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2022年3月26日土曜日

ロシアウクライナ戦争の「ボロメオの環」

 このところ2回にわたって、国際安全保障リアリスト派重鎮と呼ばれるシカゴ大学教授ミアシャイマーMearsheimer が指摘する「ロシアのウクライナ侵略」の主要原因を示した。

①ウクライナのネオナチ化

②NATO東方拡大


ボロメオの環で示せばこういうことだ。


上部構造だけを見れば、明らかにウクライナの民主主義を脅かすロシアのヘゲモニー的軍事侵攻が「絶対悪」である。だが下部構造の侵略の原因はそうではないとミアシャイマーは言っているのである。

ラカンのボロメオの環の読み方は種々あるが、最もベースにある読み方は次の通り。

ボロメオの環において、想像界の環(赤)は現実界の環(青)を覆っている。象徴界の環(緑)は想像界の環(赤)を覆っている。だが象徴界自体(緑)は現実界の環(青)に覆われている(支配されている)。これがラカンのトポロジー図の一つであり、多くの臨床的現象を形式的観点から理解させてくれる。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, DOES THE WOMAN EXIST? 1999)


そして現実界とは原因のことである。


われわれが現実界という語を使うとき、この語の十全な固有の特徴は「現実界は原因である」となる[quand on se sert du mot réel, le trait distinctif de l'adéquation du mot : le réel est cause. ](ジャック=アラン・ミレール J.-A. MILLER, - L'ÊTRE ET L'UN - 26/1/2011)



ウクライナのネオナチ化とは新しい反ユダヤ主義を意味せず、むしろ新しいファシズムを指す。民主化を推し進めれば、ときにファシズムに移行しーーそもそもファシズムの原義は「結束」という意味であるーー、場合によっては、同質性を脅かす異質なものの排除または殲滅に向かう。これがナチスの天才理論家シュミットの洞察である。




ボルシェヴィズムとファシズムとは、他のすべての独裁制と同様に、反自由主義的であるが、しかし、必ずしも反民主主義的ではない。民主主義の歴史には多くの独裁制があった。Bolschewismus und Fascismus dagegen sind wie jede Diktatur zwar antiliberal, aber nicht notwendig antidemokratisch. In der Geschichte der Demokratie gibt es manche Diktaturen, (カール・シュミット『現代議会主義の精神史的地位』1923年版)

民主主義に属しているものは、必然的に、まず第ーには同質性であり、第二にはーー必要な場合には-ー異質なものの排除または殲滅である。[…]民主主義が政治上どのような力をふるうかは、それが異邦人や平等でない者、即ち同質性を脅かす者を排除したり、隔離したりすることができることのうちに示されている。Zur Demokratie gehört also notwendig erstens Homogenität und zweitens - nötigenfalls -die Ausscheidung oder Vernichtung des Heterogenen.[…]  Die politische Kraft einer Demokratie zeigt sich darin, daß sie das Fremde und Ungleiche, die Homogenität Bedrohende zu beseitigen oder fernzuhalten weiß. (カール・シュミット『現代議会主義の精神史的地位』1923年版)



少なくともウクライナの民族主義的勢力が、東ウクライナとくにドンバスで、この民主主義=ファシズムを実践してきたのはまがいようがない。


ゼレンスキー大統領自身、体制批判を続けていた親ロシアのテレビチャンネルを3局、2021年初めに閉鎖させている[参照]。


………………


※付記


なお柄谷行人やジジェクはボロメオの環を次の形で使っている。





二人は現実界の箇所をマルクス的に資本あるいは経済に当てているのである。


イラクへの攻撃の三つの「真の」理由(①西洋のデモクラシーへのイデオロギー的信念、②新しい世界秩序における米国のヘゲモニーの主張、③石油という経済的利益)は、パララックスとして扱わねばならない。どれか一つが他の二つの真理ではない。「真理」はむしろ三つのあいだの視野のシフト自体である。それらはISR(想像界・象徴界・現実界)のボロメオの環のように互いに関係している。民主主義的イデオロギーの想像界、政治的ヘゲモニーの象徴界、エコノミーの現実界である。[the Imaginary of democratic ideology, the Symbolic of political hegemony, the Real of the economy(ジジェク Zizek, Iraq: The Borrowed Kettle, 2004)



近代国家は、資本制=ネーション=ステート(capitalist-nation-state)と呼ばれるべきである。それらは相互に補完しあい、補強しあうようになっている。たとえば、経済的に自由に振る舞い、そのことが階級的対立に帰結したとすれば、それを国民の相互扶助的な感情によって解消し、国家によって規制し富を再配分する、というような具合である。その場合、資本主義だけを打倒しようとするなら、国家主義的な形態になるし、あるいは、ネーションの感情に足をすくわれる。前者がスターリン主義で、後者がファシズムである。このように、資本のみならず、ネーションや国家をも交換の諸形態として見ることは、いわば「経済的な」視点である。そして、もし経済的下部構造という概念が重要な意義をもつとすれば、この意味においてのみである。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001年)


ヘーゲルが『法の哲学』でとらえようとしたのは、資本=ネーション=国家という環である。このボロメオの環は、一面的なアプローチではとらえられない。ヘーゲルが右のような弁証法的記述をとったのは、そのためである。たとえば、ヘーゲルの考えから、国家主義者も、社会民主主義者も、ナショナリスト(民族主義者)も、それぞれ自らの論拠を引き出すことができる。しかも、ヘーゲルにもとづいて、それらのどれをも批判することもできる。それは、ヘーゲルが資本=ネーション=国家というボロメオの環を構造論的に把握した――彼の言い方でいえば、概念的に把握した(begreifen)――からである。ゆえに、ヘーゲルの哲学は、容易に否定することのできない力をもつのだ。


しかし、ヘーゲルにあっては、こうした環が根本的にネーションというかたちをとった想像力によって形成されていることが忘れられている。すなわち、ネーションが想像物でしかないということが忘れられている。だからまた、こうした環が揚棄される可能性があることがまったく見えなくなってしまうのである。(柄谷行人『世界史の構造』第9章、2010年)


ここでの話からいくらか外れるが、ーーボロメオの環は論者によっていろんな使い方があり、基本的には構造論的思考のもとにあり、形式さえ掴んでしまえば要素の変換はいくらでも可能であるーー、フロイトラカンの現実界=エスの原点は身体(欲動の身体)である。