人間存在の中核が制約をぶち破って爆発するという狂気は、前回示唆したようにプラトンにもある狂気であって、ラカンの妄想とはむしろ逆。ラカンの「人はみな妄想する」とは事実上、言語自体が妄想だと言っているのだから。もしこのジジェク文を生かすなら、「狂気に対して妄想で防衛する」となる。
まずラカンは1978年にこう言った。
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フロイトはすべては夢だけだと考えた。すなわち人はみな(もしこの表現が許されるなら)、ーー人はみな狂っている。すなわち人はみな妄想する。
[Freud…Il a considéré que rien n’est que rêve, et que tout le monde (si l’on peut dire une pareille expression), tout le monde est fou, c’est-à-dire délirant] (Jacques Lacan, « Journal d’Ornicar ? », 1978)
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ジャック=アラン・ミレールの注釈はこうだ。
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私は言いうる、ラカンはその最後の教えで、すべての象徴秩序は妄想だと言うことに近づいたと。Je dois dire que dans son dernier enseignement, Lacan est proche de dire que tout l'ordre symbolique est délire〔・・・〕
ラカンは1978年に言った、「人はみな狂っている、すなわち人はみな妄想する tout le monde est fou, c'est-à-dire, délirant」と。〔・・・〕
あなた方は精神分析家として機能しえない、もしあなた方が知っていること、あなた方自身の世界は妄想だと気づいていなかったら。我々は言う、幻想的と。しかし幻想的とは妄想的のことである。分析家であることは、あなた方の世界、あなた方が意味を為す仕方は妄想的であることを知ることである。Vous ne pouvez pas fonctionner comme psychanalyste si vous n'êtes pas conscient que ce que vous savez, que votre monde, est délirant – fantasmatique peut-on-dire - mais, justement, fantasmatique veut dire délirant. Etre analyste, c'est savoir que votre propre fantasme, votre propre manière de faire sens est délirante (J.-A. Miller, Retour sur la psychose ordinaire; 2009)
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「象徴秩序は妄想だと言うことに近づいた」とあるが、象徴界は言語であり、ラカンは言語は存在しないと言った。
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象徴界は言語である[Le Symbolique, c'est le langage](Lacan, S25, 10 Janvier 1978)
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言語は存在しない[le langage, ça n'existe pas. ](Lacan, S25, 15 Novembre 1977)
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要するに言語は妄想だということだ。別の言い方なら言語は嘘だ、ーー《象徴界は厳密に嘘である[le symbolique, précisément c'est le mensonge.]》(J.-A. MILLER, Le Reel Dans L'expérience Psychanalytique. 2/12/98)。
この思考と近似したものは、ニーチェにも最初期からある。
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言語はレトリックである。言語はドクサのみを伝え、 何らエピステーメを伝えようとはしない[die Sprache ist Rhetorik, denn sie will nur eine doxa, keine episteme Übertragen ](ニーチェ講義録WS 1871/72 – WS 1874/75)
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とはいえラカンにとって言語は何に対する妄想あるいは嘘なのか。
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我々はみな現実界のなかの穴を穴埋めするために何かを発明する[tous, nous inventons un truc pour combler le trou dans le Réel.]〔・・・〕現実界は穴=トラウマを為す[le Réel … ça fait « troumatisme ».](Lacan, S21, 19 Février 1974)
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現実界の穴(現実界のトラウマ)に対する穴埋め、これを最晩年のラカンは妄想だと言っただけであり、この思考は中期ラカンにも既にある。
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父の名という穴埋め[bouchon qu'est un Nom du Père] (Lacan, S17, 18 Mars 1970)
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ラカンがS (Ⱥ)を構築した時、父の名は穴埋め、このȺの穴埋めとして現れる[Au moment où Lacan construit S(Ⱥ), le Nom-du-Père va apparaître comme un bouchon, le bouchon de ce Ⱥ. ](J.- A. Miller, L'AUTRE DANS L'AUTRE, 2017)
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父の名の真の本質は言語である[la vraie identité du Nom-du-père, c'est le langage ](J.-A. MILLER, Le Partenaire-Symptôme, 14/1/98)
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ーーS(Ⱥ)はそのまま読めば穴のシニフィアンだが、これが欲動のシンボルである、《S(Ⱥ)はラカンがフロイトの欲動を書き換えたシンボルである[S de grand A barré [ S(Ⱥ)]…ce symbole où Lacan transcrit la pulsion freudienne]》 (J.-A, Miller, LE LIEU ET LE LIEN, 6 juin 2001)
要するに、現実界の穴を言語で穴埋めするのが妄想である。
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とはいえ現実界の穴とはより具体的には何か。ーーいまS(Ⱥ)というマテームで示唆したように、欲動の穴=享楽の穴である。
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欲動の現実界がある 。私はそれを穴の機能に還元する[il y a un réel pulsionnel …je réduis à la fonction du trou.](Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)
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享楽は、抹消として、穴埋めされるべき穴として示される他ない[ la jouissance ne s'indiquant là que pour qu'on l'ait de cette effaçon, comme trou à combler. ](Lacan, Radiophonie, AE434, 1970)
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フロイトにとって欲動は身体的要求であって、さらに事実上、欲動はトラウマだと言っている。フロイトにとってトラウマとは通常の意味での事故的トラウマの意味もあるが、トラウマの定義の原点は、身体の出来事であって、この身体が自我の管轄外にあるエスに置き残されて、何をしでかすかわからない不気味な欲動の身体となる。これをフロイトはエスの欲動蠢動としての異者身体と呼んだ。
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トラウマないしはトラウマの記憶は、異者身体[Fremdkörper] )のように作用する[das psychische Trauma, respektive die Erinnerung an dasselbe, nach Art eines Fremdkörpers wirkt](フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年)
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エスの欲動蠢動は、自我組織の外部に存在し、自我の治外法権である。〔・・・〕われわれはこのエスの欲動蠢動を、異者身体 Fremdkörperの症状と呼んでいる。[Triebregung des Es …ist Existenz außerhalb der Ichorganisation …der Exterritorialität, …betrachtet das Symptom als einen Fremdkörper ](フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要)
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異者身体は原無意識としてエスのなかに置き残されたままである[Fremdkörper…bleibt als das eigentliche Unbewußte im Es zurück. ](フロイト『モーセと一神教』3.1.5 Schwierigkeiten, 1939年、摘要)
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この異者身体が、享楽の身体である、ーー《現実界のなかの異者概念(異者身体概念)は明瞭に、享楽と結びついた最も深淵な地位にある[une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance ]》(J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6 -16/06/2004)
そしてこの異者の別名が不気味なもの。
不気味なものは、抑圧の過程によって異者化されている[Unheimliche ist …durch den Prozeß der Verdrängung entfremdet worden ist..](フロイト『不気味なもの』第2章、1919年、摘要)
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異者がいる。…異者とは、厳密にフロイトの意味での不気味なものである[Il est étrange… étrange au sens proprement freudien : unheimlich] (Lacan, S22, 19 Novembre 1974)
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われわれにとって異者としての身体[un corps qui nous est étranger](Lacan, S23, 11 Mai 1976)
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例えば、ラカンが《身体は穴である[(le) corps…C'est un trou]》(Lacan, conférence du 30 novembre 1974, Nice)と言ったとき、身体は欲動の身体(享楽の身体)だと言ったのである。これが、ミレールが《ラカンは、享楽によって身体を定義するようになる [Lacan en viendra à définir le corps par la jouissance]》(J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)と言っている意味である。
以上、欲動の身体の穴(トラウマ)を言語で穴埋めすることが、ラカンにとっての妄想である。
ラカンの話を厳密に論理的に追っていくと、妄想することを止めたら欲動の身体(エスの欲動蠢動)が裸のまま露出するのであって、言語によって十分にはエスに対して防衛(穴埋め)はできないにしろ、人間にとって妄想はむしろ重要な機能である、といういささか逆説的な話になる。
とはいえフロイトも「妄想は回復の試み」と言っており、これは後年の記述を考慮すれば欲動のトラウマに対する回復の試みとして捉えられ、ラカンの思考の起源はやはりフロイトにある。
病理的生産物と思われている妄想形成は、実際は、回復の試み・再構成である。[Was wir für die Krankheitsproduktion halten, die Wahnbildung, ist in Wirklichkeit der Heilungsversuch, die Rekonstruktion.] (フロイト「自伝的に記述されたパラノイア(妄想性痴呆)の一症例に関する精神分析的考察」1911年)
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実際は、妄想は象徴的なものだ。妄想は象徴的物語だ。妄想はまた世界を秩序づけうる[En tout état de cause, un délire est symbolique. Un délire est un conte symbolique. Un délire est aussi capable d'ordonner un monde.](J.-A. Miller, Retour sur la psychose ordinaire; 2009)
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ラカンがフロイトの遺書と呼んだ『終わりなき分析』にはこうある。
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