ラカンは1973年5月15日、アンコールセミネールⅩⅩの最後の講義で、現実界の無意識[l'inconscient réel]として話す身体[le corps parlant]概念を提出した。 |
私は私の身体で話している。私は知らないままでそうしている。だから私は、私が知っていること以上のことを常に言う[Je parle avec mon corps, et ceci sans le savoir. Je dis donc toujours plus que je n'en sais. ](Lacan, S20, 15 Mai 1973) |
現実界、それは話す身体の神秘、無意識の神秘である[Le réel, dirai-je, c’est le mystère du corps parlant, c’est le mystère de l’inconscient](Lacan, S20, 15 mai 1973) |
それまでのラカンの無意識は、象徴界の無意識[l'inconscient symbolique]だった。 |
無意識は言語のように構造化されている[L'inconscient est structuré comme un langage ](Lacan, S11, 22 Janvier 1964) |
象徴界は言語である[Le Symbolique, c'est le langage] (Lacan, S25, 10 Janvier 1978) |
このラカンの無意識の定義にはかねてから批判がある。 |
ラカンが、無意識は言語のように(あるいは「として」comme)組織されているという時、彼は言語をもっぱら「象徴界」に属するものとして理解していたのが惜しまれる。(中井久夫「創造と癒し序説」初出1996年『アリアドネからの糸』所収) |
ラカンのセミネールに出席していたラカンの弟子筋にあたるアンドレ・グリーンAndré Greenの批判は次の通り。 |
ラカンは「無意識は言語のように構造化されている」と言っている…しかしあなたがたがフロイトを読めば、明らかにこの主張は全く機能しないのが分かる。フロイトははっきりと前意識と無意識を対立させている(フロイトの言う無意識とはモノ表象によって構成されているのであって、それ以外の何ものによっても構成されていない)。言語に関わるものは、前意識にのみ属しうる。 Lacan is saying that the unconscious is structured like a language...when you read Freud, it is obvious that this proposition doesn't work for a minute. Freud very clearly opposes the unconscious (which he says is constituted by thing-presentations and nothing else) to the pre-conscious. What is related to language can only belong to the pre-conscious"(André GreenーーQuoted in Mary Jacobus, The Poetics of Psychoanalysis 、2005) |
ここでは最晩年のフロイトから引こう。 |
抑圧されたものは異者身体として分離されている[Verdrängten … sind sie isoliert, wie Fremdkörper] 〔・・・〕抑圧されたものはエスに属し、エスと同じメカニズムに従う[Das Verdrängte ist dem Es zuzurechnen und unterliegt auch den Mechanismen desselben]〔・・・〕 自我はエスから発達している。エスの内容の一部分は、自我に取り入れられ、前意識状態に格上げされる。エスの他の部分は、この翻訳に影響されず、本来の無意識(原無意識)としてエスのなかに置き残されたままである。[das Ich aus dem Es entwickelt. Dann wird ein Teil der Inhalte des Es vom Ich aufgenommen und auf den vorbewußten Zustand geho-ben, ein anderer Teil wird von dieser Übersetzung nicht betroffen und bleibt als das eigentliche Unbewußte im Es zurück.](フロイト『モーセと一神教』3.1.5 Schwierigkeiten, 1939年、摘要) |
上の文での抑圧は原抑圧のことである。 |
われわれが治療の仕事で扱う多くの抑圧は、後期抑圧の場合である。それは早期に起こった原抑圧を前提とするものであり、これが新しい状況にたいして引力をあたえる。daß die meisten Verdrängungen, mit denen wir bei der therapeutischen Arbeit zu tun bekommen, Fälle von Nachdrängen sind. Sie setzen früher erfolgte Urverdrängungen voraus, die auf die neuere Situation ihren anziehenden Einfluß ausüben. . (フロイト『制止、症状、不安』第2章、1926年) |
固着に伴い原抑圧がなされ、暗闇に異者が蔓延る[Urverdrängung…Mit dieser ist eine Fixierung gegeben; …wuchert dann sozusagen im Dunkeln, fremd erscheinen müssen](フロイト『抑圧』1915年、摘要) |
ラカンは前期からフロイトの異者概念をしきりに引用して語っているので、「言語のように構造化された無意識」などという定義をしたのは不思議でならないのだが、実際のところ1973年までその定義を放ったらかしにしていたのである。 結局、フロイトの思考は次のように定式化されるとしてよい。 |
前意識は言語のように構造化されている「le préconscient est structuré comme un langage] |
無意識は言語のように構造化されていない[l'inconscient n'est pas structuré comme un langage] |
ところでラカンは1973年5月に無意識を定義し直した2年後、話す存在[ parlêtre]ーー「言存在」やら「言語存在」やらと訳している日本ラカン派もいるーーという概念を示した。 |
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話す存在という私の表現はフロイトの無意識を代替するものである[D'où mon expression de parlêtre qui se substituera à l'ICS de Freud ](Lacan, Joyce le Symptôme”1975) |
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私はこの "parlêtre" という語を好まないのだが(邦訳するといかにも凡庸な語であり、しかも「身体の無意識」であることがわからない)、これは冒頭に掲げた「話す身体」のことである。 |
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ラカンは「話す身体」の概念を「話す存在」に結びつけた[D'où le concept de corps parlant que Lacan associe au parlêtre.](ジャン=ルイ・ゴー Jean-Louis Gault , Le parlêtre et son sinthome , 2016) |
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ジャック=アラン・ミレールは次のように "parlêtre"を注釈している。 |
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ラカンは “Joyce le Symptôme”(1975)で、フロイトの「無意識」という語を、話す存在[parlêtre]に置き換える。[« Joyce le Symptôme » où il avance le néologisme que je disais, dont il prophétise qu'il remplacera le mot freudien de l'inconscient, le parlêtre. ]〔・・・〕 話す存在[parlêtre] の分析は、フロイトの意味における無意識の分析とは、もはや全く異なる。言語のように構造化されている無意識とも異なる[pour autant qu'analyser le parlêtre, ce n'est plus exactement la même chose que d'analyser l'inconscient au sens de Freud, ni même l'inconscient structuré comme un langage. ]〔・・・〕 |
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話す存在のサントーム[le sinthome d'un parlêtre]は、身体の出来事・享楽の出現である [le sinthome d'un parlêtre, c'est un événement de corps, une émergence de jouissance.] さらに、問題となっている身体は、あなたの身体であるとは言っていない。あなたは《他の身体の症状 》、《ひとりの女 》でありうる[Le corps en question d'ailleurs, rien ne dit que c'est le vôtre. Vous pouvez être le symptôme d'un autre corps pour peu que vous soyez une femme.](J.-A. MILLER, L'inconscient et le corps parlant, 2014) |
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この文も《話す存在[parlêtre] の分析は、フロイトの意味における無意識の分析とは、もはや全く異なる》とあるところが好まない。 とはいえ実際のフロイトドグマの臨床は、上に引用したフロイトが言っているように《われわれが治療の仕事で扱う多くの抑圧は、後期抑圧の場合である》。この、事実上、前意識に属する無意識を、フロイトは1915年の『無意識』論文で、力動的無意識[Dynamik Ubw ]、あるいは無意識の後裔 [Abkömmling des Unbewussten]と呼んでいる。 実際、フロイト派の臨床はほとんどこの無意識の後裔のみに焦点を当てられてきたという意味で、ジャック=アラン・ミレールの言い方は、臨床的には受け入れざるを得ない。「フロイト派のみなさん、あんたたちバカじゃないの?」というメッセージにもなる。 |
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ジャック=アラン・ミレールは2年後の2016年、次のように補足している。 |
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身体なき享楽はない。私は提案するが、話す存在概念は欲動の原無意識と等価の場に置かれる[il n'y a pas de jouissance sans corps. Le concept de parlêtre – c'est ce que je propose – repose sur l'équivalence originaire inconscient – pulsion. ]〔・・・〕 現実界は、フロイトが「無意識」と「欲動」と呼んだものである。この意味で無意識と話す身体はひとつであり、同じ現実界である[le réel à la fois de ce que Freud a appelé « inconscient » et « pulsion ». En ce sens, l'inconscient et le corps parlant sont un seul et même réel. ](Jacques-Alain Miller, HABEAS CORPUS, avril 2016) |
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この2016年の発言にて2014年の発言は明瞭化された。話す存在=話す身体は、フロイトの欲動、欲動の身体であり、フロイトの原無意識なのである。
そして原無意識とは先ほど引用した『モーセ』にあるように、原抑圧=固着によってエスに置き残された異者身体[Fremdkörper]である。 |
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これは実は2014年の発言に暗示されている。再掲しよう。 |
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話す存在のサントーム[le sinthome d'un parlêtre]は、身体の出来事・享楽の出現である [le sinthome d'un parlêtre, c'est un événement de corps, une émergence de jouissance.] さらに、問題となっている身体は、あなたの身体であるとは言っていない。あなたは《他の身体の症状 》、《ひとりの女 》でありうる[Le corps en question d'ailleurs, rien ne dit que c'est le vôtre. Vous pouvez être le symptôme d'un autre corps pour peu que vous soyez une femme.](J.-A. MILLER, L'inconscient et le corps parlant, 2014) |
話す存在のサントーム[le sinthome d'un parlêtre]は、《他の身体の症状 》、《ひとりの女 》だとある。
ミレールのいっていることは、ラカンの次の二文にある。 |
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ひとりの女は他の身体の症状である[une femme est symptôme d'un autre corps](Lacan, JOYCE LE SYMPTOME, AE569, 1975) |
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ひとりの女はサントームである[une femme est un sinthome ](Lacan, S23, 17 Février 1976) |
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ところで最晩年の1978年のラカンは次のように言っている。 |
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ひとりの女は異者である[une femme … c'est une étrangeté.] (Lacan, S25, 11 Avril 1978) |
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この異者が原無意識としての話す存在=話す身体である。サントーム=他の身体の症状=異者である。そして《サントームは固着である[Le sinthome est la fixation]》. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011、摘要)。固着=原抑圧であり、これがフロイトの『モーセ』に現れている内容である。 |
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・固着[Fixierung]=原無意識[eigentliche Unbewußte]=異者身体[Fremdkörper] |
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・話す存在[parlêtre]=話す身体[corps parlant]= 異者身体[corps étranger] |
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ーー固着を通した異者身体、これが原無意識であり、ラカンの現実界の無意識である。ジャック=アラン・ミレールのいう《話す存在のサントーム[le sinthome d'un parlêtre]》は、異者身体の固着[la fixation du corps étranger]ーー異者の固着[Fixierung von Fremdkörper]ーーと言い換えることさえできる。 |
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ここで言いたいのは、ケッタイなラカンジャーゴンなど使わずに異者身体(異者としての身体)でよいということである。 失礼ながら蚊居肢子は断言するが、フロイトラカン理論はーーいやすべての人間の原点はーー、固着[Fixierung]と異者身体[Fremdkörper]、この2語でよろしい。 フロイトラカンには原無意識を表す種々の用語がある[参照]。 だが何よりも重要なのは固着[Fixierung]と異者身体[Fremdkörper]である。 先ほど掲げた1915年の『抑圧』論文と1939年の『モーセ』とともに次の三文はセットである。
異者身体の症状[Symptom als einen Fremdkörper]、これが、話す存在のサントーム[le sinthome d'un parlêtre]の定義である「他の身体の症状」である。ーー《ひとりの女は他の身体の症状である[une femme est symptôme d'un autre corps]》(Lacan, JOYCE LE SYMPTOME, AE569, 1975)
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※付記 なお最も簡潔に言えば、現実界の無意識は欲動の無意識、象徴界の無意識は欲望の無意識である。 |
欲望は自然の部分ではない。欲望は言語に結びついている。それは文化で作られている。より厳密に言えば、欲望は象徴界の効果である[le désir ne relève pas de la nature : il tient au langage. C'est un fait de culture, ou plus exactement un effet du symbolique.](J.-A. MILLER "Le Point : Lacan, professeur de désir" 06/06/2013) |
はっきりいって欲望の無意識は子供騙しの無意識である。 |
いずれにせよ、精神分析学では、成人言語が通用する世界はエディプス期以後の世界とされる。 この境界が精神分析学において重要視されるのはそれ以前の世界に退行した患者が難問だからである。今、エディプス期以後の精神分析学には誤謬はあっても秘密はない。(中井久夫「詩を訳すまで」初出1996年『アリアドネからの糸』所収) |
ーー《固着点[Stelle der Fixierung]へのリビドー的展開の退行[Regression der Libidoentwicklung]がある。》(フロイト『自伝的に記述されたパラノイアの一症例に関する精神分析的考察』(症例シュレーバー)1911年、摘要) この固着点への退行まで行ったら現実界の無意識だ。それに対して象徴界の無意識は「欲望会議」やらとかいっている程よく聡明な、つまり凡庸な「三馬鹿トリオ」のたぐいに任せておけばよろしい。 |