Ukraine on Fire: Directed by Igor Lopatonok. With Oliver Stone, 2016 |
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オリバー・ストーン@TheOliverStone のウクライナオンファイアーは英語版はYouTubeから、たしか十日ほど前消えてなくなり、日本語字幕版は一昨日まであったのだが、今見るとなくなっているね。まだVimeoには残っている。 オリバー・ストーンによるプーチンインタヴュー(2015~2017)は、ニコ動にある。それぞれ一時間弱で長いが、トッテモタメニナルヨ。この映像をみてーー今のプーチンではなく、少なくともある時期までのーープーチンをどう評価するかは人さまざまだろうが。 |
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プーチンへのインタビュー PART1「経歴」 |
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プーチンへのインタビュー PART2「政治以外の側面」 |
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プーチンへのインタビュー PART3「ウクライナとシリア」 |
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プーチンへのインタビュー PART4(最終回)「米大統領選への介入」 |
ちなみに3月4日時点でのウクライナ侵略についてのオリバーの考え。
@TheOliverStone Mar 4
My thoughts about the invasion of #Ukraine.
長いあいだ、アメリカ政治に対して強い批判してきたオリバーの立場を受け入れるか否かは抜きにして、彼の言ってることはとってもマトモだな、日本では滅多に見られないよ、こういう風に語れる人物は。
束の間の「英雄」に酔ってしまうのは最も避けるべきことなんだがな。こういった連中にはけっして最悪という語は使えないね、ーー《最悪じゃない、「これは最悪だ」と言えるうちは。The worst is not. So long as we can say “This is the worst.”》(シェイクスピア『リア王』)
シュミットとフロイト |
拍手喝采がひどくお好きらしい日本の国際政治学者諸君、きみらの命運はきまった、脳軟化症の道を粛々と歩みたまえ! |
ブルジョワ的民主国家においては、国民が主権者であり、政府がその代表であるとされている。絶対主義的王=主権者などは、すでに嘲笑すべき観念である。しかし、ワイマール体制において考えたカール・シュミットは、国家の内部において考えるかぎり、主権者は不可視であるが、例外状況(戦争)において、決断者としての主権者が露出するのだといっている(『政治神学』)。シュミットはのちにこの理論によって、決断する主権者としてのヒトラーを正当化したのだが、それは単純に否定できない問題をはらんでいる。たとえば、マルクスは、絶対主義王権の名残をとどめた王政を倒した一八四八年の革命のあとに、ルイ・ボナパルドが決断する主権者としてあらわれた過程を分析している。マルクスが『ブリュメール一八日』で明らかにしたのは、代表制議会や資本制経済の危機において、「国家そのもの」が出現するということである。皇帝やヒューラーや天皇はその「人格的担い手」であり、「抑圧されたもの(絶対主義王権)の回帰」にほかならない。(柄谷行人『トランスクリティーク』) |
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ソクラテスあるいはデカルト以後の「真理」観を批判し、古代ギリシャにおいて「真理」は存在の「隠れ無さ」であると言った、ハイデッガーはつぎのように演説している。 |
ドイツの教職員諸君、ドイツ民族共同体の同胞諸君。 ドイツ民族はいま、党首に一票を投じるように呼びかけられている。ただ し党首は民族から何かをもらおうとしているのではない。そうではなくてむしろ、民族の全体がその本来の在りようをしたいと願うか、それともそうしたいと思わないのかという至高の決断をおのがじし下すことのできる直接の機会を、民族に与えてくれているのである。民族が明日選びとろうとしているのは他でもない、自分自身の未来なのである。(ハイデガー 「アドルフ・ヒットラーと国家社会主義体制を支持する演説」1933年) |
これは、深遠な形而上学がどのような政治とつながるかを端的に示している。ハイデッガーにとっては、指導者を「選ぶ」といった自由主義的原理そのものが否定されなければならないのであり、真の「自由」は喝采によって決断を表明することにある。そのときのみ、「民族の全体」の「本来の在り様」としての真理があらわれる、というのである。表象representationとしての真理観を否定することは、議会(=代表制representation)を否定することに導かれる。(柄谷行人『終焉をめぐって』) |