北大西洋条約機構(North Atlantic Treaty Organization)、つまりNATOの設立の経緯ってのはこういうことらしいよ。 |
第二次世界大戦が終わり、東欧を影響圏に置いた共産主義のソビエト連邦との対立が激しさを増す中で、イギリスやアメリカが主体となり、1949年4月4日締結の北大西洋条約により誕生した。結成当初は、ソ連を中心とする共産圏(東側諸国)に対抗するための西側陣営の多国間軍事同盟であり、「アメリカを引き込み、ロシアを締め出し、ドイツを抑え込む」(反共主義と封じ込め)という、初代事務総長ヘイスティングス・イスメイの言葉が象徴するように、ヨーロッパ諸国を長年にわたって悩ませたドイツ問題に対するひとつの回答でもあった。(Wiki) |
そうか、こういうもんダッタノカァ。あらためて心をうたれちまったよ。Wikipediaってのは勉強ニナルネエ・・・
今だって似たようなもんなんだろうけどさ。
この同盟の「結束」は敵と想定された側から見たら、やっぱりビビるよ。
排除と選別のメカニズムが働いているだろうからな。
きっととっても「民主主義的な」同盟なんだろうなあ |
民主主義に属しているものは、必然的に、まず第ーには同質性であり、第二にはーー必要な場合には-ー異質なものの排除または殲滅である。[…]民主主義が政治上どのような力をふるうかは、それが異邦人や平等でない者、即ち同質性を脅かす者を排除したり、隔離したりすることができることのうちに示されている。Zur Demokratie gehört also notwendig erstens Homogenität und zweitens - nötigenfalls -die Ausscheidung oder Vernichtung des Heterogenen.[…] Die politische Kraft einer Demokratie zeigt sich darin, daß sie das Fremde und Ungleiche, die Homogenität Bedrohende zu beseitigen oder fernzuhalten weiß. (カール・シュミット『現代議会主義の精神史的地位』1923年版) |
ボルシェヴィズムとファシズムとは、他のすべての独裁制と同様に、反自由主義的であるが、しかし、必ずしも反民主主義的ではない。民主主義の歴史には多くの独裁制があった。Bolschewismus und Fascismus dagegen sind wie jede Diktatur zwar antiliberal, aber nicht notwendig antidemokratisch. In der Geschichte der Demokratie gibt es manche Diktaturen, (カール・シュミット『現代議会主義の精神史的地位』1923年版) |
・・・というわけでついでにファシズムの項も見てみたよ。
「ファシズム」(伊: fascismo)の語源はイタリア語の「ファッショ」(束(たば)、集団、結束)で、更に「ファッショ」の語源はラテン語の「ファスケス」(fasces、束桿)である。ファスケスは斧の回りにロッド(短杖)を束ねたもので、古代ローマの執政官の権威の象徴とされた。(Wiki) |
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ははあ、「ファスケス」(fasces)かあ。
もう少し探ってみたら、
紀元前の古代ローマコインにもこの束桿が刻印されてるや。
ファシズムの定義をこの「束になること」とするなら、
NATOはファシズムじゃないかね、キミはどうおもう?
ボクなんかこのマークをしばらく眺めていると
NATO IS FASCISM
としか言いようがなくなってくるけどな
ま、今でも東西という区分ができるとしたら、上の印は、
西側言語ゲームでは、正義の美旗マークなんだろうけど
東側言語ゲームでは、NATOはファシズムという威圧的マークに決まってるよ
言語ゲームが変化するとき、概念も変化し、概念とともに言葉の意味も変化する[Wenn sich die Sprachspiele ändern, ändern sich die Begriffe, und mit den Begriffen die Bedeutungen der Wörter.](ウィトゲンシュタイン『確実性について』65節) |
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伝達という言語ゲームは何なのだろうか? Was ist das Sprachspiel des Mitteilens? 私は言いたい、あなたは人が誰かに何かを伝達できるということを、あまりにも自明なことと見なしすぎている。つまりわれわれは、会話において言語を使った伝達にとても慣れてしまっているので、伝達において重要なことの全ては、他人が私の言葉の意味 ―― 心的な何か ―― を把握する、いわば彼の心のうちに受け入れることの中にある、と思っている。 Ich möchte sagen: du siehst es für viel zu selbstverständlich an, daß man Einem etwas mitteilen kann. Das heißt: Wir sind so sehr an die Mitteilung durch Sprechen, im Gespräch, gewöhnt, daß es uns scheint, als läge der ganze Witz der Mitteilung darin, daß ein Andrer den Sinn meiner Worte - etwas Seelisches - auffaßt, sozusagen in seinen Geist aufnimmt. (ウィトゲンシュタイン『哲学研究』363節) |
もちろん先ほども言ったように、
(ウィトゲンシュタイン風にややこしいこと言わなくても)
束になっているNATOは原定義上、ファシズムさ
結束するだけならいいのだけど
情動興奮と思考の制止 [der Affektsteigerung und der Denkhemmung]
が起こっちまうんだな、ふつうは
ファシズム的なものは受肉するんですよね、実際は。それは恐ろしいことなんですよ。軍隊の訓練も受肉しますけどね。もっとデリケートなところで、ファシズムというものも受肉するんですねえ。〔・・・〕マイルドな場合では「三井人」、三井の人って言うのはみんな三井ふうな歩き方をするとか、教授の喋り方に教室員が似て来るとか。〔・・・〕 アメリカの友人から九月十一日以後来る手紙というのはね、何かこう文体が違うんですよね。同じ人だったとは思えないくらい、何かパトリオティックになっているんですね。愛国的に。正義というのは受肉すると恐ろしいですな。(中井久夫「「身体の多重性」をめぐる対談――鷲田精一とともに」2003年『徴候・記憶・外傷』所収) |
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