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2022年1月9日日曜日

自己破壊欲動は誰にでもあるよ

自己破壊欲動というのは誰にでもあるよ。自己破壊欲動は究極的には生物学的死にかかわるが、そこまでいかないのが一般に見られる自己破壊欲動であり、例えばツイッターなんかで頻繁に見るね。


私たちの中には破壊性がある。自己破壊性と他者破壊性とは時に紙一重である、それは、天秤の左右の皿かもしれない。(中井久夫「「踏み越え」について」2003年『徴候・記憶・外傷』所収)


ま、ツイッターで見るのはその多くが他者破壊だが、他者破壊というのはその殆どが自己破壊の投射。なんらかの形で、自己破壊衝動があるゆえの、その防衛としての他者破壊。




次の文の中井久夫がとてもわかりやすい事例を挙げている。


抑制されつづけてきた自己破壊衝動が「踏み越え」をやさしくする場合がある。「いい子」「努力家」は無理がかかっている場合が多い。ある学生は働いている母親の仕送りで生活していたが、ある時、パチンコをしていて止まらなくなり、そのうちに姿は見えないが声が聞こえた。「どんどんすってしまえ、すっからかんになったら楽になるぞ」。解離された自己破壊衝動の囁きである。また、四十年間、営々と努力して市でいちばんおいしいという評価を得るようになったヤキトリ屋さんがあった。主人はいつも白衣を着て暑い調理場に出て緊張した表情で陣頭指揮をしてあちこちに気配りをしていた。ある時、にわかに閉店した。野球賭博に店を賭けて、すべてを失ったとのことであった。私は、積木を高々と積んでから一気にガラガラと壊すのを快とする子ども時代の経験を思い合わせた。主人が店を賭けた瞬間はどうであったろうか。(中井久夫「「踏み越え」について」2003年『徴候・記憶・外傷』所収)


これらはよくある話だろ? 


で、「解離された自己破壊衝動の囁き」とあるが、この解離とは排除のこと。


サリヴァンも解離という言葉を使っていますが、これは一般の神経症論でいう解離とは違います。むしろ排除です。フロイトが「外に放り投げる」という意味の Verwerfung という言葉で言わんとするものです。〔・・・〕解離とその他の防衛機制との違いは何かというと、防衛としての解離は言語以前ということです。それに対してその他の防衛機制は言語と大きな関係があります。(中井久夫「統合失調症とトラウマ」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)


そして排除とは原抑圧=超自我。


原抑圧は排除である[refoulement originaire…à savoir la forclusion. ](J.-A. MILLER, CE QUI FAIT INSIGNE COURS DU 3 JUIN 1987)

超自我と原抑圧との一致がある[il y a donc une solidarité du surmoi et du refoulement originaire. ]  (J.-A. MILLER, LA CLINIQUE LACANIENNE, 24 FEVRIER 1982)


原抑圧=超自我とは、どちらも固着ということ。


抑圧の第一段階ーー原抑圧された欲動ーーは、あらゆる「抑圧」の先駆けでありその条件をなしている固着である[Die erste Phase besteht in der Fixierung, (primär verdrängten Triebe) dem Vorläufer und der Bedingung einer jeden »Verdrängung«. ]。(フロイト『症例シュレーバー 』1911年、摘要)

超自我が設置された時、攻撃欲動の相当量は自我の内部に固着され、そこで自己破壊的に作用する[Mit der Einsetzung des Überichs werden ansehnliche Beträge des Aggressionstriebes im Innern des Ichs fixiert und wirken dort selbstzerstörend]. (フロイト『精神分析概説』第2章、1939年)



この固着がラカンのリアルな対象a。


対象aはリビドーの固着点に現れる[petit(a) …apparaît que les points de fixation de la libido ](Lacan, S10, 26 Juin 1963)

無意識の最もリアルな対象a、それが享楽の固着である[ce qui a (l'objet petit a) de plus réel de l'inconscient, c'est une fixation de jouissance.](J.-A. MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses comités d'éthique, 26/2/97)



要するに、中井久夫の「解離された自己破壊衝動の囁き」とは「固着された自己破壊欲動の超自我の声」と言い換えうる。


超自我のあなたを遮る命令の形態は、声としての対象aの形態にて現れる[la forme des impératifs interrompus du Surmoi …apparaît la forme de (a) qui s'appelle la voix. ](ラカン, S10, 19 Juin 1963



超自我は自己破壊を命令するのである。


超自我を除いて、何ものも人を享楽へと強制しない。超自我は享楽の命令である、「享楽せよ!」と[Rien ne force personne à jouir, sauf le surmoi. Le surmoi c'est l'impératif de la jouissance : « jouis ! »]  (Lacan, S20, 21 Novembre 1972)


享楽=マゾヒズム=自己破壊であり、「享楽せよ」とは「自己破壊せよ」である。


現実界の享楽は、マゾヒズムから構成されている[Jouissance du réel comporte le masochisme](Lacan, S23, 10 Février 1976)

マゾヒズムはその目標として自己破壊をもっている[Masochismus …welche die Selbstzerstörung zum Ziel hat.](フロイト『新精神分析入門』32講、1933年)



自己破壊欲動=死の欲動というときの「死」という語に騙されてはダメなので、この死は何よりもまず快原理内に住まう「自我の死」であり、いわば快原理の彼岸にある欲動の主体がその自我の消滅によって現れるということ。欲動の身体までが死んでしまう生物学的死は、究極の話であり稀な事例。


死の欲動は超自我の欲動である[la pulsion de mort ..., c'est la pulsion du surmoi]  (J.-A. Miller, Biologie lacanienne, 2000)

享楽の意志は欲動の名である。欲動の洗練された名である。享楽の意志は主体を欲動へと再導入する。この観点において、おそらく超自我の真の価値は欲動の主体である。Cette volonté de jouissance est un des noms de la pulsion, un nom sophistiqué de la pulsion. Ce qu'on y ajoute en disant volonté de jouissance, c'est qu'on réinsère le sujet dans la pulsion. A cet égard, peut-être que la vraie valeur du surmoi, c'est d'être le sujet de la pulsion. (J.-A. Miller, LES DIVINS DETAILS, 17 MAI 1989)


欲動の主体とあるけれど、自我という頭がない主体のことだ。


欲動の主体…最も根源的な欲動は、無頭の主体の様式としてある「le sujet de la pulsion … la pulsion dans  sa forme radicale,… comme mode d'un sujet acéphale,](Lacan, S11, 13  Mai  1964)



そもそもフロイトが死の欲動について最初に示した定義は、快原理の彼岸にある反復強迫であり、生物学的死とは基本的に関係ない。


われわれは反復強迫の特徴に、何よりもまず死の欲動を見出だす[Charakter eines Wiederholungszwanges …der uns zuerst zur Aufspürung der Todestriebe führte.](フロイト『快原理の彼岸』第6章、1920年)


ま、ボクは生物学的死にかかわる死の欲動を記述することが多いので誤解を招いてしまうのかも知れないが、死の欲動とは何よりもまず「快」でもないのになぜ人は反復強迫するのか、という問いから生まれた概念。例えば同一の不快な夢の反復が起これば、これが死の欲動だよ。