池内恵がとてもいいこと言っている。私はいわゆる国際政治学者の論文や発言などほとんど関知しないタイプだったのだが、「イスラム国躍進の構造と力」ーー 「対話」 池内恵 VS 山形浩生『公研』2014 年 10 月号を読んで以来、池内恵に対しては敬意を表している。小泉悠を抜擢したのも彼だ。
池内恵の《「一握りのサイコパス」ではなく、普段は気のいい、それこそウォッカ奢ってくれるような人たちが戦場で残虐な方法で人を殺しているんですよ。そこに向き合わない文学者に価値はない》とは、例えば次のアーレント、次のジジェクの文とともに読むことができる。
ナチによる大量虐殺に加担したのは熱狂者でもサディストでも殺人狂でもない。自分の私生活の安全こそが何よりも大切な、ごく普通の家庭の父親達だ。彼らは年金や妻子の生活保障を確保するためには、人間の尊厳を犠牲にしてもちっとも構わなかったのだ。(ハンナ・アーレント『悪の陳腐さ』1963年) |
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耐え難いのは差異ではない。耐え難いのは、ある意味で差異がないことだ。サラエボには血に飢えたあやしげな「バルカン人」はいない。われわれ同様、あたりまえの市民がいるだけだ。この事実に十分目をとめたとたん、「われわれ」を「彼ら」から隔てる国境は、まったく恣意的なものであることが明らかになり、われわれは外部の観察者という安全な距離をあきらめざるをえなくなる。(ジジェク『快楽の転移』) |
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「われわれのなかには小さなファシスト、小さなプーチンがいる」という言い方もできる。 |
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ファシズムは、理性的主体のなかにも宿ります。あなたのなかに、小さなヒトラーが息づいてはいないでしょうか?われわれにとって重要なことは、理性的であるか否かということよりも、少なくともファシストでないかどうかということなのです。(船木亨『ドゥルーズ』はじめに) |
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とはいえ、である。国民総動員を発令したゼレンスキーはファシストではないのか。危機に瀕しての已む得ないファシストではあるだろうとしても。
そもそもNATO とはファシスト集団ではないか。 私がこのところ池内恵のツイートを観察している限りだが、現在の彼からはこの観点を示す発言がほとんど見えてこない。この観点はあるが現在はやむなくファシズムを取らざるを得ないことを示したら信頼しうるのだが。 彼はそんな当たり前のことは言わずもがな、と言うかもしれない。しかし彼を取り巻く「誠実な-凡庸な」国際政治学者のなかにはその当たり前の認識が欠けているように見える人物が多すぎる。 したがって今のところ、池内恵に対しては敬意は払うが全面的な信頼は抱けない。 NATOの事実上の主人米国は、ふと弾みでファシズム国家に様変わりしてしまう国だとは、国際政治学者ならみな知っていることである。 |
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ファシズム的なものは受肉するんですよね、実際は。それは恐ろしいことなんですよ。軍隊の訓練も受肉しますけどね。もっとデリケートなところで、ファシズムというものも受肉するんですねえ。〔・・・〕マイルドな場合では「三井人」、三井の人って言うのはみんな三井ふうな歩き方をするとか、教授の喋り方に教室員が似て来るとか。〔・・・〕 アメリカの友人から九月十一日以後来る手紙というのはね、何かこう文体が違うんですよね。同じ人だったとは思えないくらい、何かパトリオティックになっているんですね。愛国的に。正義というのは受肉すると恐ろしいですな。(中井久夫「「身体の多重性」をめぐる対談――鷲田精一とともに」2003年『徴候・記憶・外傷』所収) |