなければならないのだが、悔恨の穴は、あんまり深くて暗いので、私は告白という才能も思い出という創作も信ずる気にはなれない。驚くほど筆まめだった中原も、この出来事に関しては何も書き遺していない。たゞ死後、雑然たるノオトや原稿の中に、私は、「口惜しい男」という数枚の断片を見付けただけであった。夢の多過ぎる男が情人を持つとは、首根っこに沢庵石でもぶら下げて歩く様なものだ。そんな言葉ではないが、中原は、そんな意味のことを言い、そう固く信じていたにも拘らず、女が盗まれた時、突如として僕は「口惜しい男」に変った、と書いている。が、先きはない。「口惜しい男」の穴も、あんまり深くて暗かったに相違ない。


ここで小林が「口惜しい男」と憶えている断片は、「我が生活」に当る。欄外の記事から昭和三、四年に書かれたものと察せられ、既に思い出による「創作」が行われていると見倣すことが出来る。


しかし中原は書いている。


さて茲で、かの小説家と呼ばれる方々の、大抵が、私と女と新しき男とのことを書き出されるのであらうが、そして読者も定めしそれを期待されるのであらうが、不幸なことに私はそれに興味を持たぬ。そのイキサツを書くよりも、そのイキサツに出会つた私が、その後どんな生活をしたかを私は書かうと思ふのである。


そして「口惜しき人」の生活記録は書き継がれていないのである。


この穴に近づこうとする私の資料は次の三つである。まず中原が生前した談話、長谷川泰子の談話、及び小林が彼女の手許に残した当時の手記断片である。


小林自身は事件について語るのを好まない。ただ一応右の資料から、私が事件を考えるのを許してくれたのである。従って以下の記事は、小林の異議があれば、いくらでも訂正され得る。


中原が富永太郎の紹介で小林を訪れたのは、大正十四年四月初旬である。四月十日から小林は小笠原へ旅行、五月一日帰る。


富永は五月三日に片瀬を引き上げ、代々木富ヶ谷の家へ帰った。交友は富永を交えて三人で始められたと考えてよい。中原が泰子と共に四月から五月へかけて中野、次に高円寺に引越したのは、馬橋の小林の家に近いためであろう。六月富永の病気が悪化し、面会謝絶が続くようになってからは、二人だけの往来はしげくなったと思われる。中原が「いよいよ詩に専心しようと大体決まる」(「詩的履歴書」)のは、こういう雰囲気の中だったのである。


七月中原は山口へ帰った。九月最初の媾曳。小林は二十三歳、泰子二十一歳である。


九月七日。Tを見舞った帰り、Nと青山の通りを歩いた。四時、黄色い太陽の光線が塵汚とペンキの色彩と雑音の都会をヂリヂリ照りつけた。六丁目の資生堂に二人は腰を下した。二人ともひどく疲れてゐた。軍歌を呶鳴り乍ら兵隊の列が、褐色の塊を作つて動いて行く。

「なんだい、あの色は」

N は行列を見ながら、いまいましさうに言つった。

「保護色さ、水筒までおんなじ色で塗られてやがる」

二人は黙つた。私はY子のことを考へた。兵隊の列は続く。

「見ろ、あれだつて陶酔の一形式には違ひない」

「きまつてるさ、陶酔しない奴なんて一人も居るもんか。何奴も此奴も、夏なんてものを知りやしないんだ。暑けりや裸になるといふ事だけ知つてるんだ」

「もうよせ」

私は苛々して来た。あらゆるものに対して、それが如何に美であるかといふよりも、如何に醜であるか。如何に真であるかといふ事より、嘘であるかといふ事の方が、先づ常に問題になる頭が、こんな日には、特につらかつた。然し、Nと会ってY子の事許り考へてゐる自分にとつては、(Nが)かういふ性格で、苛々した言葉ばかりはく事が、自分の心を見破られないといふ都合のよさがあつた。然しそれを意識すると、如何にも苦しくなつた。


私はNに対して初対面の時から、魅力と嫌悪とを同時に感じた。Nは確かに私の持つてゐないものを持つてゐた。ダダイスト風な、私と正反対の虚無を持つてゐた。しかし嫌悪はどこから来るのか解らなかつた。彼は自分でそれを早熟の不潔さなのだと説明した。



断片は中絶され、別に次の様に記されている。


私は自分が痴情の頂点にあると思つた。

こんなことがあつた。Nは私に、君は、この辺で物を考へると言つて、手を眼の下にやつた。そして俺はこの辺で考ヘてあると額に手をやつた。傍でY子が、あたしはこの辺だわと指を揃えて頭の頂点にのせた。私は彼女がいつか、いんげん豆が椅子を降りて来る夢を見たと話したことを思ひ出した。


当時の二人の交友の有様が、少なくとも私には眼に見えるようである。中原は泰子を「男に何の夢想もさせないたちの女」と書いているが、それが小林には全然逆に映ったのである。しかしここで小林が自分を、「痴情の頂点」にいると意識していたことは注意すべきである。この意識は常に、小林を去っていないのであるが、事件の進行を止める力はなかった。


小林はその頃の自分を回想して、「自己に苛酷であること」に多忙であったと書いている (「富永太郎の思ひ出」)。既に富永や中原の批判者として現われていて、前に引いた中原の不潔さ云々の欄外に「レオナルデスク」と書き込みがあるのは、レオナルド風の思想をもって、中原に対抗しようとした気配が察せられる。


小林がそれまでに書いていたのは小説である。「一つの脳髄」(「青銅時代」十三年七月)は外界の捉え方に志賀直哉の影響が見られるが、自分の頭脳に対する異様な執着は、一人の思索するエゴイストを示している。「ポンキンの笑ひ」(『山繭」十四年二月。後「女とポンキン」と改題)は行きずりの女に対する頭脳的な恋情を戯画化したものだが、これが事件の半年前に書かれたことに、伝記作者は意味をつけたい誘惑にかられる。


半島の先端で出会った女は、ポンキンという名の変な毛の刈り方をした犬を連れている。


「これ狸よ」女は、ポンキンの頭に手を置いた。ポンキンはちょつと頭を凹ました。

バリカンで刈つてやったの、斯うするとライオンに見えるでせう」

「面白い犬を持つてますね」

…………………………


「これ上げるからお読みなさい」彼女は本を私の膝の上に置いた。

家にはまだ二冊あるからいゝの」

私は、本を拡げて見た。頁が、方々切り抜いてある。余白だけ白く切り残された頁もある。

「これどうしたんです」私は、窓の様に開いた頁の穴に指を通して見せた。

「あ、さう、さう、いゝ処だけ切り抜いたの」女は、子供の折紙の様に折り畳んだ切り抜きを、ポケットから出して渡した。私は、本をポーンと海に投げ込んだ。

「何するの」女は、恐い顔をした。

「これがあれば構はない」私は、切り抜きを女に見せた。

「ソオね」と女は領いた。私は、少しばかり切ない気持になった。


女は少し気が変なのだが、例えば「ポンキン、いけません」と犬を叱る時の、女の真剣な顔を「 私」は美しいと思う。一か月後私は同じ海岸へ来る。相変らずポンキンを連れた女は、私に気づかず通りすぎるが、ポンキンは私を認めて立ち止る。「何か、 秘密なものを見られたやうな気がした。」女に「ポンキン」と呼ばれて、 犬は駆け出す。「振り返つた犬の顔が笑つた様に思はれ、私は、顔を背けた」


事件の正確な日附を知るまで、私はこの小説が、小林の中原と泰子に対する反応を書いたものだと思っていたのである。それほど雰囲気は、我々が三人の間に想像していたものと酷似している。十八歳の中原は泰子に連れられた犬ぐらいにしか、小林には映らなかったのではないかと思われた。


事実は無論違っていた。しかし当時小林がこういう感情的な傾斜にいたことと、泰子に惹かれたことと無縁ではないであろう。作品が事件に先行し、丁度小説に書いたように事件が起るのは、よくあることである。


事実中原は或る点ではポンキンのように小林を笑っていたのである。

「新しき男といふのは(略)非常に理智的な目的をその女との間に認めてゐると信じ、また女にもそれを語ったのだつた。女ははじめにはそれを少々心の中で笑つてゐたのだが……」(「我が生活」)


この文章は前記のように三年後に書かれたもので、中原はそれまでに幾度となく人に話し、事件の筋道は頭の中で整理されていたと思われる。ほぼ同じように、私にも夜明しで話したりした。


要するに中原によれば、小林と泰子は「心意を実在と混同する底の幼稚な者たち」であったが、しかし当時小林が書きとめておいたものによると、事態はそう単純ではない。


暗い中でもすぐAだと解つた。

「散歩しても無駄ぢやないつて、気がしたの」とAはいつた。私は黙つてゐた。

「今日は何処へ行かうと思つたの」

「Sの家」

「ぢや、いらつしやい」

「いやだ」私は引き返した。Aは後からぼつくりの音をさせてついて来た。

「近いうちに会はないか」

「いや」

「何故、そんなことをいふんだ」

「何故でもいや」Aは蒼い顔をしてゐた。私はこの時AとBの間に妥協が成立したことを直覚した。

「私、如何してもあの人と離れられないわ」とAはしばらくして言つた。

「兎に角、この儘の状態を持続して行くことは、俺には不可能だからね、それに愚劣だ」

私は腹立たしく、昂奮して来た。何をいつていゝかわからなかつた。判然と感じたものは烈しい嫉妬だつた。

「俺は、俺の生活全部をあげて君に惚れてるんだからね」私はそんな意味の事をガミガミと 喋つた。

「えゝ、さうだろう」

「…………」

「何故、黙つてるんだ」

「よく聞いてなかつたの」

「聞いてなかつた。何故聞いてないんだ」

「嘘、みんな聞いてたわ」

私は苦り切つた。

……………………


「さあ、どつちにつくんだ。俺かBか」

私はAの両肩を抑へた。Aは蒼白い顔を、両腕で挟んで、烈しく首を振つた。そして「きめられない、きめられない」と言つた。

二人は黙つて、幾度も同じ道を行き来した。

「私、本当は何でもスーッと進んでしまふん(ママ)なんだけど、今度は (一字不明)かなの。せんより利巧になつたか、馬鹿になつたかわからない」(略)

「馬鹿」私は誰が馬鹿なのか解らなかつた。

「私もう帰るわ。ぢや決めて頂戴、会ふ日を」

「あさつて」

「今日はまるで喧嘩腰ね」

「喧嘩腰が一番楽だからさ」

「あゝ、頭が痛い。私、あさつて頃、病気になり相だわ」

「大した事あるもんか。俺の方がよつぼど苦しいにきまつてるさ」



会話は大正的恋人の普通の型を示しているように思われる。ただ男が事件の最中にありながら、これだけ正確に記録しているのが異常である。恐らく女の態度に、警戒さすものがあったのだ。


十月八日、多分駆落ちの約束の場所へ、泰子は来なかった。小林はそのまま一人で大島へ向う。


彼女は来なかつた。私は、もう自分の為てゐる事が正しいのだか、悪いのだか解らなかつた。要するに自分の頭を客観化する能力がなくなつてしまつた。自分が去る事、それは logique で honnête で、必要なのだといふことすら、自分の脳髄の一体如何んなものが呼んでゐるのか、判然しないのだ。私は自分の脳髄の弱さを苦々しく眺める他何一つ出来ないのだ。(略)


私は泣いた。苦り切つて又泣いた。俺の生活に常々嫌悪がついて廻るものなら、甘くなつたつて、苦くなつたつて同じ事だと思つた。


翌日は雨だった。三原山は雨雲に首を突込んで、すそだけ見えた。


俺は如何なるか。如何にもならないことは確かだ。自殺、自殺といふことは事実私は思つても見ないことであつたが……



多分富永太郎宛の手紙の下書。


雨が降る何処にも出られぬ。実につらい、つらい、人が如何しても生きなければならないといふ事を初めて考へたよ。要するに食事をしようといふ獣的な本能より何物もないのだな。又それでなければ嘘なのだな。だからつらいのだな。芸術のために生きるのだといふ事は、山椒魚のキン玉の研究に一生を献げる学者と、何んの異なる処があるのか。人生に於て自分の生命を投げ出して賭をする点で同じぢやないか。賭は賭だ、だから嘘だ。世には考へると奇妙なセンチメンタリスムが存在する者だ。


これらの手記で小林はまったく健全である。だから事件は当然ここで終らなければならなかったのだ。それが結局二か月後に泰子が小林の許へ移ることになったのは、中原によれば、小林が旅行から帰ってすぐ、 病気になったからである。盲腸炎は京橋の泉橋病院で切開された。この間、富永太郎が死んでいる。十一月十四日、その報せを持って、小林を見舞った正岡氏は病室に泰子の姿を見出している。


病気というシチュエーションが、二人を再び結んだと中原はいっていたが、通俗小説を空想するのは、 中原の中の「ロ惜しき人」のさせる業である。ここにあるのは、単に泰子が遂に男を替えたという事実だけである。


秦子は私にとっても友人であるし、メロドラマの「悪魔のやうな女」だなんて、夢考えてはいない。

何なら中原に従って「非常に根は虔しやかであるくせに、ヒヨットした場合に突発的なイタヅラの出来る女」と思ってもよい。


しかし一体女が男を替える理由が判然としていることがあるだろうか。今日の泰子は京都時代の十七歳の中原は優しい叔父さんみたいなもので、全然恋愛じゃなかったといっているし、小林の場合にも恋愛はなかったと明言している。


二人の男が一人の女を争う場合、いずれ大差はないのだから、女はどっちかへつく。小林が盲腸炎にならなくても、泰子が小林と結びつくことは、それが実際にそうなった以上、必然であったのだ。


それが事件というものなので、深淵はそのまわりにいくらでも好きなだけ拡がるのである。


こうして中原は「口惜しき人」になり、小林は既にわかっていた恋愛の結果を、 口一杯頬ばらされる。以来彼は小説を書きもしないし、他人の小説も信じない。彼は批評家になる。

(大岡昇平「友情」初出「新潮」1956年4月号『中原中也』所収)


…………………



十五年十二月十九日附、中原は小林が逗子の新住所を地図入りで教えてくれたのに感謝している。「もう一週間もしたら行つてみよう」二十五日帰郷。翌昭和二年一月十九日には東京へ帰っているらしいが、「金がなくつて行けない。あんまり寒いので毛布を買つたのでね」手紙は「君に会ひたい」で終っているが、中原はやはり小林と泰子の前に現われるのを躊躇しているようである。

昭和二年八月二十二日になって、母宛の手紙に始めて「先達は小林とボートを遭ぎました。僕は漕げません」の記事がある。〔・・・〕


この秋、小林は逗子を引き上げて、目黒へ越したようである。今の五反田五丁目、当時上大崎七九の河上徹大郎の家が近所で、小林が遊びに来ると、暫くして中原と泰子がそれを「嗅ぎつけ」書斎へ闖入して来る情景を河上は描いている。


泰子はその頃は神経衰弱になっていた。河上の言葉を籍りると、


「極度に無機的な感受性の夢を食つて生きる貘のやうな存在で」「丁度子供が電話ごつこをして遊ぶやうに、自分の意識の紐の片端を小林に持たせて、それをうつかり彼が手離すと錯乱するといふ面倒な心理的な病気を持つてゐた。意識といつても、日常実に些細な、例へば今自分の着物の裾が畳の何番目の目の上にあるとか、小林が繰る雨戸の音が彼女が頭の中で勝手に数へるどの数に当るかとかいふやうなことであつた。その数を、彼女の突然の質問に応じて、彼は咄嗟に答へねばならない。それは傍で聞いてゐて、殆んど神業であつた」(『私の詩と真実』)

中原によると、病気は小林が泰子に「理智的」に惚れて、 甘やかしたために出て来たもので、自業自得だと言っていた。


昭和三年の一月中野の長谷戸へ越した後、病気は悪化する。今日なら無論ノイローゼと呼ばれ、原因は小林の「理智的恋愛」ではなく、遠く彼女の家庭と幼年時代に遡らなければ、読者を納得させることは出来まいが、戸籍調べは私の能ではない。彼女が若く美しく、震災前から広島県の複雑な家を出ていたことを知っていれば十分である。


「保証」が彼女の一番ほしいもので、半ば狂った頭は不貞を犯しても棄てない保証まで、小林に求めるようになる。しかも小林がそこにいるということが、彼女の憎悪をそそるらしく、走って来る自動車の前へ、不意に突き飛ばされるに到って、同棲は傷害事件の危険をはらんで来る。


五月上旬の或る夜、泰子が「出て行け」といったら、小林は出て行った。軒を廻って行くのは、いつものように間もなく謝って帰って来る後姿だったということである。しかし小林はそれっきり帰らなかった。


小林は家を出る時、ああ、自分はこの家へはこれっきり帰って来ないなと思ったそうである。東中野から電車に乗ると、終点は東京駅である。一中の同級生に会ったら、二十円貸してくれた。奈良行の切符を買い、そのまま夜行に乗った。


小林は母親にも妹にも知らせなかったので、明くる日から大騒ぎになった。中原のこの時のはしゃぎ方は、今考えても胸が悪くなるようなものである(この時私はもう小林にフランス語の個人教授を受けていたので、以下は直接の見聞である)。


私は十九歳になったばかりで、本当に心配をした。中原に釣り込まれて、小林に憤慨さえしたくらいである。中原は河上徹太郎も今日出海も佐藤正彰も、小林の仏文の仲間を全部疑っていた。私もそんな気がして来た。


二日ばかり経って、渋谷駅前を歩いていたらタクシーへ乗って中原が来かかった。男の相客と何やら笑いながら話している。私はその後の様子を聞こうと思って駆け寄った。中原は私を認めて、笑いながら手を振り、タクシーは走り続けた。

停るだろうと思われた地点を越しても走り続けるので、諦めて立ち止った頃、タクシーは大分先でやっと停った。中原は窓を開けて

「駄目だ。まだわからん」

とか何とか言った。これから駒場の辰野先生の家へ相談に行くところだという。相客は澄まして向うを向いていた。これが佐藤正彰だった。


中原の浮き浮きした様子は小林の行方と泰子の将来を心配している人間のそれではなかった。もめごとで走り廻るのを喜んでいるおたんこなすの顔であった。中原はそれまで随分私をうれしがらせるようなことをいってくれたのである。うっかり出来ないぞと思ったのは、この時が初めである。


私は中原中也の伝記を書いているので、こんな悪ロを書くはずではなかったのだが、筆がこう滑って来るのも、中原の不徳の致すところと勘弁して貰う。しかし中原の身になって見れば、敵は遂に敗退し、三年の「ロ惜しき人」から解放されたのである。 いい分は中原の側にあり、小林の友達を脅かして歩くのが、いい気持だったのだろう。

泰子は自分のところへ帰って来るものときめていたらしい。それがそうならなかったので中原の新しい苦悩が始まる。同時に三年ばかりの最も豊かな詩作の時期に入るのである。

(大岡昇平「思想」初出「新潮」1956年5月号『中原中也』所収)





私はほんとに馬鹿だつたのかもしれない。私の女を私から奪略した男の所へ、女が行くといふ日、実は私もその日家を変へたのだが、自分の荷物だけ運送屋に渡してしまふと、女の荷物の片附けを手助けしてやり、おまけに車に載せがたいワレ物の女一人で持ちきれない分を、私の敵の男が借りて待つてゐる家まで届けてやつたりした。尤も、その男が私の親しい友であつたことゝ、私がその夕行かなければならなかつた停車場までの途中に、女の行く新しき男の家があつたことゝは、何かのために附けたして言つて置かう。 


私は恰度、その女に退屈してゐた時ではあつたし、といふよりもその女は男に何の夢想も仕事もさせないたちの女なので、大変困惑してゐた時なので、私は女が去つて行くのを内心喜びともしたのだつたが、いよいよ去ると決つた日以来、もう猛烈に悲しくなつた。 


もう十一月も終り頃だつたが、私が女の新しき家の玄関に例のワレ物の包みを置いた時、新しき男は茶色のドテラを着て、極端に俯いて次の間で新聞を読んでゐた。私が直ぐに引返さうとすると、女が少し遊んでゆけといふし、それに続いて新しき男が、一寸上れよと云ふから、私は上つたのであつた。 


それから私は何を云つたかよくは覚えてゐないが、兎も角新しき男に皮肉めいたことを喋舌つたことを覚えてゐる。すると女が私に目配せするのであつた、まるでまだ私の女であるかのやうに。すると私はムラムラするのだつた、何故といつて、――それではどうして、私を棄てる必要があつたのだ? 私はさよならを云つて、冷えた靴を穿いた。まだ移つて来たばかしの家なので、玄関には電球がなかつた。私はその暗い玄関で、靴を穿いたのを覚えてゐる。次の間の光を肩にうけて、女だけが、私を見送りに出てゐた。 


靴を穿き終ると私は黙つて硝子張の格子戸を開た。空に、冴え冴えとした月と雲とが見えた。慌ててゐたので少ししか開かなかつた格子戸を、からだを横にして出る時に、女の顔が見えた。と、その時、私はさも悪漢らしい微笑をつくつてみせたことを思ひ出す。 


――俺は、棄てられたのだ! 郊外の道が、シツトリ夜露に湿つてゐた。郊外電車の轍の音が、暗い、遠くの森の方でしてゐた。私は身慄ひした。 


停車場はそれから近くだつたのだが、とても直ぐ電車になぞ乗る気にはなれなかつたので、ともかく私は次の駅まで、開墾されたばかりの、野の中の道を歩くことにした。――――――――――

〔・・・〕

私が女に逃げられる日まで、私はつねに前方を瞶めることが出来てゐたのと確信する。つまり、私は自己統一ある奴であつたのだ。若し、若々しい言ひ方が許して貰へるなら、私はその当時、宇宙を知つてゐたのである。手短かに云ふなら、私は相対的可能と不可能の限界を知り、さうして又、その可能なるものが如何にして可能であり、不可能なるものが如何に不可能であるかを知つたのだ。私は厳密な論理に拠つた、而して最後に、最初見た神を見た。 


然るに、私は女に逃げられるや、その後一日々々と日が経てば経つ程、私はたゞもう口惜しくなるのだつた。――このことは今になつてやうやく分るのだが、そのために私は甞ての日の自己統一の平和を、失つたのであつた。全然、私は失つたのであつた。一つにはだいたい私がそれまでに殆んど読書らしい読書をしてゐず、術語だの伝統だのまた慣用形象などに就いて知る所殆んど皆無であつたのでその口惜しさに遇つて自己を失つたのでもあつたゞらう。 


とにかく私は自己を失つた! 而も私は自己を失つたとはその時分つてはゐなかつたのである! 私はたゞもう口惜しかつた。私は「口惜しき人」であつた。 


かくて私は、もはや外界をしか持つてゐないのだが、外界をしかなくした時に、今考へてみれば私の小心――つまり相互関係に於いてその働きをする――が芽を吹いて来たのである。私はむしに、ならないだらうか? 私は苦しかつた。そして段々人嫌ひになつて行くのであつた。世界は次第に狭くなつて、やがては私を搾め殺しさうだつた。だが私は生きたかつた。生きたかつた! ――然るに、自己をなくしてゐた、即ち私は唖だつた。本を読んだら理性を恢復するかと思つて、滅多矢鱈に本を読んだ。しかしそれは興味をもつて読んだのではなく、どうにもしやうがないから読んだのである。たゞ口惜しかつた! 


「口惜しい口惜しい」が、つねに顔を出したのである。或時は私は、もう悶死するのかとも思つた。けれども一方に、「生きたい!」気持があるばかりに、私は、なにはともあれ手にせる書物を読みつゞけるのだつた。(私はむしになるのだつた。視線がウロウロするのだつた。) が、読んだ本からは私は、何にも得なかつた。そして私は依然として、「口惜しい人」であつたのである。 


その煮え返る釜の中にあつて、私は過ぎし日の「自己統一」を追惜するのであつた。 


甞ては私にも、金のペンで記すべき時代があつた! とラムボオがいふ。「だいいち」と私は思ふのだつた、「あの女は、俺を嫌つてもゐないのだし、それにむかふの男がそんなに必要でもなかつたのだ……あれは遊戯の好きな性の女だ……いつそ俺をシンから憎むで逃げてくれたのだつたら、まだよかつただらう……」 


実際、女は慥かにさういふ性の女だ。非常に根は虔しやかであるくせに、ヒヨツトした場合に突発的なイタヅラの出来る女だつた。新しき男といふのは文学青年で、――尠くもその頃まで――本を読むと自分をその本の著者のやうに思ひ做す、かの智的不随児であつた。それで、その恋愛の場合にも、自分が非常に理智的な目的をその女との間に認めてゐると信じ、また女にもそれを語つたのだつた。女ははじめにはそれを少々心の中で笑つてゐたのだが、遂にはそれを信じたらしかつた。何故私にそれが分るかといふと、その後女が私にそれらのことを語るのであつた。それ程この女は持操ない女である――否、この女は、ある場合には極度に善良であり、ある場合には極度に悪辣に見える、かの堕落せる天使であつたのだ。〔・・・〕


友に裏切られたことは、見も知らぬ男に裏切られたより悲しい――といふのは誰でも分る。しかし、立去つた女が、自分の知つてる男の所にゐるといふ方が、知らぬ所に行つたといふことよりよかつたと思ふ感情が、私にはあるのだつた。それを私は告白します。それは、私が卑怯だからだらうか? さうかも知れない、しかし、私には人が憎めきれない底の、かの単なる多血質な人間を嗤ふに値ひする或る心の力――十分勇気を持つてゐて而も馬鹿者が軟弱だと見誤る所のもの、かのレアリテがあるのでないと、誰が証言し得よう?


がそんなことなど棄て置いて、とも角も、私は口惜しかつた!

(中原中也「我が生活」)




……とはいえ「口惜しき人」だけを自分の真実と思うのも、傲慢であろう。生活に繰り返されるのは「現実」であって、真実は恐らく人がその口惜しさにも拘らず、宇宙と自己統一を夢みることが出来る自由の中にあろう。しかし中原が半年の後「朝の歌」が書けたのには、一種の「救い」が働いていたと思われるのだが。


「口惜しき人」となった結果は、自己統一を失っただけではない。「小心が芽が吹いて来て、私はむしに、ならないだらうか」という危倶があり、段々人嫌いになって行く。しかしーー


友に裏切られたことは、見も知らぬ男に裏切られたより悲しい――といふのは誰でも分る。しかし、立去つた女が、自分の知つてる男の所にゐるといふ方が、知らぬ所に行つたといふことよりよかつたと思ふ感情が、私にはあるのだつた。それを私は告白します。それは、私が卑怯だからだらうか? さうかも知れない、しかし、私には人が憎めきれない底の、かの単なる多血質な人間を嗤ふに値ひする或る心の力――十分勇気を持つてゐて而も馬鹿者が軟弱だと見誤る所のもの、かのレアリテがあるのでないと、誰が証言し得よう?


がそんなことなど棄て置いて、とも角も、私は口惜しかつた!


中原はここに十二分に自分を表現している。我々がここに見るのは、その短い生涯を通じて変ることがなかった中原の姿である。しかし「口惜しき人」だけは、この断片が書かれた昭和三年には、既に消滅していたと私は思う。書き継がれなかったのは、実際それがなかったからである。昭和十二年の日記に、事件がまた顔を出しているが、これは中原が神経衰弱で強迫的に過去を想起していたからである。小林と中原の文通は大正十五年十一月に再開される。恐らく富永太郎の一周忌が機縁であったろう。そして中原の手紙には、まるで昨日別れた人に対するような、親愛の情が見られるのである。中原が小林に「朝の歌」を見せるのは、この年のうちである。


表現出来なかったのは小林の側である。やがて中原が小林と泰子の住む家へ来るようになるのは、中原の憎みきれない性質のためには違いないが、事態をこんがらかさずにはおかない。しかし小林はそれを断わることが出来ない。


「私が何故あいつが嫌ひになったかといふと、あいつは私に何一つしなかつたのに、私があいつに汚い厚かましい事をしたからだ」というフィョードル・カラマーゾフの言葉を小林はノートしている。穴は殊によると小林の側に、より深く残ったかもしれない。

(大岡昇平「友情」初出「新潮」1956年4月号『中原中也』所収)


………………



女は俺の成熟する場所だった。書物に傍点をほどこしてはこの世を理解して行かうとした俺の小癪な夢を一挙に破ってくれた。(小林秀雄『Xへの手紙』)

俺は今までに自殺をはかつた経験が二度ある、一度は退屈の為に、一度は女の為に。俺はこの話を誰にも語つた事はない、自殺失敗談くらゐ馬鹿々々しい話はないからだ、夢物語が馬鹿々々しい様に。力んでゐるのは当人だけだ。大体話が他人に伝へるにはあんまりこみ入りすぎてゐるといふより寧ろ現に生きてゐるぢやないか、現に夢から覚めてるぢやないかといふその事が既に飛んでもない不器用なのだ。俺は聞手の退屈の方に理屈があると信じてゐる。(小林秀雄「Xへの手紙」1932(昭和7)年)




……………


※付記

中原中也は、十七の娘が好きであつたが、娘の方は私が好きであつたから中也はかねて恨みを結んでゐて、ある晩のこと、彼は隣席の私に向つて、やいヘゲモニー、と叫んで立上つて、突然殴りかゝつたけれども、四尺七寸ぐらゐの小男で私が大男だから怖れて近づかず、一米ぐらゐ離れたところで盛にフットワークよろしく左右のストレートをくりだし、時にスウイングやアッパーカットを閃かしてゐる。私が大笑ひしたのは申すまでもない。五分ぐらゐ一人で格闘して中也は狐につまゝれたやうに椅子に腰かける。どうだ、一緒に飲まないか、こつちへ来ないか、私が誘ふと、貴様はドイツのヘゲモニーだ、貴様は偉え、と言ひながら割りこんできて、それから繁々往来する親友になつたが、その後は十七の娘については彼はもう一切われ関せずといふ顔をした。それほど惚れてはゐなかつたので、ほんとは私と友達になりたがつてゐたのだ。そして中也はそれから後はよく別れた女房と一緒に酒をのみにきたが、この女が又日本無類の怖るべき女であつた。 


私は十七の娘のことを考へると、失はれた年齢を、非常になつかしむ思ひになる。もう、再びあのやうな嘘のやうな間の抜けた話はめぐりあふことが有り得ない、年齢的に、否、二十八の私は驚くほど子供でもあつた。(坂口安吾「酒のあとさき」初出:「光 第三巻第四号」1947(昭和22)年4月1日発行)