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2022年3月15日火曜日

ウクライナ軍総司令官顧問ドミトリー・ヤロシ(Dmytro Yarosh)・・・なんてデマさ

 日本てのは名高い「蛸壺社会」だから、とくに今のように例外時には、言ってはいけないタブーがモロになるんだよな


自由が狭められているということを抽象的にでなく、感覚的に測る尺度は、その社会に何とはなしにタブーが増えていくことです。集団がたこつぼ型であればあるほど、その集団に言ってはいけないとか、やってはいけないとかいう、特有のタブーが必ずある。


ところが、職場に埋没していくにしたがって、こういうタブーをだんだん自覚しなくなる。自覚しなくなると、本人には主観的には結構自由感がある。これが危険なんだ。誰も王様は裸だとは言わないし、また言わないのを別に異様に思わない雰囲気がいつの間にか作り出される。…自分の価値観だと思いこんでいるものでも、本当に自分のものなのかどうかをよく吟味する必要がある。


自分の価値観だと称しているものが、実は時代の一般的雰囲気なり、仲間集団に漠然と通用している考え方なりとズルズルべったりに続いている場合が多い。だから精神の秩序の内部で、自分と環境との関係を断ち切らないと自立性がでてこない。


人間は社会的存在だから、実質的な社会関係の中で他人と切れるわけにはいかない。…またそれがすべて好ましいとも言えない。だから、自分の属している集団なり環境なりと断ち切るというのは、どこまでも精神の内部秩序の問題です。(「丸山真男氏を囲んで」1966年)



丸山真男と親密な関係にあった加藤周一はヨーロッパと比べて日本の特徴を次のように言ってるけどさ


ほんとうに怖い問題が出てきたときこそ、全会一致ではないことが必要なのだと私は考えます。それは人権を内面化することでもあるのです。個人の独立であり、個人の自由です。日本社会は、ヨーロッパなどと比べると、こうした部分が弱いのだと思います。平等主義はある程度普及しましたが、これからは、個人の独立、少数意見の尊重、「コンセンサスだけが能じゃない」という考え方を徹底する必要があります。さきほど述べたように、日本の民主主義は平等主義的民主主義だけれど、少数意見尊重の個人主義的な自由主義ではない。それがいま、いちばん大きな問題です。(加藤周一『学ぶこと・思うこと』2003年)




もっとも、欧米でさえ今のような危機の場合、タブーが顕著になってしまうのだから、ムラ社会日本ではテキメンだね



日本社会には、そのあらゆる水準において、過去は水に流し、未来はその時の風向きに任せ、現在に生きる強い傾向がある。現在の出来事の意味は、過去の歴史および未来の目標との関係において定義されるのではなく、歴史や目標から独立に、それ自身として決定される。〔・・・〕


労働集約的な農業はムラ人の密接な協力を必要とし、協力は共通の地方心信仰やムラ人相互の関係を束縛する習慣とその制度化を前提とする。この前提、またはムラ人の行動様式の枠組は、容易に揺らがない。それを揺さぶる個人または少数集団がムラの内部からあらわれれば、ムラの多数派は強制的説得で対応し、それでも意見の統一が得られなければ、「村八分」で対応する。いずれにしても結果は意見と行動の全会一致であり、ムラ全体の安定である。(加藤周一『日本文化における時間と空間』2007年)



誰も王様は裸だとは言えないんだよ、そんなこと言ったらムラ八分になっちまうからな。マルクスの言葉なんてゼッタイ口にしたらダメさーー《この人が王であるのは、ただ他の人々が彼に対して臣下として振舞うからでしかない。ところが彼らは逆に、彼が王だから自分たちは臣下なのだと信じているのだ。Dieser Mensch ist z.B. nur König, weil sich andre Menschen als Untertanen zu ihm verhalten. Sie glauben umgekehrt Untertanen zu sein, weil er König ist.》(マルクス『資本論』第一巻第一篇第三章註)


日本では一般の人だけじゃなく知識人も根のところでは自由がオキライなんだよ


知識人の弱さ、あるいは卑劣さは致命的であった。日本人に真の知識人は存在しないと思わせる。知識人は、考える自由と、思想の完全性を守るために、強く、かつ勇敢でなければならない。(渡辺一夫『敗戦日記』1945 年 3 月 15 日)


それでなければ、この期に及んで、ウィンストン・ゼレンスキーなんてマガオで言ってる国際政治学者、「世の中で一番始末に悪い馬鹿、背景に学問を持った馬鹿」(小林秀雄「菊池寛」)が輩出するわけないからな


「自由」という語を口にして思い出したが、ブッシュ、あの顔の歪んだ息子のブッシュではなくいくらか紳士的なオットサンのほうのブッシュは、1991年8月1日、ウクライナ議会で演説し、《自由は独立とは同じではない[freedom is not the same as independence]》といい、《自殺的ナショナリズム[suicidal nationalism]》は避けなくてはならないと「説教」したらしいよ。


自殺的ナショナリズム[suicidal nationalism]ってのはいい言葉だなあぁ、トッテモ・・・



ところでーーマッタク話は変わるが(?)ーーウクライナ・ネオナチリーダーとされるドミトリー・ヤロシ(Dmytro Yarosh)はウクライナ軍総司令官ヴァレリー・ザルジニー(Valerii Zaluzhnyi)の顧問になってるらしいよ。「私は軍の最高司令官の顧問であり、防衛問題に取り組んでいる」11/17/2021




で、このドミトリー・ヤロシは、2019年の記事だが、「彼(ゼレンスキー)がウクライナと革命で死んだ人々を裏切るならば、彼はクレシュチャティクの木にぶら下がるだろう」と言った人物だってさ。


総司令官ヴァレリー・ザルジニー自身、トッテモ気合いが入ってるね




ゼレンスキー➡︎レズニコフ国防相➡︎ 軍総司令官ヴァレリー・ザルジニー➡︎?ネオナチリーダー、ドミトリー・ヤロシってわけだな。


四人のみなさん、仲良くやってください、こういった感じで。




四人でしっかり組んで、この非常時における民主主義の原理の力を徹底放射させてください!


もし平和のうちにある人民政府の原動力が徳であるとすれば、革命における人民政府の原動力は徳であると同時に恐怖である。徳なきテロは罪悪であり、 テロなき徳は無力である。 テロは迅速、 峻厳、 不屈の正義に他ならず、 徳の放射物である。 それは特殊原則というより、 祖国緊急の必要に適用された民主主義の一般的原理の帰結である。

Si le ressort du gouvernement populaire dans la paix est la vertu, le ressort du gouvernement populaire en révolution est à la fois la vertu et la terreur ; la vertu, sans laquelle la terreur est funeste ; la terreur, sans laquelle la vertu est impuissante. La terreur n’est autre chose que la justice prompte, sévère, inflexible ; elle est donc une émanation de la vertu ; elle est moins un principe particulier, qu’une conséquence du principe général de démocratie, appliqué aux plus pressants besoins de la patrie,

(ロベスピエール「共和国の内政において国民公会を導くべき政治道徳の諸原理について」Robespierre, Sur Les Principes de Morale Politique Qui Doivent Guider La Convention Nationale Dans l'Administration Intérieure de la République, 1794年2月5日)


………………

ボクは、蛸壺ムラ社会の連中が「陰謀論」とノタマウダロウこういった話は口が裂けても言わないタイプなんだけど、ときに筆のほうは滑っちまうんだな。「ゼレンスキーは西のモラルリーダー」なんて話を垣間見るとさ。



とくに今までトッテモ敬意を払ってきた国際政治学者の星、池内恵がこんなのRTしてるのを見るとさ。

彼はまったく御神輿の熱狂タイプじゃないと見做してたんだがな。

国民集団としての日本人の弱点を思わずにいられない。それは、おみこしの熱狂と無責任とに例えられようか。輿を担ぐ者も、輿に載るものも、誰も輿の方向を定めることができない。ぶらさがっている者がいても、力は平均化して、輿は道路上を直線的に進む限りまず傾かない。この欠陥が露呈するのは曲がり角であり、輿が思わぬ方向に行き、あるいは傾いて破壊を自他に及ぼす。しかも、誰もが自分は全力をつくしていたのだと思っている。(中井久夫「戦争と平和についての観察」2005年『樹をみつめて』所収)




というわけだが、繰り返せば、ボクは「ゼレンスキーはネオナチの操り人形」なんてけっして言わないからな。それどころか「ゼレンスキーは西洋民主主義のリーダー」だよ、マチガイナイ。


平時は何も示さず、すべては例外時に明らかになる。Das Normale beweist nichts, die Ausnahme beweist alles (カール・シュミット『政治神学』1922年)

根源的悪に直面しては独裁以外ない。angesichts des radikal Bösen gibt es nur eine Diktatur (カール・シュミット『政治神学』1922年)


民主主義とは、治者と被治者と同一性、支配することと支配されることの同一性、命令することと従うことの同一性である。Demokratie (...) ist Identität von Herrscher und Beherrschten, Regierenden und Regierten, Befehlenden und Gehorchenden(カール・シュミット『憲法論』1928年)

ボルシェヴィズムとファシズムとは、他のすべての独裁制と同様に、反自由主義的であるが、しかし、必ずしも反民主主義的ではない。民主主義の歴史には多くの独裁制があった。Bolschewismus und Fascismus dagegen sind wie jede Diktatur zwar antiliberal, aber nicht notwendig antidemokratisch. In der Geschichte der Demokratie gibt es manche Diktaturen, (カール・シュミット『現代議会主義の精神史的地位』1923年版)

民主主義が独裁への決定的対立物ではまったくないのと同様、独裁は民主主義の決定的な対立物ではまったくない。Diktatur ist ebensowenig der entscheidende Gegensatz zu Demokratie wie Demokratie der zu Diktatur.“ (カール・シュミット『現代議会主義の精神史的地位』1926年版)


民主主義に属しているものは、必然的に、まず第ーには同質性であり、第二にはーー必要な場合には-ー異質なものの排除または殲滅である。[…]民主主義が政治上どのような力をふるうかは、それが異邦人や平等でない者、即ち同質性を脅かす者を排除したり、隔離したりすることができることのうちに示されている。Zur Demokratie gehört also notwendig erstens Homogenität und zweitens - nötigenfalls -die Ausscheidung oder Vernichtung des Heterogenen.[…]  Die politische Kraft einer Demokratie zeigt sich darin, daß sie das Fremde und Ungleiche, die Homogenität Bedrohende zu beseitigen oder fernzuhalten weiß. (カール・シュミット『現代議会主義の精神史的地位』1923年版)




フロイトラカン語彙で言えば、リーダーを自我理念として取り入れて(象徴的同一化)、個人間で想像的同一化ーーマヌケ化ーーするのさ。




ーー《フロイトの『集団心理学と自我の分析』それは、ヒトラー大躍進の序文[préfaçant la grande explosion hitlérienne]である。》(ラカン,S828 Juin 1961



原初的集団は、同一の対象を自我理想の場に置き、その結果おたがいの自我において同一化する集団である。Eine solche primäre Masse ist eine Anzahl von Individuen, die ein und dasselbe Objekt an die Stelle ihres Ichideals gesetzt und sich infolgedessen in ihrem Ich miteinander identifiziert haben.(フロイト『集団心理学と自我の分析』第8章、1921年)

指導者や指導的理念が、いわゆるネガティヴの場合もあるだろう。特定の個人や制度にたいする憎悪は、それらにたいする積極的依存と同様に、多くの人々を一体化させるように作用するだろうし、類似した感情的結合を呼び起こしうる。Der Führer oder die führende Idee könnten auch sozusagen negativ werden; der Haß gegen eine bestimmte Person oder Institution könnte ebenso einigend wirken und ähnliche Gefühlsbindungen hervorrufen wie die positive Anhänglichkeit. (フロイト『集団心理学と自我の分析』第6章)


だれもがひとりひとりみるとかなり賢くものわかりがよい。だが一緒になるとたちまち馬鹿になってしまう。Jeder, sieht man ihn einzeln, ist leidlich klug und verständig; Sind sie in corpore, gleich wird euch ein Dummkopf daraus.(シラー『クセーニエン』ーーゲーテとの共著[Goethe und Schiller Xenien]1796年)


集団は異常に影響をうけやすく、また容易に信じやすく、批判力を欠いている。Die Masse ist außerordentlich beeinflußbar und leichtgläubig, sie ist kritiklos, (フロイト『集団心理学と自我の分析』第2章)

集団内部の個人は、その集団の影響によって彼の精神活動にしばしば深刻な変化をこうむる。彼の情動は異常にたかまり、彼の知的活動[intellektuelle Leistung] はいちじるしく制限される。そして情動と知的活動は両方とも、集団の他の個人に明らかに似通ったものになっていく。そしてこれは、個人に固有な欲動制止が解除され、個人的傾向の独自な発展を断念することによってのみ達せられる結果である。この、のぞましくない結果は、集団の高度の「組織」によって、少なくとも部分的にはふせがれるといわれたが、集団心理の根本事実である原集団  における情動興奮と思考の制止 [der Affektsteigerung und der Denkhemmung]という二つの法則は否定されはしない。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第4章、1921年)



以上、「ゼレンスキーは西洋民主主義のリーダー」の「西洋民主主義」という表現に何を代入しうるかの選択はみなさんにお任せします。ただし「ゼレンスキーは西側のモラルのリーダー」とするのはよくありません。どうしたって人はモラルという語からニーチェが『道徳の系譜学』で示したモラルの土台を想起せざるを得ないでせうから。ーー《いかに多くの血と戦慄があらゆる「善事」の土台になっていることか!…[wieviel Blut und Grausen ist auf dem Grunde aller »guten Dinge«!... ]》(ニーチェ『道徳の系譜』第二篇第三節、1887年)



要するにゼレンスキーが残酷の享楽のリーダーなんてことを立派な国際政治学者が仄めかしてしまうのはトッテモ厚顔無恥です。


最も厳しい倫理が支配している、あの小さな、たえず危険にさらされている共同体が戦争状態にあるとき、人間にとってはいかなる享楽が最高のものであるか? [Welcher Genuss ist für Menschen im Kriegszustande jener kleinen, stets gefährdeten Gemeinde, wo die strengste Sittlichkeit waltet, der höchste?] 戦争状態ゆえに、力があふれ、復讐心が強く、敵意をもち、悪意があり、邪推深く、どんなおそろしいことも進んでし、欠乏と倫理によって鍛えられた人々にとって? 残酷の享楽[Der Genuss der Grausamkeit]である。残酷である点で工夫に富み、飽くことがないということは、この状態にあるそのような人々の徳にもまた数えられる。共同体は残酷な者の行為で元気を養って、絶え間のない不安と用心の陰鬱さを断然投げすてる。残酷は人類の最も古い祭りの一つである[Die Grausamkeit gehört zur ältesten Festfreude der Menschheit].〔・・・〕


「世界史」に先行している、あの広大な「風習の倫理」の時期に、現在われわれが同感することをほとんど不可能にする……この主要歴史においては、痛みは徳として、残酷は徳として、偽装は徳として、復讐は徳として、理性の否定は徳として、これと反対に、満足は危険として、知識欲は危険として、平和は危険として、同情は危険として、同情されることは侮辱として、仕事は侮辱として、狂気は神性として、変化は非倫理的で破滅をはらんだものとして、通用していた! ――諸君はお考えになるか、これらすべてのものは変わった、人類はその故にその性格を取りかえたに違いないと? おお、人間通の諸君よ、互いをもっとよくお知りなさい![Oh, ihr Menschenkenner, lernt euch besser kennen! ](ニーチェ『曙光』18番、1881年)


聖なる野獣だって許せません。プーチンあるいはNATO諸国にそう命名するのはどうか? それについてはいま熟考中デス





われわれが「高次の文化」と呼ぶほとんどすべてのものは、残酷さの精神化の上に成り立っているーーこれが私のテーゼである。あの「野獣」が殺害されたということはまったくない。まだ、生きておりその盛りにある、それどころかひたすら――神聖なものになっている。Fast Alles, was wir "hoehere Cultur" nennen, beruht auf der Vergeistigung und Vertiefung der Grausamkeit - dies ist mein Satz; jenes "wilde Thier" ist gar nicht abgetoedtet worden, es lebt, es blueht, es hat sich nur -vergoettlicht. (ニーチェ『善悪の彼岸』229番、1886年)