このブログを検索

2022年3月31日木曜日

NATOはクリスチャンファシズムに他ならない

 

フランシス・フクヤマは2002年のエッセイで、「イスラムファシズム」Islamo-fascismという自らの造語を連発している。


A strong finger of blame for the rise of Islamo-fascism must point at Saudi Arabia

(Francis Fukuyama, Has History Started Again? 2002, PDF)


これはふつうは怒るよ、西側の価値が全能だと思い込んでいる連中以外は。例えばジジェクは、だったらあの西側も「クリスチャンファシズム」Christo-Fascismと呼んだらいいじゃないかと言っている。


誰あろうフランシス・フクヤマが提起した「イスラムファシズム」Islamo-Fascismは正当化できるだろうか? もしそうならファシズムの西側形態も「クリスチャンファシズム」と呼べばいいのではないか?[ "Islamo-Fascism …proposed by (amongst others) Francis …justified? …is one then also ready to describe Western forms of fascism as "Christo-Fascism"?](Zizek, "FIRST AS TRAGEDY, THEN AS FARCE ", 2009)


米国が事実上のボスNATOはクリスチャンファシズムに他ならない(正教会はなぜか排除してるらしいが)。で、その観点が毛ほどもない日本のリアルポリティックなる国際政治学者たちに苛立ってるんだ、ヒドクね。口には出してないが、このところのボクの通奏低音は(あの正義面したネオファシストたちめ!)だよ。


もっとも西側が生み出した「世界史的理念」はとっても尊敬してるけどさ。世界資本主義のイデオロギーにどっぷり浸かった今の西側が潰そうとばかりしてきたあの「至高の理念」には。今のところゼンゼン西じゃなく、極東の島国の憲法にのみに偶然に書き込まれている、あの「非武装中立」ってヤツとか、一国社会主義という誤った形で導入されて悲劇的な結末に終わった「コミュニズム」ってヤツだ。


……………



私は、似非ドゥルージアンのネグリ&ハートの革命モデル、マルチチュードやダイナミズム等…、これらの革命モデルは過去のものだと考えている。そしてネグリ&ハートは、それに気づいた。

半年前、ネグリはインタヴューでこう言った。われわれは、無力なこのマルチチュードをやめるべきだ [we should stop with this multitudes]、と。われわれは二つの事を修復しなければならない。政治権力を取得する着想と、もうひとつ、ーードゥルーズ的な水平的結びつき、無ヒエラルキーで、たんにマルチチュードが結びつくことーー、これではない着想である。ネグリは今、リーダーシップとヒエラルキー的組織を見出したのだ。私はそれに全面的に賛同する。(ジジェク 、インタヴュー、Pornography no longer has any charm" ― Part II、19.01.2018)


マルチチュードは、主権の形成化[forming the sovereign power] へと解消する「ひとつの公民 one people」に変容するべきである。〔・・・〕multitudo 概念を強調して使ったスピノザは、政治秩序が形成された時に、マルチチュードの自然な力が場所を得て存続することを強調した。実際にスピノザは、マルチチュードmultitudoとコモンcomunis 概念を推敲するとき、政治と民主主義の全論点を包含した。〔・・・〕スピノザの教えにおいて、単独性からコモン[singularity to the common]への移行において決定的なことは、想像力・愛・主体性である。新しく発明された制度[newly invented institutions]へと自らを移行させる単独性と主体性は、コモンティスモ[commontismo]を要約する一つの方法である。(The Salt of the Earth On Commonism: An Interview with Antonio Negri – August 18, 2018)


なぜ我々はこれをコミュニズムと呼ばないのか。おそらくコミュニズムという語は、最近の歴史において、あまりにもひどく誤用されてしまったからだ。(…だが)私は疑いを持ったことがない、いつの日か、我々はコモンの政治的プロジェクトをふたたびコミュニズムと呼ぶだろうことを[I have no doubt that one day we will call the political project of the common ‘communism' again]。だがそう呼ぶかどうかは人々しだいだ。我々しだいではない。(The Salt of the Earth On Commonism: An Interview with Antonio Negri – August 18, 2018)



実際のところ、世界史的理念はスピノザ起源のコモンティスモ[commontismo]しかないよ。そんなのはアタリマエだ。





でクズしかいないってことだ、あの経済音痴で国民国家しか思考していない日本の国際政治学者たちは。