2022年3月12日土曜日

ドストエフスキーのintra festum (祭りの最中)


不思議なことにこの、まさに最後の瞬間に気絶することはめったにないのです! それどころか、頭はひどく生き生きして、機械が動くように力強く、力強く、力強く働いているにちがいありません。僕の想像では、その時さまざまな考えがぶつかっているのです、みんな完結しない、そしてもしかしたら、ばかげた、無関係なこんな考えです。『ほら、あそこで見ている。あの額にはいぼがあるし、 ほら、処刑人の下のほうのボタンが一つさびている・・・』で、その間もすべてを認識し、すべてを記憶しています。決して忘れることのできないある一点があって、気絶することもできず、すべてがその近くを、この点の近くを動き、回転しているのです。そして考えると、それは最後の四分の一秒までそのままで、その時にはもう頭を断頭台にのせて、そして待っている、そして・・・知っているのです、 と、突然上に聞こえる、鉄が滑ってきた!これは間違いなく聞こえます!僕なら、もしもそうなったら、僕はわざわざ耳を澄まして聞くでしょう!それは、もしかしたらほんの一瞬間の十分の一かもしれません が、間違いなく聞こえます!(ドストエフスキイ『白痴』)


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ドストエフスキーについては、前回示した破壊欲動ーーニーチェ用語なら破壊への意志[Wille zur Zerstörung]、破壊の悦[Lust am Vernichten]ーーという相以外に、木村敏の示した、癲癇患者に最も特徴的に現れるが彼らに限らない「現在の優位性」という観点が、私には今でもとても説得的である。


われわれはドストエフスキーから多くのことを学ぶことができる。彼の作品に登場する多数の人物は、ムイシュキンやキリーロフのような癲癇患者だけでなく、全員がこの「現在の優位性」とでもいうべき特徴をそなえている。作中の人物がすべて作家の分身であってみれば、これはちっとも不思議なことではない。一例だけをあげれば、『悪霊』に登場する美貌の令嬢リザヴェータ……彼女にとって、過去・現在・未来の一貫した流れとしての一つの人生などというものは「見たくもない」ものなのである。彼女はスタヴローギンと駆け落ちして一夜の情事を経験した翌朝、「ぼくはいま、きのうよりもきみを愛している」というスタヴローギンに向って、「なんて奇妙な愛情告白かしら! きのうだのきょうだのと、なんでそんな比較が必要なの?」という。彼女は「自分がほんの一瞬間しか持続できない女だとわかっているので、」思いきって決心して「全人生をあの一時間きっかり〔の情事〕に賭けてしまった」のである。

一般に、ドストエフスキーの描く人物はいずれも他人に対して、ときには自分の生命を脅かすような危険な相手に対してすら不思議に無警戒で、分裂病親和者にみられるような他者の未知性に対する恐怖感は稀薄である。また、メランコリー親和者に特徴的な、既成の型の中での役割的対人関係も、彼の作品のどこを探しても見当たらない。彼の描く対人関係は、すべて現在眼の前にいる人との現在の瞬間における直接的な深い連帯感によって支えられている。


ドストエフスキーの意識における現在のこの豊かさは、彼がアウラ体験において死の側から生を眺めたときの壮麗な光景と、どこかで深くつながっているのではあるまいか。死は、生の側から未知の可能性として眺められたときには、身を縮まる恐怖の源となるだろう。しかしもし死を現在直接に生きることができるなら、それはこの上なく輝かしいものであるに違いない。(木村敏『時間と自己』1982年)



木村敏はこのドストエフスキー的小説の人物像に顕著な「現在の優位性」を、その時間論においてintra festum (祭りのさなか)として示した。


intra festum の意味するところを示す前に、木村敏におけるpost festum(祭りのあと)とante festum(祭の前)の意味合いを簡単に示しておこう。



◼️post festum(祭りのあと)

メランコリー者の体験は、それが自責の形をとるか妄想の形をとるかを問わず、もはや手遅れで回復不可能な「あとのまつり」という性格を帯びた基礎的事態の表現と見ることができる。私はこの基礎的事態をラテン語の post festum(祭りのあと=「あとのまつり」、「手遅れ」、「事後の」)を用いて言い表しておこうと思う。(木村敏『自己・あいだ・時間』1981年)


◼️ante festum(祭の前)

真の未来志向、将来への投企が過去および現在の全体を基盤にしてはじめて可能となるものであるのとは違って、彼〔ある分裂病患者〕の未来志向は過去と現在を性急に切り離して空虚な自由の中へ先駆するという形で実現を求める。〔・・・〕このような未来先取的、予感的、先走り的な時間性の構造は、さきの「ポスト・フェストゥム」概念と対置する意味で、ラテン語で「祭の前」を意味する ante festum の語で言い表せるのではないかと思う。(木村敏『自己・あいだ・時間』1981年)



中井久夫ーー名市大で伝説の木村敏教授・中井久夫助教授という時代を作ったーーはこの二つの概念について次のように言っている。



私は一方では、分裂病になる可能性は全人類が持っているであろうと仮定し、他方では、その重い失調形態ならば軽うつ状態をはじめ、心気症などいろいろありうると思う。

分裂病親和性を、木村敏が人間学的に「ante festum(祭りの前=先取り)的な構えの卓越」と包括的に捉えたことは私の立場からしてもプレグナントな捉え方である。別に私はかつて「兆候空間優位性」と「統合指向性」を抽出し、「もっとも遠くもっとも杳かな兆候をもっとも強烈に感じ、あたかもその事態が現前するごとく恐怖し憧憬する」と述べた(兆候が局所にとどまらず、一つの全体的な事態を代表象するのが「統合指向性」である)。(中井久夫『分裂病と人類』第1章、1982年)


……このような社会との「折り合い」のむつかしさにもかかわらず、S親和者(分裂病親和者)が人類の相当多数を占めることが、おそらく人類にとって必要なのであろう。かりに執着性格者のみからなる社会を想定してみるがよい。その社会が息づまるものであるか否かは受け取る個人次第で差があるだろうが、彼らの大間題の不認識、とくに木村の post festum(事後=あとの祭)的な構えのゆえに、思わぬ破局に足を踏み入れてなお気づかず、彼らには得意の小破局の再建を「七転び八起き」と反復することはできるとしても、「大破局は目に見えない」という奇妙な盲点を彼らが持ちつづけることに変わりはない。そこで積極的な者ほど、盲目的な勤勉努力の果てに「レミング的悲劇」を起こすおそれがある--この小動物は時に、先の者の尾に盲目的に従って大群となって前進し、海に溺れてなお気づかぬという。(中井久夫『分裂病と人類』第1章、1982年)




このメランコリーあるいは執着気質親和的 post festum(祭りのあと)と分裂病親和的 ante festum(祭の前)に対しての癲癇的な、現在の優位的 intra festum (祭りのさなか)である。


◼️intra festum (祭りの最中)

精神医学的疾患のなかには、このイントラ・フェストゥム的な直接性の病理が病態形成要因として中心的な役割を演じているものが少なくない。しかしなんといっても、そのひとつの極北に位置しているのは癲癇だろう。〔・・・〕イントラ・フェストゥム的存在構造は、なによりもまずその現在中心的な時間性と、「天上天下唯我独尊」ともいえる自己中心的な自然との無限の一体性を特徴としている。癲癇者の場合、この現在中心的な時間性は発作における「永遠の一瞬」の灼熱として、またこの自己中心的な自然との一体性は――さきのアリョーシャ〔ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の登場人物〕の体験にも見るような――アウラ症例における世界との合一体験として、もっとも端的に現れてくる。(木村敏『自己・あいだ・時間』1981年)


われわれの世界で、過剰としてのエクスタシー、「荒ぶる直接性」がもっとも端的に実現されるのは、文化人類学のいう「ハレの領域」においてであろう。祝祭における生の昂揚と、それにともなう酩酊、陶酔、性的放縦、賭博、暴力、犯罪、そして死、といった日常的秩序の破壊、神聖なるものへの没入と瀆聖の狼藉が、要するにノモスとコスモスに対するカオスの勝利が、ハレの領域の特徴的な内容をなしている。ここでは生の原理と死の原理とは断じて相反し排除しあう対立原理ではない。一方が高まればそれだけ他方も高まるといった関係がこの二つの原理を支配している。フロイトが死の衝動に着目したとき、彼は間違いなくこの直接性の次元での「死」を見ていたはずである。それがその後の精神分析家たちによって、分別的日常性の枠内での個別的身体的な生死のレヴェルにまで矮小化されてしまった。リビドーとモルティドー、エロスとタナトスは、本来、そしてその真実の姿においては一つのものなのである。

このようなハレの、あるいは祝祭のエクスタシーに、われわれは「狂気」の原光景を見る。さきに述べた分裂病やメランコリーは、いずれも本質的には間接性の病態であった。これをもなお「狂気」と呼ぼうとするならば、われわれは右の二つのエクスタシーにならって、「静かな狂気」と「荒ぶる狂気」の区別を設けなくてはならないかもしれない。われわれの文明において古来畏怖と排除の対象とされてきた狂気は、本来的にはどちらかというと後者の方なのである。そして、分裂病やメランコリーのところでも触れたように、間接性の病態も窮極的にはその根源を直接性にもっている。こういった間接性の病態にも「狂気」の様相を与えているのは、それが直接性と相接し、直接性との「差延」においてのみ現前するという事情なのだろう。その限りにおいて、分裂病もメランコリーも、幾分かは直接性の病態でもあり、エクスタシー的・祝祭的な要素を含んでいる。この意味でも、祝祭的な直接性を「狂気の原光景」とみなすことは許されるだろう。私はこの要素に、「祭の最中[さなか]」を意味する intra festum の概念を当ててきた。(木村敏『直接性の病理』1986年)



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なおこの「祝祭のエクスタシー」にかかわるintra festum自体、ニーチェによるディオニュソス的祭りの永遠の悦 [ewige Lust]をめぐる記述ととても親和性があることを示しておこう。



ディオニュソス的密儀のうちで、ディオニュソス的状態の心理のうちではじめて、古代ギリシア的本能の根本事実はーーその「生への意志」は、おのれをつつまず語る。何を古代ギリシア人はこれらの密儀でもっておのれに保証したのであろうか?  永遠の生であり、生の永遠回帰である。過去において約束され清められた未来である。死の彼岸[über Tod]、転変の彼岸にある生への勝ちほこれる肯定である。生殖による、性の密儀による総体的永生としての真の生である。


Denn erst in den dionysischen Mysterien, in der Psychologie des dionysischen Zustands spricht sich die Grundtatsache des hellenischen Instinkts aus - sein »Wille zum Leben«. Was verbürgte sich der Hellene mit diesen Mysterien? Das ewige Leben, die ewige Wiederkehr des Lebens; die Zukunft in der Vergangenheit verheißen und geweiht; das triumphierende Ja zum Leben über Tod und Wandel hinaus; das wahre Leben als das Gesamt. -Fortleben durch die Zeugung, durch die Mysterien der Geschlechtlichkeit. 

このゆえにギリシア人にとっては性的象徴は畏敬すべき象徴自体であり、全古代的敬虔心内での本来的な深遠さであった。生殖、受胎、出産のいとなみにおける一切の個々のものが、最も崇高で最も厳粛な感情を呼びおこした。密儀の教えのうちでは苦痛が神聖に語られている。すなわち、「産婦の陣痛」が苦痛一般を神聖化し――、一切の生成と生長、一切の未来を保証するものが苦痛の条件となっている・・・


Den Griechen war deshalb das geschlechtliche Symbol das ehrwürdige Symbol an sich, der eigentliche Tiefsinn innerhalb der ganzen antiken Frömmigkeit. Alles einzelne im Akte der Zeugung, der Schwangerschaft, der Geburt erweckte die höchsten und feierlichsten Gefühle. In der Mysterienlehre ist der Schmerz heilig gesprochen: die »Wehen der Gebärerin« heiligen den Schmerz überhaupt, - alles Werden und Wachsen, alles Zukunft-Verbürgende bedingt den Schmerz... 

創造の永遠の悦 [ewige Lust] があるためには、生への意志がおのれを永遠にみずから肯定するためには、永遠に「産婦の陣痛」もまたなければならない・・・これら一切をディオニュソスという言葉が意味する。すなわち、私は、ディオニュソス祭のそれというこのギリシア的象徴法以外に高次な象徴法を知らないのである。そのうちでは、生の最も深い本能が、生の未来への、生の永遠性への本能が、宗教的に感じとられている、――生への道そのものが、生殖が、聖なる道として感じとられている・・・


Damit es die ewige Lust des Schaffens gibt, damit der Wille zum Leben sich ewig selbst bejaht, muß es auch ewig die »Qual der Gebä-rerin« geben... Dies alles bedeutet das Wort Dionysos: ich kenne keine höhere Symbolik als diese griechische Symbolik, die der Dionysien. In ihnen ist der tiefste Instinkt des Lebens, der zur Zukunft des Lebens, zur Ewigkeit des Lebens, religiös empfunden, -der Weg selbst zum Leben, die Zeugung, als der heilige Weg... (ニーチェ「私が古人に負うところのもの」第4節『偶像の黄昏』1888年)




さらにプルーストの超時間[extra-temporel]、時間のそと[dehors du temps]も祭りの最中[intra festum]と相同性があるという仮説を私はもっている(フロイトラカン観点ではニーチェの永遠回帰とプルーストのレミニサンスは等置しうる概念である[参照])。



私はそれらの幸福な印象を、現在の瞬間であると同時に遠く過ぎさった瞬間でもある場、過去を現在に食いこませその両者のどちらに自分がいるのかを知ることに私をためらわせるほどの場で感じとっていた。

je la devinais en comparant entre elles ces diverses impressions bienheureuses et qui avaient entre elles ceci de commun que je les éprouvais à la fois dans le moment actuel et dans un moment éloigné…allaient jusqu'à faire empiéter le passé sur le présent, à me faire hésiter à savoir dans lequel des deux je me trouvais ;

じつをいえば、そのとき、私のなかで、そんな印象を味わっていた存在は、その印象がもっている、昔のある日といまとの共通域、つまりその印象がもっている超時間[extra-temporelの領域で、その印象を味わっていたのであって、そんな存在が出現したのは、その存在が、現在と過去とのあいだの、あの一種の同 一性によって、つぎのような唯一の環境に身を置くことができたときでしかなかったのだ。それは、その存在が、事物のエッセンスによって生きることができ、それを糧として享受できるような環境、つまり時間のそと[dehors du tempsに出ることができるような環境でしかなかったのだ。

au vrai, l'être qui alors goûtait en moi cette impression la goûtait en ce qu'elle avait de commun dans un jour ancien et maintenant, dans ce qu'elle avait d'extra-temporel, un être qui n'apparaissait que quand, par une de ces identités entre le présent et le passé, il pouvait se trouver dans le seul milieu où il pût vivre, jouir de l'essence des choses, c'est-à-dire en dehors du temps.


それで説明がつくのだが、プチット・マドレーヌの味を無意識に私が認めた瞬間に、自分の死についての不安がはたとやんだのは、そのとき、私という存在は、超時間の存在[un être extra-temporel]、したがって未来の転変を気にかけない存在であったからなのだ。そのような存在は、これまで私がかならず行動や直接的享楽のそとにいたときにしか、私にやってきたりあらわれたりしたことはなかった、そのたびに類推の奇蹟が私を現在から抜けださせたのであった。ただ一つ、この奇蹟だけが、私に昔の日々を、失われた時を、見出させる力をもっていた。そんな時をまえにして、私の記憶の努力、私の理知の努力は、つねに失敗してきたのであった。

Cela expliquait que mes inquiétudes au sujet de ma mort eussent cessé au moment où j'avais reconnu, inconsciemment, le goût de la petite madeleine, puisqu'à ce moment-là l'être que j'avais été était un être extra-temporel, par conséquent insoucieux des vicissitudes de l'avenir. Cet être-là n'était jamais venu à moi, ne s'était jamais manifesté qu'en dehors de l'action, de la jouissance immédiate, chaque fois que le miracle d'une analogie m'avait fait échapper au présent. Seul il avait le pouvoir de me faire retrouver les jours anciens, le Temps Perdu, devant quoi les efforts de ma mémoire et de mon intelligence échouaient toujours. 〔・・・〕


もし現時の場所が、ただちに勝を占めなかったとしたら、私のほうが意識を失ってしまっただろう、と私は思う、なぜなら、そうした過去の復活[résurrections du passé は、その状態が持続している短いあいだは、あまりにも全的で、並木に沿った線路とあげ潮とかをながめるわれわれの目は、われわれがいる間近の部屋を見る余裕をなくさせられるばかりか、われわれの鼻孔は、はるかに遠い昔の場所の空気を吸うことを余儀なくされ[Elles forcent nos narines à respirer l'air de lieux pourtant si lointains]、われわれの意志は、そうした遠い場所がさがしだす種々の計画の選定にあたらせられ、われわれの全身は、そうした場所にとりかこまれていると信じさせられるか、そうでなければすくなくとも、そうした場所と現在の場所とのあいだで足をすくわれ、ねむりにはいる瞬間に名状しがたい視像をまえにしたときどき感じる不安定にも似たもののなかで、昏倒させられるからである。

si le lieu actuel n'avait pas été aussitôt vainqueur, je crois que j'aurais perdu connaissance ; car ces résurrections du passé, dans la seconde qu'elles durent, sont si totales qu'elles n'obligent pas seulement nos yeux à cesser de voir la chambre qui est près d'eux pour regarder la voie bordée d'arbres ou la marée montante. Elles forcent nos narines à respirer l'air de lieux pourtant si lointains, notre volonté à choisir entre les divers projets qu'ils nous proposent, notre personne tout entière à se croire entourée par eux, ou du moins à trébucher entre eux et les lieux présents, dans l'étourdissement d'une incertitude pareille à celle qu'on éprouve parfois devant une vision ineffable, au moment de s'endormir. (プルースト「見出された時」)



………………


さらにもうひとつ、フロイトラカン的精神分析観点をここでは簡潔に記すが、ラカンは、現実界あるいは現実界の享楽(現実界の悦)をレミニサンスするものとして定義している(参照)。


そしてこのレミニサンスは超時間[extra-temps」の領域にあることをジャック=アラン・ミレールは示している。




左項目が「欲動の現実界」(悦)にかかわる語彙群であり、右項目は症状[symptôme]で始まっているが「欲望の象徴界」に置き直せる(ラカンが《欲望は大他者に由来する[le désir vient de l'Autre》( E853, 1964年)と言ったときの大他者は象徴界のことである)。リアルなレミニサンス[réminiscence]は超時間、シンボリックな想起[remémoration]は時間内の審級にあることを示している図である。


なおリアルとシンボリックーーイマジネールは常にシンボリックによって構造化されており、「リアル/シンボリック」の二項区分においてはイマジネールはシンボリックの審級にあるーーこ「リアル/シンボリック」の相違は最も簡単に言えば、身体と言語である。レミニサンスとは身体の記憶が回帰することでありーー現代ラカン派では身体の上の刻印としての「固着の回帰」あるいは「身体の出来事の回帰」と言うーー、想起とは既に言語内にある記憶(代表的には前意識)を思い起こすことである。フロイト用語ならレミニサンスがエスにかかわり、想起は自我にかかわる。