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2022年3月18日金曜日

英雄は真っ平御免

 


ボクがツイッターで観察している限りでの、何よりも「国際秩序」を重視する政治学者たちの考えはほぼ次のようなものだ。


軍事的に劣勢にある国が軍事大国から侵略を受けた場合、停戦の交渉は不可欠だが、軍事行動と外交交渉は連動しており、劣勢国は少しでも交渉が自国に益するように「国民総動員」を発令しても徹底抗戦をすべきだ。したがって当面、戦死者が膨れ上がっても交渉のための捨て駒としてやむ得ない事態である。さらには、核戦争を避けるためには、被侵略国に対しての他国の援助は武器供給程度に押し留める他なく、他方、侵略国に対しての制裁は事実上、経済的なものしかない。つまり破滅的な衝突を避けるためには、他国(あるいは軍事同盟)による直接的な軍事介入は不可能であり、事実上傍観せざるを得ない。


ボクが気に入らないのはまず「英雄」ゼレンスキーによる国民総動員令の発令だな、闘いたくはない人・逃げたい人・あるいは逃げる余裕のある人(老いた両親などがいて留まらざるを得ない理由のある人を除く)は逃げたらよい、むしろ逃げるべきだと思うね。


現在のウクライナは、かつての日本の状況とは内容的には異なるかもしれないが形式的には十全な相同性がある。


たえがたきを忍び、忍びがたきを忍んで、朕の命令に服してくれという。すると国民は泣いて、外ならぬ陛下の命令だから、忍びがたいけれども忍んで負けよう、と言う。嘘をつけ! 嘘をつけ! 嘘をつけ! 


我等国民は戦争をやめたくて仕方がなかったのではないか。竹槍をしごいて戦車に立ちむかい、土人形の如くにバタバタ死ぬのが厭でたまらなかったのではないか。戦争の終ることを最も切に欲していた。そのくせ、それが言えないのだ。そして大義名分と云い、又、天皇の命令という。忍びがたきを忍ぶという。何というカラクリだろう。惨めとも又なさけない歴史的大欺瞞ではないか。しかも我等はその欺瞞を知らぬ。天皇の停戦命令がなければ、実際戦車に体当りをし、厭々ながら勇壮に土人形となってバタバタ死んだのだ。(坂口安吾 「続堕落論」1946年)


最初期のロシア侵略によるウクライナ人の共同体感情なんていつまでも続くもんじゃ決してない。ボクは愛国心やら祖国愛やら、ましてや国際秩序のために捨て駒になるのは真っ平御免だね。


我々は靖国神社の下を電車が曲がるたびに頭を下げさせられる馬鹿らしさには閉口したが、ある種の人々にとっては、そうすることによってしか自分を感じることが出来ないので、我々は靖国神社についてはその馬鹿らしさを笑うけれども、外の事柄にについて、同じような馬鹿げたことを自分自身でやっている。そして自分の馬鹿らしさには気がつかないだけのことだ。(坂口安吾 「堕落論」1946年)



ところで、フランスは第一次世界大戦では四年も頑張ったのに、第二次世界大戦ではナチに一ヶ月で落ちたな、あれはパリの話としても、事実上、無条件降伏だ、いや無抵抗降伏と言っておこう。状況によれば、無抵抗降伏のほうがいい場合があるんだよ、その後のフランスの経緯を見れば。こう書くと、プーチンはチェチェンやシリアやらで何やってきたのかしらないのか、お前さん、と言ってくる半可通のヤツがいるだろうがね。ま、馬鹿ってのはどうしようもないよ。



第二次大戦におけるフランスの早期離脱には、第一次大戦の外傷神経症が軍をも市民をも侵していて、フランス人は外傷の再演に耐えられなかったという事態があるのではないか。フランス軍が初期にドイツ国内への進撃の機会を捨て、ドイツ国内への爆撃さえ禁止したこと、ポーランドを見殺しにした一年間の静かな対峙、その挙げ句の一ヶ月間の全面的戦線崩壊、パリ陥落、そして降伏である。両大戦間の間隔は二十年しかなく、また人口減少で青年の少ないフランスでは将軍はもちろん兵士にも再出征者が多かった。いや、戦争直前、チェコを犠牲にして英仏がヒトラーに屈したミュンヘン会談にも外傷が裏で働いていたかもしれない。


では、ドイツが好戦的だったのはどういうことか。敗戦ドイツの復員兵は、敗戦を否認して兵舎に住み、資本家に強要した金で擬似的兵営生活を続けており、その中にはヒトラーもいた。ヒトラーがユダヤ人をガスで殺したのは、第一次大戦の毒ガス負傷兵であった彼の、被害者が加害者となる例であるからだという推定もある。薬物中毒者だったヒトラーを戦争神経症者として再検討することは、彼を「理解を超えた悪魔」とするよりも科学的であると私は思う。「個々人ではなく戦争自体こそが犯罪学の対象となるべきである」(エランベルジェ)。(中井久夫「トラウマとその治療経験」初出2000年『徴候・記憶・外傷』所収)


旧ソ連を何よりもまず特徴づけるのは、第二次世界大戦の外傷神経症だよ。ナチトラウマだ。




上の数字は現在はインフレして、「独ソ戦は歴史上稀に見る残虐な戦争でした。その凄惨さは数字を見るだけでわかります。ソ連は'39年の段階で1億8879万3000人の人口を有していましたが、第二次世界大戦で戦闘員、民間人合わせて2700万人が失われたとされています。

一方ドイツも、'39年の総人口6930万人のうち、戦闘員が最大531万8000人、民間人も最大300万人を失ったとされています」(大木毅)らしいが。


さっきの表には中国のってないな。



おお、中国は民間人がたくさん死んでるね、どこが殺したんだっけな、主に国民総動員制国家だろ。


ウィンストン・ゼレンスキー」とか言って持ち上げているお花畑系国際政治学者を始めとして現代日本の主流世論がかつてと同様染まっている「ホモ・センチメンタリス」が殺したんだよ、きっと。


感受性は、それが一つの価値あるいは真実の判断基準、ある行為の弁明としてみなされるようになったとたんに、恐るべきものに変身する。愛国心という、もっとも高貴であるはずのものが、もっとも残虐な行為を正当化するということが起こりうるのだ。(クンデラ『ジャックとその主人』「序文」)

ホモ・センチメンタリスは、さまざまな感情を感じる人格としてではなく(なぜなら、われわれは誰しもさまざまな感情を感じる能力があるのだから)、それを価値に仕立てた人格として定義されなければならない。感情が価値とみなされるようになると、誰もが皆それをつよく感じたいと思うことになる。そしてわれわれは誰しも自分の価値を誇らしく思うものであるからして、感情をひけらかそうとする誘惑は大きい。(クンデラ『不滅』第四部「ホモ・センチメンタリス」)