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2022年2月14日月曜日

遠いその田舎町で、一日だけ、うどん屋になって 過ごしたい

 


昨晩、粕谷栄市の詩を読んでいたのだな、

この詩せいだな、故郷の町の市電の夢は。


家から百米先の市電通りの向うに、うどん屋があった。

母がとても好きだった鰹節のよく薫るうどん屋の出前。

当時、精神を病み寝たきりの母のためによく注文した。



以下の粕谷栄市の詩は、ネット上で断片を拾ったものであり、

たぶん連のあいだの歯抜けがある。そのつもりで読まれたし。



「もぐら座」


 たぶん、できないだろうが、もし、できることなら、

私は、遠いその田舎町で、一日だけ、うどん屋になって

過ごしたい。とは言っても、私は怠け者だ。本当は、何

もしないで、ぼんやりしていたい。



「一生」


 若し、おれが、南国の港の町で、何にでもなれる男だ
としたら、おれは、すぐ、若い水夫になる。太い腕をし
て、昼間から、酒場で酒を呑むのだ。                  


 水夫といっても、名ばかりで、べつに、働くことはな
い。なにしろ、おれは、滅多にいない二枚目のいい男で、
どこにいても、女たちが、放っておかない。         



「九月」


ずい分、永いこと一緒に暮らしたから、九月になった

ら、妻とふたり、ちょうちん花を見にゆきたいと思う。

 特に、何があるというわけでもない、その夜、私は、

ただ、それだけのことをしておきたいと思うのだ。


 懐かしい古里の逢瀬川の夜の河原に、ちょうちん花は、

咲いている。二、三本ずつ、かたまって、青い茎に、水

色のちょうちんの花の簪を吊るしている。


 ずい分、永いこと一緒に暮らしたから、ふたりは、そ

れを知っている。月明かりの吊橋の上から、それを眺め

てから、小石ばかりの河原を歩いてゆくのだ。


 そこは、ほかに、誰もいない河原だ。ここに、再び、

来ることはないだろう。永いこと、地獄と極楽の日々を、

一緒に暮らしたから、ふたりは、それを知っている。


 だからといって、ちょうちんの花に変わりがあるわけ

ではない。水色のちょうちんの花の簪。その一つ一つを、

ふたりは、丹念に、腰をかがめて見てまわる。


 それができるのは、あるいは、ふたりが、本当は、ど

こか、遠い町で、仮に、死んでいるからかもしれない。

深く、一切を、忘却しているからかも知れない。



「秋の花」


 静かな秋の日、遠い昔、別れた女に逢いに行った。風

の便りに、この世を去ったと聞いていたが、思いがけな

く、死ぬ前に、一度、顔が見たいと言ってきたからだ。


 永いこと、音信不通で過ごしてきたのだ。逢ったとこ

ろで、何があるわけでもないが、急に、懐かしく、逢い

たくなった。自分も、もう先のない老人だ。


 それができたのは、たぶん、それが夢のなかのことだ

ったからだろう。初めて訪れる町なのに、萩の花の咲く、

彼女の家への細い小径を、私は知っていたから。


 私にできることと言えば、黙って、そこに坐っている

ことだけだった。二人、並んで坐って、広い湖とそのほ

とりで、風に吹かれる萩の花を見ているだけだった。

(彼女は、本当に私の昔の彼女だったのだろうか。)


 この世で、人間は、さまざまな時間を過ごすが、こう

して、遥かな日々、睦み合って暮らした女と過ごす、自

分だけの淋しい花のようなひとときもある。


 二人は、いつまでも、そうして坐っていた。日が暮れ、

あたりが暗くなって、遠い夢のなかで、二人が見えなく

なるまで、そうしていた。


 そこは、ほかに、誰もいない河原だ。ここに、再び、

来ることはないだろう。永いこと、地獄と極楽の日々を、

一緒に暮らしたから、ふたりは、それを知っている。


 だからといって、ちょうちんの花に変わりがあるわけ

ではない。水色のちょうちんの花の簪。その一つ一つを、

ふたりは、丹念に、腰をかがめて見てまわる。


 それができるのは、あるいは、ふたりが、本当は、ど

こか、遠い町で、仮に、死んでいるからかもしれない。

深く、一切を、忘却しているからかも知れない。



「死んだ女房」


 その日、どういうわけか、何度も、同じ女に会った。

淋しそうな顔立ちのきれいな痩せた女で、小笊をかかえ

て、ぼんやり、佇んでいる。


 自分のように、車を曳いて、干魚を売る商いをしてい

ると、いろいろなことがある。女は、掘割の柳の陰にい

たり、横町の煙草屋の角にいたりした。おれが稲荷の社

で弁当を食っているときも、遠くで、おれを見ていた。


 車を曳いてゆくと、いなくなっている。結局、それだ

けのことだった。その日、家で、銭を数えながら、その

女のことを思い出したが、全く、心当たりはなかった。


 誰だったろう。死んだ女房の知り合いだったか。それ

にしても、その後、その女を見ることはなかったのだ。


 次に、久しぶりに、その女を見たのは、おれが、病気

で寝ているときだった。夕暮れ、女は、おれの家にいて、

台所で、蕪を洗っていた。


 おれは、布団から頭を上げて、それを見た。たしかに、

あの女だと分かったが、今度は、女は、居間で、足袋を

縫っていて、おれに気づかなかった。そのうちに、あた

りが暗くなって、何もかも見えなくなった。


 おれは死病だと言われて、寝たきりだったのだ。高熱

が出て、何度も気が遠くなったから、それは、そのとき

だけの幻だったかもしれない。


 人間は一回しか生きられない。この世の巡り合わせは、

さまざまだ。本当は、おれは、どこかで、あの痩せた女

と一生を共にしていたのかも知れない。ほんの一度だけ、

その暮らしの有りようを垣間見たのかもしれない。


 息を引き取る前に、何かが、おれにそれを知らせたの

だ。いずれにせよ、死んだ女房に話したら、気の強い女

のことだ。すぐ、ぶちのめされるようなはなしだ。


 この世を去るめのときまで、そんな頬を張り倒される

ような、ばかな夢を見たりして、結局、おれは、死んだ

女房のところへゆくのだ。