以下、前回の小林秀雄における長谷川泰子への痴情の愛と自殺衝動をめぐる引用群とともに読まれたし。
◼️「死と影」1948年9月
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偉そうに、ほざいてみても、だらしがないものだ。私は矢田津世子と別れて以来、自分で意志したわけではなく、いつとはなしに、死の翳が身にしみついていることを見出すようになっていた。今日、死んでもよい。明日、死んでもよい。いつでも死ねるのであった。
こうハッキリと身にしみついた死の翳を見るのは、切ないものである。暗いのだ。自殺の虚勢というような威勢のよいところはミジンもなく、なんのことだ、オレはこれだけの人間なんだ、という絶望があるだけであった。
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その年の春さきに、牧野信一が、女房の浮気に悩んで、自殺した。たかが女房の浮気に、と、私は彼をあわれみながら、私自身は、惚れた女に別れたゞけで、いつとなく、死の翳が身にしみついているというテイタラクである。たかが一人の女に、と、いくら苦笑してみても、その死の翳が、現に身にさしせまり、ピッタリとしみついているではないか。みじめな小ささ。いかにすべき。わがイノチ。もがいてみても、わからない。〔・・・〕
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何をすれば、生きるアカシがあるのだろうか。それも、分らぬ。ともかく、矢田津世子と別れたことが、たかが一人の女によって、それが苦笑のタネであり、バカらしくとも、死の翳を身にしみつけてしまったのだ。
新しく生きるためには、この一人の女を、墓にうずめてしまわねばならぬ。この女の墓碑銘を書かねばならぬ。この女を墓の下へうめない限り、私に新しい生命の訪れる時はないだろう、と思わざるを得なかった。
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そして、私は、その墓をつくるための小説を書きはじめた。書くことを得たか。否、否。半年にして筆を投じた。
そして私が、わが身のまわりに見たものは、更により深くしみついている死の翳であった。私自身が、影だけであった。そのとき、私は、京都にいた。独りであった。孤影。私は、私自身に、そういう名前をつけていたのだ。
矢田津世子が、本当に死ぬまで、私はついに、私自身の力では、ダメであった。あさはかな者よ。哀れ、みじめな者よ。(坂口安吾「死と影」初出:「文学界 第二巻第九号」 1948(昭和23)年9月1日発行)
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◼️「戯作者文学論」1947年1月
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あの人の死んだ通知の印刷したハガキをもらつたとき、まだ、お母さんが生きてゐられるのが分つたけれども、津世子は「幸うすく」死んだ、といふ一句が、私はまつたく、やるせなくて、参つた。お母さんは死んだ娘が幸うすく、と考へるとき、いつも私を考へてゐるに相違ない。私は勿論、葬式にも、おくやみにも、墓参にも、行かなかつた。今から十年前、私が三十一のとき、ともかく私達は、たつた一度、接吻といふことをした。あなたは死んだ人と同様であつた。私も、あなたを抱きしめる力など全くなかつた。たゞ、遠くから、死んだやうな頬を当てあつたやうなものだ。毎日々々、会はない時間、別れたあとが、悶えて死にさうな苦しさだつたのに、私はあなたと接吻したのは、あなたと恋をしてから五年目だつたのだ。
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その晩、私はあなたに絶縁の手紙を書いた。私はあなたの肉体を考へるのが怖しい、あなたに肉体がなければよいと思はれて仕方がない、私の肉体も忘れて欲しい。そして、もう、私はあなたに二度と会ひたくない。誰とでも結婚して下さい。私はあなたに疲れた。私は私の中で別のあなたを育てるから。返事も下さるな、さよなら、そのさよならは、ほんとにアヂューといふ意味だつた。そして私はそれからあなたに会つたことがない。〔・・・〕
私はあなたの顔をせつなく思いつづけていた。あなたは時々、横を向いて、黙ってしまうことがあった。あのとき、あなたは何を考えていたのですか。(坂口安吾「戯作者文学論――平野謙へ・手紙に代えて――」初出:「近代文学 第二巻第一号」1947(昭和22)年1月1日発行)
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◼️「二十七歳 」1947年3月
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死亡通知は印刷したハガキにすぎなかつたが、矢田チヱといふ、生きてゐるお母さんの名前は私には切なかつた。そして、その印刷した文字には「幸うすく」津世子は死んだと知らせてあつた。「幸うすく」、あなたは、必ずしも、さうは思つてゐないだらうと私は思ふ。人の世の、生きることの、馬鹿々々しさを、あなたは知らぬ筈はない。
けれども、あなたのお母さんは「幸うすく」さう信じてゐるに相違なく、その怒りと咒ひが、一人の私に向けられてゐるやうな気がした。そして、私は泣いた。二三分。一筋か二筋の、うすい涙であつた。そして私が涙の中で考へた唯一のことは、ある暗黒の死の国で、あなたと私の母が話をして、あなたが私の母を自分の母のやうに大事にしてくれてゐる風景であつた。そして、私は、泣いたのだ。(坂口安吾「二十七歳 」初出:「新潮 第四四巻第三号」 1947(昭和22)年3月1日発行)
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◼️「石の思ひ」1946年11月
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ゴミタメを漁り野宿して犬のやうに逃げ隠れてどうしても家へ帰らなかつた白痴が、死の瞬間に霊となり荒々しく家へ戻つてきた。それは雷神の如くに荒々しい帰宅であつたが、然し彼は決して復讐はしてゐない。従兄の鼻をねぢあげ、横ッ腹を走るついでに蹴とばすだけの気まぐれの復讐すらもしてゐない。彼はたゞ荒々しく戸を蹴倒して這入つてきて、炉端の人々をすりぬけて、三畳のわが部屋へ飛びこんだだけだ。そしてそこで彼の魂魄は永遠の無へ帰したのである。
この事実は私の胸に焼きついた。私が私の母に対する気持も亦さうであつた。私は学校を休み松林にねて悲しみに胸がはりさけ死ぬときがあり、私の魂は荒々しく戸を蹴倒して我家へ帰る時があつても、私も亦、母の鼻すら捩ぢあげはしないであらう。私はいつも空の奥、海のかなたに見えない母をよんでゐた。ふるさとの母をよんでゐた。
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そして私は今も尚よびつゞけてゐる。そして私は今も尚、家を怖れる。いつの日、いづこの戸を蹴倒して私は死なねばならないかと考へる。一つの石が考へるのである。(坂口安吾「石の思ひ」初出:「光 LACLARTE 第二巻第一一号」1946(昭和21)年11月1日発行)
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◼️「新日本地理秋田犬訪問記」1951年11月
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私がフラフラ状態で秋田市へつき、旅館に辿りついたとき、いきなり秋田の新聞記者が訪ねてきた。「秋田市の印象はいかがですか」〔・・・〕
しかし、着いたトタンに当地の印象いかがとは気の早い記者がいるものだ。その暗さや侘しさがフルサトの町に似た秋田は切ないばかりで、わずかばかりの美しさも、わずかばかりの爽かさも、私の眼には映らない。
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けれども私は秋田を悪く云うことができないのです。なぜなら、むかし私が好きだった一人の婦人が、ここで生れた人だったから。秋田市ではなく、横手市だ。けれども秋田県の全体が、あそこも、ここも、みんなあの人を育てた風土のようにしか思われない。すべてが私にとっては、ただ、なつかしいのも事実だから仕方がありません。汽車が横手市を通る時には、窓から吹きこむ風すらも、むさぼるばかりに、なつかしかった。風の中に私がとけてしまッてもフシギではなかったのです。秋田市が焼跡のバラック都市よりも暗く侘しく汚くても、この町が私にとってはカケガエのない何かであったことも、どう言い訳もなかったのです。
「秋田はいい町だよ。美しいや」
私は新聞記者にそうウソをついてやりました。すると彼は、たぶん、と私が予期していたように、しかし甚ださりげなく、また慎しみを失わずに、あの人の名を言いだした。
「あゝ。あの人なら、知ってるよ。たぶん、横手のあたりに生れた人だろう」
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私は何食わぬ顔で、そう云ってやった。むろん私はその記者に腹を立てるところなどミジンもなかった。私はこの土地であの人の名をハッキリ耳にきくことによって、十年前に死んだ、その人と対座している機会を得たような感傷にひたった。着いたトタンにいきなり新聞記者が訪ねて来たことも、そしていきなりあの人の名をきいてしまったことも、私とこの土地に吹く風だけが知り合っている秘密のエニシであるということをひそかに考えてみることなどを愉しんだのである。(坂口安吾「安吾の新日本地理秋田犬訪問記――秋田の巻――」初出:「文藝春秋 第二九巻第一五号」1951(昭和26)年11月1日発行)
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………………
人がフロイトの死の欲動概念について疑念を抱くとき、まず自らに問うてみるべきである。あなたは自らのなかに自己破壊の意志を認めたことはないのか。もしそれが一度でもあったら、この自己破壊欲動が死の欲動である。➡︎「フロイトにおける自己破壊欲動の四つの記述」
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