2022年3月13日日曜日

オデッサ2014年5月2日

 




ウクライナ・オン・ファイヤー


もし仮にーー奇跡的にーーウクライナが勝ったとしても、内紛が以前よりもいっそう活発化するんじゃないかね。NATOのおかげで、ウクライナ国内の武器が豊富になり、極右の勢力も強まっているだろうから。いくつかに分割するしかないんじゃないかな。




NATOはファシズム

何ものかがこの男を追い詰めたのだろうな、


最も厳しい倫理が支配している、あの小さな、たえず危険にさらされている共同体が戦争状態にあるとき、人間にとってはいかなる享楽が最高のものであるか? [Welcher Genuss ist für Menschen im Kriegszustande jener kleinen, stets gefährdeten Gemeinde, wo die strengste Sittlichkeit waltet, der höchste?] 戦争状態ゆえに、力があふれ、復讐心が強く、敵意をもち、悪意があり、邪推深く、どんなおそろしいことも進んでし、欠乏と倫理によって鍛えられた人々にとって? 残酷の享楽[Der Genuss der Grausamkeit]である。残酷である点で工夫に富み、飽くことがないということは、この状態にあるそのような人々の徳にもまた数えられる。共同体は残酷な者の行為で元気を養って、絶え間のない不安と用心の陰鬱さを断然投げすてる。残酷は人類の最も古い祭りの一つである[Die Grausamkeit gehört zur ältesten Festfreude der Menschheit].〔・・・〕

「世界史」に先行している、あの広大な「風習の倫理」の時期に、現在われわれが同感することをほとんど不可能にする……この主要歴史においては、痛みは徳として、残酷は徳として、偽装は徳として、復讐は徳として、理性の否定は徳として、これと反対に、満足は危険として、知識欲は危険として、平和は危険として、同情は危険として、同情されることは侮辱として、仕事は侮辱として、狂気は神性として、変化は非倫理的で破滅をはらんだものとして、通用していた! ――諸君はお考えになるか、これらすべてのものは変わった、人類はその故にその性格を取りかえたに違いないと? おお、人間通の諸君よ、互いをもっとよくお知りなさい![Oh, ihr Menschenkenner, lernt euch besser kennen! ](ニーチェ『曙光』18番、1881年)


われわれが「高次の文化」と呼ぶほとんどすべてのものは、残酷さの精神化の上に成り立っているーーこれが私のテーゼである。あの「野獣」が殺害されたということはまったくない。まだ、生きておりその盛りにある、それどころかひたすら――神聖なものになっている。Fast Alles, was wir "hoehere Cultur" nennen, beruht auf der Vergeistigung und Vertiefung der Grausamkeit - dies ist mein Satz; jenes "wilde Thier" ist gar nicht abgetoedtet worden, es lebt, es blueht, es hat sich nur -vergoettlicht. (ニーチェ『善悪の彼岸』229番、1886年)




ーーこれはたぶん2019年の映像で、ゼレンスキーがアゾフ連隊の連中との交渉で強い口調で妥協を迫っているところ。



共同体が困難に突き当たるとしたら、困難の原因となりうるのは、あくまで他の共同体だけである。土地をすでに占拠したために不安の種となり、あるいは〔これから〕占拠することで不安の種となる他の共同体だけである。だから戦争が重大な全体の課題になる。生きて生活していく上での客観的条件を占拠するためであれ、その占拠を守って永続させるためであれ、不可欠の共同の仕事になる。だから諸々の家族からなる共同体は(軍事および兵事の集団のかたちで)さしあたり戦争を目的に組織される。そしてこれが、共同体が所有者として生き残るための条件の一つになる。居住地を都市に集中させることは、戦争を目的にした組織のための基礎である。

Die Schwierigkeiten, die das Gemeindewesen trifft, konnen nur von andren Gemeindewesen herruhren, die entweder den Grund und Boden schon okkupiert haben oder die Gemeinde in ihrer Okkupation beunruhigen. Der Krieg ist daher die grose Gesamtaufgabe, die grose gemeinschaftliche Arbeit, die erheischt ist, sei es um die objektiven Bedingungen des lebendigen Daseins zu okkupieren, sei es um die Okkupation derselben zu beschutzen und zu verewigen. Die aus Familien bestehende Gemeinde daher zunachst kriegerisch organisiert – als Kriegs- und Heerwesen, und dies eine der Bedingungen ihres Daseins als Eigentumerin. Die Konzentration der Wohnsitze in der Stadt Grundlage dieser kriegerischen Organisation. (マルクス「資本制生産に先行する諸形態」)


プーチンのおかげで今までバラバラだったウクライナが国民国家になったとかなる芽が見えたとか言っているおバカな政治学者を垣間見てしまったが、国民国家がある限り、戦争はなくならないよーー、《ナショナリズム、それが戦争だ[Le nationalisme, c'est la guerre]》(フランソワ=ミッテラン、1995年)、このミッテランの発言はどういう文脈で言われたのかではなく、あくまで形式的に捉えなくてはならない。

もっともなくなっても「人間は人間にとって狼[Homo homini lupus]」(プラウトゥスだから、戦争はあるだろうが、間違いなく小粒化はする。

だいたい今の日本の国際政治学者は世界資本主義と国民国家をまったく疑ってない奴らばかりで、この観点においてはほとんど全滅だね。とくにアングロサクソンの大学で学んだ国際政治学者の症状がひどい。21世紀は知的退行の世紀と言われることがあるが、19世紀以前に頭が退行しているね


私は歴史の終焉ではなく、歴史の退行を、二一世紀に見る。そして二一世紀は二〇〇一年でなく、一九九〇年にすでに始まっていた。科学の進歩は思ったほどの比重ではない。科学の果実は大衆化したが、その内容はブラック・ボックスになった。ただ使うだけなら石器時代と変わらない。(中井久夫「親密性と安全性と家計の共有性と」2000年初出『時のしずく』所収)


フローベールも既に「文明の進歩とともに人の愚かさも増す!」と言っているが、21世紀とはことさら原理を問わない時代となっているのは表層的エビデンス主義の猖獗を見るまでもなく明らかだろう。


いつもそうなのだが、わたしたちは土台を問題にすることを忘れてしまう。疑問符をじゅうぶん深いところに打ち込まないからだ[Man vergißt immer wieder, auf den Grund zu gehen. Man setzt die Fragezeichen nicht tief genug.](ウィトゲンシュタイン『反哲学的断章』未発表草稿)


ま、要するに、国際政治学者には、後は野となれ山となれ主義者、ベンサム主義者しかほとんど見ることができない。


“大洪水よ、わが亡きあとに来たれ!”(後は野となれ山となれ!)、これがすべての資本家およびすべての資本主義国民のスローガンである[Après moi le déluge! ist der Wahlruf jedes Kapitalisten und jeder Kapitalistennation. ](マルクス『資本論』第1巻「絶対的剰余価値の生産」)

(資本システムにおいて)支配しているのは、自由、平等、所有、およびベンサムだけである。Was allein hier herrscht, ist Freiheit, Gleichheit, Eigentum und Bentham. 〔・・・〕

ベンサム! なぜなら双方のいずれにとっても、問題なのは自分のことだけだからである。彼らを結びつけて一つの関係のなかに置く唯一の力は、彼らの自己利益,彼らの特別利得、彼らの私益という力だけである。

Bentham! Denn jedem von den beiden ist es nur um sich zu tun. Die einzige Macht, die sie zusammen und in ein Verhältnis bringt, ist die ihres Eigennutzes, ihres Sondervorteils, ihrer Privatinteressen.(マルクス『資本論』第1巻第2篇第4章)


…………………


※付記


カント以前の宇宙では、人間は単純に人間だった。動物的な肉欲や神的な狂気の過剰と戦う理性的存在だったが、カントにおいては、戦うべき過剰は人間に内在しているものであり、主体性そのものの中核に関わるものである(だからこそ、まわりの闇と戦う<理性の光>という啓蒙主義のイメージとは対照的に、ドイツ観念論における主体性の核の隠喩は<夜>、<世界の夜>なのだ)。


カント以前の宇宙では、狂気に陥った英雄は自らの人間性を失い、動物的な激情あるいは神的な狂気がそれに取って代わる。カントにおいては、狂気とは、人間存在の中核が制約をぶち破って爆発することである[With Kant, madness signals the unconstrained explosion of the very core of a human being. ](ジジェク『ラカンはこう読め』2006 年)


人間存在は、すべてのものを、自分の不可分な単純さのなかに包み込んでいる世界の夜Nacht der Welt]であり、空無[leere Nichts]である。人間は、無数の表象やイメージを内に持つ宝庫だが、この表象やイメージのうち一つも、人間の頭に、あるいは彼の眼前に現れることはない。この闇。幻影の表象に包まれた自然の内的な夜。この純粋自己[reines Selbst]。こちらに血まみれの頭blutiger Kopf ]が現れたかと思うと、あちらに不意に白い亡霊weiße Gestalt が見え隠れする。一人の人間の眼のなかを覗き込むとき、この夜を垣間見る。その人間の眼のなかに、 われわれは夜を、どんどん恐ろしさを増す夜を、見出す。まさに世界の夜[Nacht der Welt がこのとき、われわれの現前に現れている。

Der Mensch ist diese Nacht der Welt, dies leere Nichts, das alles in ihrer Einfachheit enthält, ein Reichtum unendlich vieler Vorstellungen, Bilder deren keines ihm gerade einfällt oder die nicht als gegenwärtige sind. Dies ist die Nacht, das Innere der Natur, das hier existiert – reines Selbst. In phantasmagorischen Vorstellungen ist es ringsum Nacht; hier schießt dann ein blutiger Kopf, dort eine andere weiße Gestalt hervor und verschwinden ebenso. Diese Nacht erblickt man, wenn man dem Menschen ins Auge blickt – in eine Nacht hinein, die furchtbar wird; es hängt die Nacht der Welt einem entgegen.

(ヘーゲル『現実哲学』イエナ大学講義録草稿 Jenaer Realphilosophie 1805-1806




何もニーチェやジジェクの言うカントヘーゲル風に言わなくたって、ソクラテス風に言ったっていいさ。


「国家」或は「共和国」とも言われているこの対話篇には、「正義について」という副題がついているが、正義という光は垣間見られているだけで、徹底的に論じられているのは不正だけであるのは、面白い事だ。正義とは、本当のところ何であるかに関して、話相手は、はっきりした言葉をソクラテスから引出したいのだが、遂にうまくいかないのである。どんな高徳な人と言われているものも、恐ろしい、無法の欲望を内に隠し持っている、という事をくれぐれも忘れるな、それは君が、君の理性の眠る夜、見る夢を観察してみればすぐわかる事だ、ソクラテスは、そういう話をくり返すだけだ。(小林秀雄「プラトンの「国家」」)