惻隠の心無きは、人に非ざるなり。(孟子「公孫丑編」) |
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人間に惻隠の情はあるよ、《人間は人間にとって狼である[Homo homini lupus]》(プラウトゥスーーホッブス『人間論』献辞)だけではない。 |
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とはいえほとんどの場合、ルソーの「憐れみの格率」、とくに第二の格率に合致した時のみ人は憐れむのではないか。 |
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【第一の格率】:人間の心は自分よりも幸福な人の地位に自分をおいて考えることはできない。自分よりもあわれな人の地位に自分をおいて考えることができるだけである。 【第二の格率】:人はただ自分もまぬがれられないと考えている他人の不幸だけをあわれむ。 【第三の格率】:他人の不幸にたいして感じる同情は、その不幸の大小ではなく、その不幸に悩んでいる人が感じていると思われる感情に左右される。(ルソー『エミール』1762年) |
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「第二の格率」を逆に言えば、「人は自分が不幸を免れていると考えたら、他人を憐れまない」となる。 |
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あるいは他者に同一化しなければ憐れまない。 |
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私たちはどのようにして憐れみに心動かされるのであろうか。私たち自身の外に身を置くことによって、 つまり、苦しんでいる存在に同一化する (se identifier) ことによってである。( ルソー『言語起源論』1781年) |
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フロイト的に言えば、同一化しなければ人は同情しない。 |
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同情は同一化によって生まれる [das Mitgefühl entsteht erst aus der Identifizierung](フロイト『集団心理学と自我の分析』第7章、1921年) |
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「いや私はそんなことはない」という人がいるだろうことは知っている。 |
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でもこの今、例えばアフリカで飢餓で死につつある人を憐れんでいるだろうか。アナタは飢えを免れているから憐れまないんじゃないか。 もちろんこう言われたら瞬間的には憐れんで見せるのかもしれない。でもその憐れみには持続はない。そんなものは真の惻隠の情ではない。人は多くのことを見て見ぬふりして生きているんだ。ちがうかい?
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