このブログを検索

2022年3月7日月曜日

脱感作やトマトジュース訓練ーー良心的兵役拒否者に対して

 「インスタントな良心的兵役拒否者」があるにしろーー例えば、大岡昇平が『俘虜記』の冒頭「捉まるまで」で書いているようにーー、今では脱感作やトマトジュース訓練のたぐいはなんらかの仕方でふつうにやってるんだろうな、少なくともロシア軍の主力部隊やKGB生え抜きのプーチンも。


中井久夫)デイヴ・グロスマンの『「人殺し」の心理学』……まあ、軍に雇われた心理学の報告ですから、文字通りに真に受けていいかどうかわかりませんが、とりあえずこの本を信じるとすると、南北戦争から太平洋戦争まで、敵と対峙したとき味方の兵士がどのくらいの確率で実際に敵に対して発砲するかという発砲率は10~15パーセントなんだそうです。つまり、いざ敵に向かうと、兵士はグロスマンの言う「インスタントな良心的兵役拒否者」になる。人間はその程度には良心的であって、もともと殺人に対して心理的抵抗がある、と。〔・・・〕


そういうことに軍が気づいたのは1946年だそうで、マーシャルという准将が、海軍の心理学者に、発砲率向上の心理学的テクニックを考案せよ、という命令を出した。これが非常に成功をおさめ、発砲率を、朝鮮戦争で55パーセント、ヴェトナム戦争で95パーセントまでもっていけたというんです。〔・・・〕

まず、心理学的な訓練に順応しやすい若い兵士、だいたい18歳くらいの兵士を使った。〔・・・〕そして三つのテクニックを使った。一番目は脱感作desensitization です。具体的なトレーニング方法としては、兵士の首を固定しておいて、残虐な戦闘シーンを延々と見せる。二番目は条件付け conditioning です。いままでのように同心円の的を撃たせていたのでは実践では全く役に立たないから、中をくり貫いてトマト・ジュースを入れたキャベツを、的にする人形の中に仕込んで、その人形を木立の中からチラチラ見え隠れするように動かす、それを撃つんです。命中すると、中身のトマト・ジュースが飛び散る。要するに、発砲と中身が飛び散ることとの条件付けをこの訓練でやった。脱感作をも含んでいると思いますがね。三番目は否認機制です。相手(「グック」=ヴェトナム人を中心とするアジア人)は人間ではないという意識を徹底させる訓練です。〔・・・〕ヴェトナム帰還兵の社会への不適応率の高さはこの訓練があれば全く怪しむに足りません。(『批評空間』2001 Ⅲー1「共同討議」トラウマと解離:斎藤環/中井久夫/浅田彰)


発砲率95パーセントの兵士は社会復帰できません。ヴェトナム戦争のPTSDの特徴は、みんな加害体験によるものだ、という点です。被害体験はごくわずかだし、そのほうが軽症なんです。(同中井久夫『批評空間』2001 Ⅲー1「共同討議」トラウマと解離)


トラウマの歴史は、ベトナム帰還兵問題とともに始まる。一九七二年に終結したベトナム戦争からの帰還兵は米国社会において疎外され、社会問題を起こした。テレビ中継などで米国民は戦争の汚い現実を見た。この戦争における残虐性と不条理性〔・・・〕は、米軍は民主主義的軍隊だという国民的自己規定を粉砕した。しかも米軍史上最初の敗戦であった。米国民の誇りも倫理感覚も著しく傷ついた。ある意味では米国民全員が戦争神経症者となり、米国のエートスの一九七〇年代の大変化にはPTSDを考慮に入れる必要があるかもしれない。

ベトナム戦争世代の米国PTSD研究者は一九九五年の阪神・淡路大震災を機に来日した時、帰還兵がいかに冷たく迎えられたかを強調し、「パレードも楽隊もなく/故郷に待つものは小石の上をさらさら流れる水ばかりだった」という詩を朗読した。ハーマンの著作にも、ベトナム戦争記念碑の建立がいかに精神的に救いだったかを記している。戦友会(ラップ・グループ、話そう会)の意義も語られた。この辺りは、第二次大戦におけるわが国の復員兵の迎え方、初期からの戦友会の存在、多数の戦争記念碑と異なる。これは、国民全体が敗北を受け入れたわが国と、軍だけが敗れたとする米国との差であろうか。あるいは、情報量が少なく、それもおおむね戦争美談に終始したわが国と、リアル・タイムの「テレヴァイズド・ウォー」だったベトナム戦争の差であろうか。リアルな戦争報道に懲りた米軍は一九九〇年の湾岸戦争においては報道陣の参入を厳しく制限し、その残酷さの隠蔽に成功した。しかし、この戦争参加者における身体的愁訴の多さは一部は化学戦によるもの、一部は敵の部隊をまるごと砂漠に埋めたといわれるごとき残虐不条理性によるPTSDの心気症的側面でなかろうか。〔中井久夫「トラウマと治療体験」2000年『徴候・記憶・外傷』所収)



…………………


大岡昇平から引こう。



谷の向うの高みで一つの声がした。〔・・・〕声はそれきりしなかった。ただ叢を分けて歩く音だけが、がさがさと鳴った。私はうながされるように前を見た。そこには果たして一人の米兵が現れていた。私は撃つ気がしなかった。それは二十歳くらいの丈の高い若い米兵で、深い鉄兜の下で頬が赤かった。彼は銃を斜めに前方に支え、全身で立って、大股にゆっくりと、登山者の足取りで近づいて来た。私はその不要慎に呆れてしまった。彼はその前方に一人の日本兵の潜む可能性につき、些かの懸念も持たないように見えた。〔・・・〕私は異様な息苦しさを覚えた。私も兵士である。いかに力を消耗しているとはいえ、私は先に発見し、全身を露出した敵を逸することはない。私の右手は自然に動いて銃の安全装置を外していた。兵士は最初我々を隔てた距離の半分を越した。その時不意に右手山上の陣地で機銃の音が起こった。彼は振り向いた。銃声はなお続いた。彼は立ち止まり、暫くその音をはかるようにしていたが、やがてゆるやかに向きをかえてその方向へ歩き出した。そしてづんづん歩いて、忽ち私の視野から消えてしまった。私は溜息し苦笑して「さて俺はこれでどっかのアメリカの母親に感謝されてもいいわけだ」と呟いた。(大岡昇平『俘虜記』「捉まるまで」1948年)


大岡昇平は後年、次のようにも書いている。


確かなのは私が米兵が私の前に現れた場合を考え、撃つまいと思ったことである。私が今ここで一人の米兵を撃つか撃たないかは、僚友の運命にも何の改変も加えはしない。ただ私に撃たれた米兵の運命を変えるだけである。私は生涯の最後の時を人間の血で汚したくないと思った。米兵が現れる。我々は互いに銃を擬して立つ。彼は遂に私がいつまでも撃たないのに痺れを切らせて撃つ。私は倒れる。彼はこの不思議な日本人の傍らに駆け寄る。〔・・・〕この時私に「殺されるよりは殺す」ということを放棄させたのが、私が既に自分の生命の存続に希望を持っていなかったという事実にあるのは確かである。(大岡昇平『戦争』1970年)


もともと戦意を失っていたとあり、グロスマンの『「人殺し」の心理学』の事例とはいくらか異なるのかもしれない。


『俘虜記』にもこうある。


私は既に日本の勝利を信じていなかった。私は祖国をこんな絶望的な戦に引ずりこんだ軍部を憎んでいたが、私がこれまで彼等を阻止すべく何事も賭さなかった以上、今更彼等によって与えられた運命に抗議する権利はないと思われた。一介の無力な市民と、一国の暴力を行使する組織とを対等に置くこうした考え方に私は滑稽を感じたが、今無意味な死に駆り出されて行く自己の愚劣を嗤わないためにも、そう考える必要があったのである。


しかし夜、関門海峡に投錨した輸送船の甲板から、下の方を動いて行く玩具の様な連絡船の赤や青の灯を見て、奴隷の様に死に向かって積み出されて行く自分の惨めさが肚にこたえた。


出征する日まで私は「祖国と運命を共にするまで」という観念に安住し、時局便乗の虚言者も空しく談ずる敗戦主義者も一紮げに嗤っていたが、いざ輸送船に乗ってしまうと、単なる「死」がどっかりと私の前に腰を下して動かないのに閉口した。 (大岡昇平『俘虜記』1948年)