例えばジジェクはこう言っている。
如何にコミュニティが機能するかを想起しよう。コミュニティの整合性を支える主人のシニフィアンは、意味されるものがそのメンバー自身にとって謎の意味するものである[the master signifier that guarantees the community's consistency is a signifier whose signified is an enigma for the members themselves]。誰も実際にはその意味を知らない。が、各メンバーは、なんとなく他のメンバーが知っていると想定している、すなわち「本当のこと」を知っていると推定している。そして彼らは常にその主人のシニフィアン[S1]を使う。 |
この論理は、政治-イデオロギー的な絆において働くだけではなく、ラカン派コミュニティでさえも起る。集団は、ラカンのジャーゴン(専門用語)の共有使用ーー誰も実際のところは分かっていない用語ーーを通して(たとえば「象徴的去勢」あるいは「斜線を引かれた主体」[ “symbolic castration” or “divided subject”]など)、集団として認知される。誰もがそれらの用語を引き合いに出すのだが、彼らを結束させているものは、究極的には共有された無知である[what binds the group together is ultimately their shared ignorance](ジジェク、THE REAL OF SEXUAL DIFFERENCE、2004) |
主人のシニフィアン[S1]を通して集団は結束する。場合によってはS1に対する共有された無知によって。これはこのところ示しているフロイトの『集団心理学と自我の分析』における自我理想による自我間の結束に起源がある。
この図は次の図の簡易版である。
自我理想[IA]のポジションに主人のシニフィアン[S1]を入れれば次の通り。
実はこの「無知による結束」はジジェク自身も免れておらず、例えばスロベニア三人組(スラヴォイ・ジジェク、アレンカ・ジュパンチッチ、ムラデン・ドラー)は「現実界」という主人のシニフィアンに対する無知によって結束している(参照)。
最近の日本でも、相対的には知的に優れた三人組が「欲望」という主人のシニフィアンを通してーー私に言わせれば無知による結束をしてーー、何やら語っている(連中は少なくとも「欲望と欲動」「剰余享楽と享楽自体」の区別がほとんどついていない。ドゥルーズの欲望とラカンの欲望というまったく異なった内実をもつ概念を識別して語っていない)。
専門家集団はその知識の豊富に敬意を表するべきではある。だが何が彼らのイデオロギー的絆(主人のシニフィアン)として機能しているかを、そしてそれは「共有された無知」として作用していないかを常に疑うべきである。
蓮實)プロフェッショナルというのはある職能集団を前提としている以上、共同体的なものたらざるをえない。だから、プロの倫理感というものは相対的だし、共同体的な意志に保護されている。〔・・・〕プロフェッショナルは絶対に必要だし、 誰にでもなれるというほど簡単なものでもない。しかし、こうしたプロフェッショナルは、それが有効に機能した場合、共同体を安定させ変容の可能性を抑圧するという限界を持っている。 (柄谷行人-蓮實重彦対談集『闘争のエチカ』1988年) |
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