浜由樹子さんの「非ナチ化」の問いをめぐる記事は、改めて読んでみたが、とってもためになるね。いまステパン・バンデラの箇所だけ引用するが、読んでない人は全部読んだほうがいいよ。
ステパン・バンデラってのは何よりもまずウクライナの英雄なんだな。少なくとも西ウクライナの人にとっては。
◼️プーチンはなぜウクライナの「非ナチ化」を強硬に主張するのか? その「歴史的な理由」 浜 由樹子 2022.03.13
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「バンデラ主義者」とは何か
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「ネオナチ」という言葉と並んで、「バンデラ」「バンデロフツィ(バンデラ主義者たち、バンデラ一派)」という用語が、プーチン大統領や政府高官の発言、国営メディアにも、ウクライナを非難する文脈で登場する。しかし、日本のメディアでは、この意味についても誤解、誤読が散見される。
この用語自体は、「ウクライナ・ナショナリスト」を指す言葉としてソ連時代から使われてきたが、もともとはステパン・バンデラ(1909-1959年)の名前に由来する。バンデラは、戦間期から第二次世界大戦中にかけてポーランドとソ連の両方と戦った活動家であり、極右的な準軍事組織を率いた人物である。
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ウクライナの見解では、彼はウクライナの独立のために戦った「自由の闘士」「独立の英雄」ということになっている。しかしながら同時に、彼は1941年と1944年にナチ・ドイツと協力した「ナチ協力者」でもある。彼とその仲間が発表した声明には、反ユダヤ主義が色濃く表れており、ロシア人、ポーランド人、ユダヤ人を「敵対民族」として排斥することが謳われていた。
また、ナチズムの思想に通じる純血主義も窺われるが、こうした側面はウクライナではあえて触れられない。言及されることがあったとしても、ソ連の支配からウクライナを解放するために、「敵の敵は味方」の論理でドイツと手を結んだに過ぎない、ということになる。
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ウクライナがソ連の構成国だった時代には、当然ながら、ナチ協力者は裏切り者として断罪されていたが、1991年の独立に伴い、ウクライナでは徐々にバンデラの名誉回復の動きが進んだ。そうした動きは、ロシアに批判的な姿勢を示す政権の下で活性化した。
例えば、ウクライナでは2004年に、大統領選の結果をめぐる民主化運動で親ロシア政権が倒れる政変(オレンジ革命)が起こった。この「革命」によって、いわゆる親欧米/反ロシア色の強いユシチェンコ政権が誕生したが、同政権は、2009年、バンデラを郵便切手のデザインに採用し、2010年にはバンデラに「ウクライナの英雄」の称号を与えた。しかしこれは、ウクライナ東部や国内外のユダヤ人からの抗議にあって撤回された。
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2013年末にウクライナで始まったユーロ・マイダン革命の結果、EUよりもロシアとの関係改善に前向きなヤヌコーヴィチ政権が倒れ、ポロシェンコ政権が樹立されると、2015年、かつてバンデラが率いた「ウクライナ民族主義者組織」「ウクライナ蜂起軍」の故メンバーたちを「20世紀のウクライナ独立の闘士」とみなすという法案が議会に提出された。また、マイダンの混乱の中、ウクライナ蜂起軍の赤と黒の旗を掲げる人々がニュース映像にも映っていた。
ポロシェンコ新政権の下、議席を得た極右政党「自由」や、「右派セクター」といった議会グループは、その反ユダヤ主義的志向を隠そうとしなかったため、ロシアはこれらを容易に「ファシズム」に結び付け、プーチン大統領はマイダン革命を「ナショナリストとネオナチ」が起こしたクーデターであると非難した。そして今でも、ドネツクとルガンスクでロシア系住民に「ジェノサイド」が行われていると主張している。
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ロシアが「ネオナチ」「バンデラ主義者」という言葉でウクライナを非難するのは、今回の侵攻を、ここまで見てきたような2000年代初頭から続く一連の「歴史をめぐる戦争」の延長線上に位置づけていることを意味する。
ソ連を(ロシアから見れば不当にも)ナチ・ドイツと同等の占領者とみなし、一方でナチ協力者たちの名誉回復を進めるウクライナ――これが、プーチン大統領が「反ロシアのウクライナ」と呼ぶものの一側面であり、これを「正す」ことが「非ナチ化」の一つ目の意味である。
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この記事には書いてないけど、2016年にはキエフのメインストリートひとつ「モスクワ大通り(Moscow Avenue) 」が「ステパン・バンデラ大通り(Stepana Bandery Avenue)」 に改名されてるそうだ[参照]。そりゃモスクワ通りよりもバンデラ通りのほうがずっといいに決まっているさ。
とはいっても、Bandera: (Re)Building Ukrainian National History Bandera: Aaron R. Wolf, January 2020 という論によれば、ユーロマイダン革命直後の2014年の国民調査では、バンデラ嫌いが48%、バンデラ好きが31%だったそうだ。
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In a poll entitled “Nostalgia for the USSR and Attitude to Individual Figures” taken only months after the Maidan revolution in 2014, almost half of all Ukrainian citizens reported having a negative attitude towards Bandera (48%), while only 31% had a positive one. This gap in public opinion grows wider when divided along geographic lines:
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西ウクライナでは76%がバンデラ好き、でも東ウクライナでは8%しかバンデラ好きはいないとあるね。北西と東南と言った方がいいのかもしれないが。
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76% of Western Ukrainians have a positive attitude towards him, compared with only 8% in the East (the negative attitudes are 12% and 70% respectively).6 Based on these numbers, the myth of Bandera, contrary to the stated goals of its propagators, is doing far more to accentuate the divide between East and West Ukrainians than to bridge it.
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で、バンデラというのはやっぱり英雄であるとともにナチ協力者だと。
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Perhaps the question of whether Stepan Bandera was either a Nazi collaborator or a national hero can be answered simply: he was both. That is, historically he and his forces had more of a connection with the National Socialists and their endeavors in creating a new order in Europe than men like Volodymyr Viatrovych would have you believe. But simultaneously, although he is absolutely still seen as a Ukrainian Hitler in Russia and much of Eastern Ukraine, (Bandera: (Re)Building Ukrainian National History Bandera: Aaron R. Wolf, January 2020 )
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ーーロシアと東ウクライナの多くにとってはウクライナのヒットラー[Ukrainian Hitler in Russia and much of Eastern Ukraine]ってあるけど、ロシアはまだしも東ウクライナにとっても「今でも」そうなのかね?
バンデラがナチ協力者であったことは確かだけど、いろんな曲折があるようだな、光吉淑江さんの論によれば。
◼️ヨーロッパの「一員」か「隣人」か~ウクライナ・アイデンティティの歴史的変遷~ 光吉淑江 2007年
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1929 年にウィーンでウクライナ民族主義者組織(OUN)が創設された。OUN はウクライナ人による国家建設を綱領として、それを阻害する勢力であるポーランドやソ連の要人や政治家、外交官を襲い、ポーランド警察当局と対決姿勢を強めていった。1939 年9月、独ソ不可侵条約の秘密議定書の取り決めに従い、ソ連はドイツと共に、ポーランドを東西に分割し、西ウクライナをソ連のウクライナ共和国に併合した。長い間東西に分断されていたウクライナの地は、スターリンの下で、ようやく統一を果たしたと歓呼の声が紙面を飾った。カジミエシ公の名を冠していたリヴィウ大学は、ウクライナ作家イヴァン・フランコの名を冠してウクライナの大学へと形を変えた。しかしソヴィエト社会主義化政策は、過酷な農業集団化やウクライナ民族主義者に対する逮捕と強制収容所送りを伴い、西ウクライナの人々が待ち望んでいた形でのウクライナの独立ではなかった。
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ポーランド人に代わる新たな支配者であるソ連、ロシア人への敵意と憎悪はますます強固なものとなり、民族運動はソ連を最大の敵とみなして急進化していく。こうした流れのなかで、ウクライナ国家建設に立ちはだかるソヴィエトとポーランドという強大な敵に対抗するには、徹底的な反ソ・反ボリシェヴィキ思想を掲げるナチス・ドイツとの協力が選択肢として浮上したのであった。OUNは 1940 年に分裂するが、主流となったステパン・バンデラ派は、ドイツ軍部と交渉の結果、ウクライナ人部隊「ナハチガル」と「ローランド」を創設し、約 700 名がドイツで軍事訓練を受けた。
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ドイツとの協力によってウクライナ国家を建設するというOUNの目標は、1941 年 6 月に現実のものとなる。1941 年 6 月 22 日独ソ戦が始まり、ソ連の西ウクライナ支配はわずか1 年 10 ヶ月で終わる。撤退したソ連軍に代わってリヴィウに入城したドイツ軍の傍らには、ナハチガル部隊があり指揮官ヤロスラフ・ステツコ(1912-1986)は、6 月 30 日にウクライナ共和国の独立宣言をおこなった。リヴィウのウクライナ市民はドイツ軍を歓迎し、ギリシャ・カトリック教会はこれを支持し、祝福を与えた。OUN はドイツ軍への感謝の念を述べ、ウクライナ独立を阻むソヴィエト政権、ロシア人、そしてボリシェヴィキに協力するユダヤ人に対する怒りをあらわにし、彼らへの容赦なき戦いを宣言した。そして実際、多くのユダヤ人が殺害されたのであった。
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もとよりナチス・ドイツにウクライナ独立を認めるつもりはなく、早くも 7 月 12 日にはステツコをはじめ、主要メンバーはゲシュタポに逮捕され、ベルリンに連行され収容所送りになる。その後 1944 年末までナチス・ドイツ軍はウクライナのほぼ全域を占領して、ドイツの東方生存圏としてウクライナから穀物原料を徴発して、かつ「オストアルバイター」として約 200 万人をウクライナからドイツへ強制連行していった。
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再度地下に潜行したOUNは、1942-43 年にかけて北西部ヴォルイニアから開始した「ウクライナ蜂起軍(UPA)」を吸収する形で再編成した。OUN-UPA は、ウクライナの完全独立を目指してウクライナ東部へ勢力を拡大し、ドイツ軍・ソ連軍に対するパルチザン戦を開始した。ドイツ軍が 1944 年後半にウクライナから撤退すると、この地をすべて再統合したソ連軍を相手に 1950 年代半ばまでゲリラ戦を続けた。OUN-UPA の勢力は最大時で 2 万―4万、あるいは 10 万ともいわれる。最終的にソ連の掃討作戦によって、OUN-UPA が壊滅すると、兵士や家族は逮捕、強制移住、収容所送りとなった。もしくは大戦終結時にソ連側の追跡を逃れて西側占領地域の難民キャンプに身を寄せ、その後アメリカ大陸に移住していった。戦後ソ連では、西ウクライナの民族宗教であったギリシャ・カトリック教会は解散されウクライナ正教会に合併された。ウクライナ民族主義について語ることはタブーとなり、この独立闘争の記憶は人々の心の内に秘められた。あるいは亡命先の北米のウクライナ系の移民社会で語り継がれていったのである。
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第 2 次大戦におけるウクライナ人の経験、対独戦争協力は、ウクライナ史研究のもっとも難しいテーマの一つであるとともに、現代ウクライナにおける政治課題でもある。戦争協力問題はもともと、ウクライナ本国よりも、戦争協力の主な舞台であった西ウクライナからの約 15 万の戦後移民の定住先、アメリカとカナダのウクライナ移民社会において議論されてきた。1980 年代にはナチス戦犯追求、戦争責任裁判と市民権剥奪問題との関連で、この問題は、学問的研究の枠にとどまらず北米のユダヤ社会とウクライナ社会を巻き込んだ非難の応酬と対決に発展したこともしばしばであった。
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OUN-UPAの流れを汲む団体、それに同情的な北米のウクライナ系移民社会、弁護士、研究者たちは、ウクライナ民族主義者とドイツが協力関係にあったことは否定しないものの、戦争協力の実態と本質、特にユダヤ人虐殺への関与について深く追究することを避ける傾向にあった。ナチスとの協力は、国家を持たないウクライナ人にとって止むを得ない選択で、ソ連という最大の敵を倒すための「より少ない・まだましな悪(lesser evil)」で、「敵の敵は友」というほどのものでさえなかったという。ドイツとの協力関係は短期間のうちに破綻して、OUN-UPA はその活動方針を対ドイツ・パルチザン抵抗闘争に転換していった。ドイツ軍司令部との協力関係でさえも一様ではなく、ドイツ軍はウクライナ民族主義の活動を各地で制限し、ゲシュタポを派遣してウクライナ民族主義者を逮捕・銃殺していった。約3万5千人のユダヤ人虐殺の場として有名なキエフのバービー・ヤール渓谷では、ウクライナ民族主義者も多く殺されたのであった。
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ウクライナ人部隊は、米英連合国との戦線ではなく、ウクライナの敵であるソ連との戦線にのみ投入されるよう確約をとっており、無条件にドイツの傀儡として枢軸国陣営に与していたわけではないことを主張してきた。そうすることで、「ウクライナ民族主義者=ナチス協力者」のイメージの払拭につとめてきたのであった。ペレストロイカ以降、ソ連・ウクライナで歴史の見直しが始まると、過去の記憶を蘇らせ、OUN-UPA のメンバーの名誉回復を求める動きは本国にも伝わり活発になっていった。ウクライナ民族主義者はウクライナ独立のために闘ったのであり、祖国の英雄として名誉回復すべきだという議論が登場した。ステパン・バンデラは、ドイツと協力したのではない、真のウクライナの独立の闘士であるから、正当に評価されるべきとする研究も登場しはじめた。
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確かにOUN-UPAは祖国ウクライナの独立のために戦った闘志である。しかし彼らの思想と政治綱領は、明らかにイタリア・ファシズムの影響を強くうけーた反民主主義的内容を特徴としている。ウクライナ独立至上主義、民族の栄光のためには、敵に対する無慈悲、容赦なき戦いを主張している。ウクライナ人の地を支配しようとするポーランド人、ソ連体制を支持するロシア人、ユダヤ人、ウクライナ人は敵であり、制裁の対象である。
そしてウクライナの独立国家では独裁的軍事指導者・総統制が布かれるとされた。このような綱領をもつ OUN-UPA はウクライナ西部では圧倒的な支持を受けていたが、東部ではそうはいかなかった。1943 年以降は、OUN-UPA は東ウクライナにも浸透し、支持基盤を拡大していったので、OUN-UPAは、ウクライナ全体の運動であったという主張がある。確かに UPA は、OUN の民族主義者ではなく、 農民の自発的なドイツ軍への抵抗運動から始まった。
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ドイツ軍がウクライナ占領地域を東へ進めるのにあわせて、合体したOUN-UPA部隊も遠征部隊を編成してドイツ軍と共に東へ向かい、勢力拡大をはかった。時にはドンバスまで遠征してパンフレットを配布、各種文化活動を行い、現地でウクライナ独立の支持者を募り、東ウクライナ人をUPAに入隊させていった。UPAのなかでOUN出身者は 1943年で 40%程度だが、指導部はやはりOUNバンデラ派が掌握していた。しかも、OUN-UPA部隊は東ウクライナへの支持層拡大に苦労していた。OUN-UPA は東ウクライナの住民にはウクライナ民族意識が希薄で、ロシア人を敵とみなしていないことに落胆することもあった。逆に東ウクライナの住民は、OUN-UPA の極端なウクライナ至上主義、排他的な反ユダヤ・反ロシアの思想に同調することはできなかったのである。東ウクライナにも 1930年代のスターリン大粛清や大飢饉によって、ソ連体制に対する不満や反ソ感情がなかったとはいえないが、ドイツ軍との協力には至っていない。東ウクライナでの影響力拡大に苦労した OUN-UPA は後に、その人種主義的・排他的な民族感情を控えた綱領を政策して、東ウクライナの人々に受容されるよう方針転換を行うこともあった。
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さらに言えば、OUN-UPA がすでに対独抵抗運動へ方針転換した時期になっても、ドイツ軍とウクライナ民族主義者の間には新たな協力が誕生していたのである。SS ガリツィア部隊(第 14SS 武装擲弾兵師団ガリツィーエン、後にウクライナ第 1 と名称変更)は、ナチス武装親衛隊の外国人部隊として創設された。1943 年 4 月にSSガリツィアへの兵士募集が始まり、西ウクライナを中心に約 8 万人もの志願者が殺到し、1 万 3 千が登用されたが、そのなかにはOUNやUPAのメンバーもいた。バンデラ派ら、民族主義指導者たちもこれを認可した。ウクライナ人兵士の多くは、SS をナチス・ドイツのために戦うというより、将来のウクライナ独立国家の基盤となる軍隊であると理解して、ウクライナ人独自の軍隊を持つことに誇りを感じていた。SS部隊はソ連軍との戦闘に従事することを約束され、1944 年のブロディの戦いでソ連軍に敗北した。その後はガリツィアSSからの脱走兵がUPAに参加した。1945 年春ナチスの降伏時に、約 18000 人となっており、連合国軍に投降した。その後メンバーの多くは連合国の捕虜収容所を経由して北米に移住していった。 (光吉淑江「ヨーロッパの「一員」か「隣人」か~ウクライナ・アイデンティティの歴史的変遷~ 」2007年、PDF)
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以上、オベンキョウ用資料でした。前回の「「ウクライナのネオナチ」問題」とともにお読みください。
ウクライナは東の隣国から見たらネオナチ国家と呼ばざるを得ないのではないか否かの判断は、各人にお任せします。