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2022年1月24日月曜日

君たちのやっていることはすべて「言語ゲーム」という虚構だよ


柄谷行人がかつてから何度も繰り返し引用している「個人は社会的関係の所産」とするマルクスの『資本論』序文がある。


経済的社会構成の発展を自然史的過程としてとらえる私の立場は、他のどの立場にもまして、個人を諸関係に責任あるものとはしない。個人は、主観的にはどれほど諸関係を超越していようと、社会的にはやはり諸関係の所産なのである。

Weniger als jeder andere kann mein Standpunkt, der die Entwicklung der ökonomischen Gesellschaftsformation als einen naturgeschichtlichen Prozeß auffaßt, den einzelnen verantwortlich machen für Verhältnisse, deren Geschöpf er sozial bleibt, sosehr er sich auch subjektiv über sie erheben mag. (マルクス『資本論』第一巻「第一版序文」1867年)



柄谷が次のようにいっているのは、このマルクスからである。


広い意味で、交換(コミュニケーション)でない行為は存在しない。〔・・・〕その意味では、すべての人間の行為を「経済的なもの」として考えることができる。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001年)



そしてマルクスの社会的関係[soziale Verhältnis]とはラカンの言説[discours]=社会的結びつき[lien social]に相当する。


言説とは何か? それは、言語の存在によって生じうる秩序において、社会的結びつきの機能を作るものである。[Le discours c’est quoi ? C’est ce qui, dans l’ordre… dans l’ordonnance de ce qui peut se produire par l’existence du langage, fait fonction de lien social. ](Lacan à l’Université de Milan le 12 mai 1972)


もっともラカンにおいて言説とは見せかけ、つまり症状である。


言説はそれ自体、常に見せかけの言説である[le discours, comme tel, est toujours discours du semblant ](Lacan, S19, 21 Juin 1972)

社会的結びつきは症状である[le lien social, c’est le symptôme] (J.-A. Miller, Los inclasificables de la clínica psicoanalítica, 1999)


ラカンが次のように言っているのは、このマルクスの社会的関係[soziale Verhältnis]=社会的結びつき[le lien social]=症状[le symptôme]のコンテキストのなかにある。


症状概念。注意すべき歴史的に重要なことは、フロイトによってもたらされた精神分析の導入の斬新さにあるのではないことだ。症状概念は、私は何度か繰り返し示してきたが、マルクスを読むことによって、とても容易くその所在を突き止めるうる。la notion de symptôme. Il est important historiquement de s'apercevoir que ce n'est pas là que réside la nouveauté de l'introduction à la psychanalyse réalisée par FREUD : la notion de symptôme, comme je l'ai plusieurs fois indiqué, et comme il est très facile de le repérer, à la lecture de celui qui en est responsable, à savoir de MARX.(Lacan, S18,16 Juin 1971)



そしてマルクスのフェティッシュがラカンの対象aである。


私が対象aと呼ぶもの、それはフェティシュとマルクスが奇しくも精神分析に先取りして同じ言葉で呼んでいたものである[celui que j'appelle l'objet petit a [...] ce que Marx appelait en une homonymie singulièrement anticipée de la psychanalyse, le fétiche ](Lacan, AE207, 1966年)


フェティッシュとはもちろん剰余価値である。


剰余価値[Mehrwert]、それはマルクス的快[Marxlust]、マルクスの剰余享楽[le plus-de-jouir de Marx]である。(ラカン、ラジオフォニー, AE434, 1970年)

剰余価値は欲望の原因であり、経済がその原理とするものである。経済の原理とは「享楽欠如 manque-à-jouir」の拡張的生産の、飽くことをしらない原理である。la plus-value, c'est la cause du désir dont une économie fait son principe : celui de la production extensive, donc insatiable, du manque-à-jouir.(Lacan, RADIOPHONIE, AE435,1970年)



剰余価値[Mehrwert]=剰余享楽[plus-de-jouir]=享楽欠如[manque-à-jouir]の再生産とあるが、これは別の言い方をすれば、現実界の享楽に対する嘘である。


症状は現実界についての嘘である[Le symptôme  est un mensonge sur le réel] (J.-A. MILLER, L'Autre qui  n'existe pas  et ses Comités d'éthique, 18/12/96)

嘘をつかないものは享楽である[Ce qui ne ment pas, c'est la jouissance](J.-A. MILLER, L'inconscient et le corps parlant, 2014)



現実界の享楽とはフロイトの欲動、欲動の身体である。これのみが非嘘である。


晩年のラカンに準拠した現代ラカン派においては、欲望は嘘なのである。


欲望は自然の部分ではない。欲望は言語に結びついている。それは文化で作られている。より厳密に言えば、欲望は象徴界の効果である[le désir ne relève pas de la nature : il tient au langage. C'est un fait de culture, ou plus exactement un effet du symbolique.](J.-A. MILLER "Le Point : Lacan, professeur de désir" 06/06/2013)

象徴界は厳密に嘘である[le symbolique, précisément c'est le mensonge.](J.-A. MILLER, Le Reel Dans L'expérience Psychanalytique. 2/12/98)


人が欲望と言っているもの背後には常に欲動の身体がある。ーー《欲動に結びついていない欲望はない[il n'y a pas de désir qui ne soit connecté à la pulsion,]》(J.-A. MILLER, - L'Être et l'Un - 25/05/2011)。自我とは欲望あるいは言語の審級にあり、ラカンが自我心理学を徹底的に叩いたのは主にこの理由である。


この「欲望/欲動」はフロイト用語なら、自我自体も身体自我(ラカンの鏡像身体)なので、身体エスと対比させて次の形になる(参照)。





繰り返せば、言語あるいは言説をパートナーとしている限りでは人はみな嘘つきである。


主体の生の真のパートナーは、実際は、人間ではなく言語自体である[le vrai partenaire de la vie de ce sujet n'était en fait pas une personne, mais bien plutôt le langage lui-même ](J.-A. Miller, Retour sur la psychose ordinaire, 2009)


少し前、岩井克人の「言語、法、貨幣」とラカン派の「言語、法、ファルス」は等価であることを示した[参照]。要するに「ファルス=言語=法=貨幣」である。


人は、ファルスを媒介して交換活動をしている「経済的主体=嘘つきの主体」である。欲動のファルス化(言語化)が欲望であるが、常に欲動の残滓がある。ここに「真理」がある。




これはラカン派なら次のように置かれる(このaは剰余享楽のaとは異なり底部の残滓aという意味なので注意)。




さてこういったことを言っても仕様がないという観点もあろう。人はみな言語を使って生きていかなければならないのだから。だが少なくとも言語あるいは言説活動への過信についての諌めにはなる。


ここに後期ウィトゲンシュタインがいる。


伝達という言語ゲームは何なのだろうか? Was ist das Sprachspiel des Mitteilens?


私は言いたい、あなたは人が誰かに何かを伝達できるということを、あまりにも自明なことと見なしすぎている。つまりわれわれは、会話において言語を使った伝達にとても慣れてしまっているので、伝達において重要なことの全ては、他人が私の言葉の意味 ―― 心的な何か ―― を把握する、いわば彼の心のうちに受け入れることの中にある、と思っている。

Ich möchte sagen: du siehst es für viel zu selbstverständlich an, daß man Einem etwas mitteilen kann. Das heißt: Wir sind so sehr an die Mitteilung durch Sprechen, im Gespräch, gewöhnt, daß es uns scheint, als läge der ganze Witz der Mitteilung darin, daß ein Andrer den Sinn meiner Worte - etwas Seelisches - auffaßt, sozusagen in seinen Geist aufnimmt. 

(ウィトゲンシュタイン『哲学研究』363節)


ウィトゲンシュタインは、君たちのやっていることは言語ゲームという虚構に過ぎないよ、と言っているのである。言語による純粋論理を展開した前期ウィトゲンシュタインからの大きな転回。


言語とは本来的に虚構である[le langage est, par nature, fictionnel](ロラン・バルト『明るい部屋』1980年)



ーーこの言語ゲーム[Sprachspiel]は家族的類似性[Familienähnlichkeit]に大きくかかわるが、話が長くなるのでここでは割愛。



ここでは柄谷の言語ゲーム解釈を掲げておく。ラカン派的にはこれだけではまったくないがーー例えばラカンにおいて柄谷の言っている「他者」は自我という共同体の彼岸にある他の身体[autre corps]=欲動の身体[corps de la pulsion]であり、事実上、エスの身体であるーー、最低限、柄谷の云う次の認識が必要である。


『探究Ⅰ』において、私は、コミュニケーションや交換を、共同体の外部、すなわち共同体と共同体の「間」に見ようとした。つまり、なんら規則を共有しない他者との非対称的な関係において見ようとした。「他者」とは、言語ゲームを共有しない者のことである。規則が共有される共同体の内部では、私と他者は対称的な関係にあり、交換=コミュニケーションは自己対話(モノローグ)でしかない。一方、非対称的な関係における交換=コミュニケーションには たえず「命懸けの飛躍」がともなう。私はまた、そういう非対称関係における交通からなる世界を「社会」とよび、共通の規則をもち従って対称的関係においてある世界を「共同体」と呼んできた。


ここで、誤解をさけるために補足しておきたいことがある。第一に、「共同体」というとき、村とか国家とかいったものだけを表象してはならないということである。規則が共有されているならば、それば共同体である。したがって、自己対話つまり意識も共同体と見なすことができる。共同体の外とか間という場合、それを実際の空間のイメージで理解してはならない。それは体系の差異としてのみあるような「場所」である。(柄谷行人『『探究Ⅱ』1989年)



現在、多くの人がツイッター装置にて、自らのクラスタ共同体内で自ら知らぬまま嘘の吐き合いやっている。湿った瞳を交わし合い頷き合っている。そしてクラスタ外部の連中を中傷・嘲弄している。ムラ社会同士のきわめて醜い仕草。あれこそいち早く逃れるべき振る舞いである。


彼らはそれを知らないが、そうしている[ Sie wissen das nicht, aber sie tun es](マルクス 『資本論』第1篇第1章第4節「商品のフェティシズム的性格とその秘密(Der Fetischcharakter der Ware und sein Geheimnis」)