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2022年1月10日月曜日

唯ぼんやりした不安

 

この頃自分は Philipp Mainlaender が事を聞いて、その男の書いた救抜の哲学を読んで見た。〔・・・〕人は最初に遠く死を望み見て、恐怖して面を背ける。次いで死の廻りに大きい圏を画いて、震慄しながら歩いてゐる。その圏が漸く小くなつて、とうとう疲れた腕を死の項に投げ掛けて、死と目と目を見合はす。そして死の目の中に平和を見出すのだと、マインレンデルは云つてゐる。

さう云つて置いて、マインレンデルは三十五歳で自殺したのである。(森鴎外「妄想」明治四十四年三月―四月)


マインレンデルは頗る正確に死の魅力を記述してゐる。実際我々は何かの拍子に死の魅力を感じたが最後、容易にその圏外に逃れることは出来ない。のみならず同心円をめぐるやうにぢりぢり死の前へ歩み寄るのである。(芥川龍之介「侏儒の言葉」1927(昭和2)年)

僕はこの二年ばかりの間は死ぬことばかり考へつづけた。僕のしみじみした心もちになつてマインレンデルを読んだのもこの間である。(芥川龍之介「或旧友へ送る手記」昭和二年七月、遺稿)


………………………



誰もまだ自殺者自身の心理をありのままに書いたものはない。それは自殺者の自尊心や或は彼自身に対する心理的興味の不足によるものであらう。僕は君に送る最後の手紙の中に、はつきりこの心理を伝へたいと思つてゐる。尤も僕の自殺する動機は特に君に伝へずとも善い。レニエは彼の短篇の中に或自殺者を描いてゐる。この短篇の主人公は何の為に自殺するかを彼自身も知つてゐない。君は新聞の三面記事などに生活難とか、病苦とか、或は又精神的苦痛とか、いろいろの自殺の動機を発見するであらう。しかし僕の経験によれば、それは動機の全部ではない。のみならず大抵は動機に至る道程を示してゐるだけである。自殺者は大抵レニエの描いたやうに何の為に自殺するかを知らないであらう。それは我々の行為するやうに複雑な動機を含んでゐる。が、少くとも僕の場合は唯ぼんやりした不安である。何か僕の将来に対する唯ぼんやりした不安である。君は或は僕の言葉を信用することは出来ないであらう。しかし十年間の僕の経験は僕に近い人々の僕に近い境遇にゐない限り、僕の言葉は風の中の歌のやうに消えることを教へてゐる。従つて僕は君を咎めない。…… 

僕はこの二年ばかりの間は死ぬことばかり考へつづけた。僕のしみじみした心もちになつてマインレンデルを読んだのもこの間である。マインレンデルは抽象的な言葉に巧みに死に向ふ道程を描いてゐるのに違ひない。が、僕はもつと具体的に同じことを描きたいと思つてゐる。家族たちに対する同情などはかう云ふ欲望の前には何でもない。これも亦君には、Inhuman の言葉を与へずには措かないであらう。けれども若し非人間的とすれば、僕は一面には非人間的である。 


僕は何ごとも正直に書かなければならぬ義務を持つてゐる。(僕は僕の将来に対するぼんやりした不安も解剖した。それは僕の「阿呆の一生」の中に大体は尽してゐるつもりである。(芥川龍之介「或旧友へ送る手記」昭和二年七月、遺稿)




《唯ぼんやりした不安》ーー、一見、平凡な表現だが、この不安が、芥川のなかで、《何かの拍子に死の魅力を感じたが最後、容易にその圏外に逃れることは出来ない。のみならず同心円をめぐるやうにぢりぢり死の前へ歩み寄るのである》にかかわるのだ。


…………………

ところで、フロイトが使う不安という語は不快と等価である、《不快(不安)[ Unlust-(Angst).]》(フロイト『制止、症状、不安』第2章、1926年)


この不安=不快は、快原理の彼岸にある欲動、つまり享楽である。


欲動要求が快原理と矛盾するとき、不安と呼ばれる不快がある[quand cette insistance pulsionnelle entre en contradiction avec le principe du plaisir, il y a ce déplaisir qu'on appelle angoisse]. (J.-A. MILLER,  Orientation lacanienne III, 6. - 02/06/2004)


したがってラカンはこう言っている。


不快は享楽以外の何ものでもない [déplaisir qui ne veut rien dire que la jouissance. ](Lacan, S17, 11 Février 1970)


芥川の《唯ぼんやりした不安》は、快原理の彼岸にある「唯ぼんやりした不快」と言い直せる。

快原理とは言語秩序内にある。言語では言い表せない快原理の彼岸にあるゆえの「ぼんやり」である。


意味の排除の不透明な享楽[Jouissance opaque d'exclure le sens ](Lacan,  “Joyce le Symptôme”, AE 569)


いま"opaque"を「不透明な」と訳したが「ぼんやり」とも訳せる。


したがって不透明な享楽[Jouissance opaque]とは「ぼんやりした不快」である。

これが現実界の享楽である。


現実界は意味の追放である[Le Réel, c'est l'expulsé du sens,](Lacan, S22, 11 Mars 1975)

現実界の位置は、私の用語では、意味を排除することだ。[L'orientation du Réel, dans mon ternaire à moi, forclot le sens. ](Lacan, S23, 16 Mars 1976)


不透明な享楽の別名は沈黙した享楽だ。


享楽の反復は意味を超えている。ラカンは、最初に女性のセクシャリティにおいて見出したこの沈黙した享楽の事例を一般化し得た。基本的には、ラカンは引き続いて、男性においてもこの沈黙した享楽を拡張した。つまり、これを通して、意味に対して不透明な享楽の根源的位置を授けたのである。


Cette répétition de jouissance se fait hors-sens,… C'est aussi par là que Lacan a pu généraliser l'instance de cette jouissance muette qu'il découvrait dans la sexualité féminine. Au fond, il l'a étendue dans un second temps au mâle aussi, pour dire que c'est elle qui donne le statut fondamental de la jouissance comme opaque au sens. (J.-A. MILLER, - L'Être et l'Un, 23/03/2011)


沈黙した享楽[jouissance muette]、唖の享楽・・・


死の欲動は本源的に沈黙しているという印象は避けがたい[müssen wir den Eindruck gewinnen, daß die Todestriebe im wesentlichen stumm sind ](フロイト『自我とエス』第4章、1923年)

享楽の弁証法は、厳密に生に反したものである[dialectique de  la jouissance, c'est proprement ce qui va contre la vie.]  (Lacan, S17, 14 Janvier 1970)



ぼんやりした啞不安の効果がある

同心円をめぐるやうにぢりぢり死の前へ歩み寄り

圏が漸く小くなつてゆき死と目と目を見合はす・・・



彼は医者の目を避ける為に硝子窓の外を眺めてゐた。そこには空き罎の破片を植ゑた煉瓦塀の外に何もなかつた。しかしそれは薄い苔をまだらにぼんやりと白らませてゐた。(芥川龍之介『或阿呆の一生』二「母」)

何も彼もぼんやりなりはじめた。そこを一度通り越しさへすれば、死にはひつてしまふのに違ひなかつた。(芥川龍之介『或阿呆の一生』四十四「死」昭和二年六月、遺稿)



あの半透明な歯車の弁証法・・・


何ものかの僕を狙つてゐることは一足毎に僕を不安にし出した。そこへ半透明な歯車も一つづつ僕の視野を遮り出した。僕は愈最後の時の近づいたことを恐れながら、頸すぢをまつ直にして歩いて行つた。歯車は数の殖えるのにつれ、だんだん急にまはりはじめた。(芥川龍之介「歯車」昭和二年、遺稿)