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2022年4月14日木曜日

正義の翼を持つセンセたち

いやあ、もうやめようかと思ってたのだが、また見ちゃったよ、正義の翼をもつ篠田英朗・池内恵ボク珍を。


こっちのほうは国際政治学者じゃなくてふつうの大学のセンセだな、どっちもどっち論で検索するとこんなこと言うセンセのたぐいばかりだ。


次のようなことを言いうる「ごく標準的な」河瀬ディスクール擁護のマトモな先生はほんの僅か。


Mika Levy-Yamamori (山森みか/biniyaminit)@M_LevyYamamori 2022年4月13日


「『自分は正義の側に立っているからこれでいいんだ』という自己肯定感の虜になるのには警戒したほうがいいのでは」、と言うことさえ、「どっちもどっち論」に分類されていくのは、厳しい世界だなあ、日本語ついったー界。



日本言論界、やっぱり終わってるよ。


善への過剰なコミットメントはそれ自体、最も大いなる悪になりうる。このリアルな悪とはあらゆる種類の狂信的なドグマティズムである。特に至高善の名の下に行使されるドグマだ。An excessive commitment to Good may in itself become the greatest Evil: real Evil is any kind offanatical dogmatism, especially that exerted in the name of the supreme Good. (ジジェク『イデオロギーの崇高な対象』1989年)



知的退行の世紀のインテリは正義ときいたら悪を代入してみる習慣さえないらしいからな


「至高善 Souverain Bien」を基礎づける道徳の法は、モノdas Ding であり、…根源的な問題le problème radical 、悪の問題 le problème du mal である。(ラカン, S7, 16  Décembre  1959~13  Janvier  1960、摘要)

善は根源的・絶対的悪の仮面にすぎない。Good is only the mask of radical, absolute Evil…善の背後には根源的な悪があり、善とは「悪の別名」である。Behind Good, there is radical Evil: Good is "another name for an Evil"(ジジェク『斜めから見る』1991年)

ラカンの『カントとサド』(E790)における《至高者は悪行のなかに取り戻される L'Être suprême est restauré dans le Maléfice》。ーーこの意味は「神は悪であるDieu est le Mal」だ。(« DIEU EST LE MAL », Par Trois Questions À Hervé Castanet,2018)



ーーま、ラカンやジジェクなんか関知しなくていいよ、でもカントとニーチェの善ぐらい処理せずに学者ってありかね、《いかに多くの血と戦慄があらゆる「善事」の土台になっていることか!…[wieviel Blut und Grausen ist auf dem Grunde aller »guten Dinge«!... ]》(ニーチェ『道徳の系譜』第2篇第3節、1887年)、《復讐欲動の発展としての正義[Gerechtigkeit als Entwicklung des Rachetriebes. ]》(ニーチェ「力への意志」遺稿、 Frühjahr 1887)



ああいったナイーヴな正義のセンセばかりってのはな


一般に「正義われにあり」とか「自分こそ」という気がするときは、一歩下がって考えなお してみてからでも遅くない。そういうときは視野の幅が狭くなっていることが多い。 (中井久夫『看護のための精神医学』2004年 )

誰にも攻撃性はある。自分の攻撃性を自覚しない時、特に、自分は攻撃性の毒をもっていないと錯覚して、自分の行為は大義名分によるものだと自分に言い聞かせる時が危ない。医師や教師のような、人間をちょっと人間より高いところから扱うような職業には特にその危険がある。(中井久夫「精神科医からみた子どもの問題」1986年)



マンガでも読み直すことからもう一度始めたらどうだろ、あのセンセたち?


「いいか。世の中で最も危険な思想は、悪じゃなく、正義だ。悪には罪悪感という歯止めがあるが、正義には歯止めなんかない。だからいくらでも暴走する。過去に起きた戦争や大量虐殺も、たいていの場合、それが正義だと信じた連中の暴走が起こしたものだ」(『翼を持つ少女』)




このままじゃ、少なくとも大学界は「更地」にすべき論がマガオでてきちまうぜ



一切の知識人的な者を消滅させ、その基盤をも覆し、いわば文化を「更地」しようとした試みをわれわれは一つ知っている。それを敢えてしたポルポトは長期のフランス留学において興議申立て世代に接触した、フーコーの忠実な精神的弟子である。フーコーがそれを予想しなかったとしても、弟子は師よりも論理を徹底させがちである。パリの学生は「石畳の下は砂だ」と叫んだ。「砂」とは「更地」ということである。ポルポトはほんとうにそうしてしまった。知識人の片鱗をみせる者として歯科医までを殺し、貨幣と都市とを廃絶し、国民皆耕が実現するかにみえた。ただ、銃剣による強制なしではそれは実現しなかった。(中井久夫「学園紛争とは何であったのか」初出1995年『家族の深淵』所収)


…………………



ついでに究極のボク珍、細谷雄一のツイート見たら案の定あいかわらずトッテモ阿呆鳥だな




西側メディアを盲信するだけの国際政治学者なる「専門家」が実に繊細さに欠けるから、河瀬さんはあまりにも耐え難くなって、やむなく芸術の分野から具体的に指摘してるんだよ、キミらがすこしでも目を醒ましてくれることを期待してね。



令和4年度東京大学学部入学式 祝辞 映画作家 河瀨直美

例えば「ロシア」という国を悪者にすることは簡単である。けれどもその国の正義がウクライナの正義とぶつかり合っているのだとしたら、それを止めるにはどうすればいいのか。なぜこのようなことが起こってしまっているのか。一方的な側からの意見に左右されてものの本質を見誤ってはいないだろうか?誤解を恐れずに言うと「悪」を存在させることで、私は安心していないだろうか?


キミたちは、ロシアの「絶対悪」を存在させることで、ウクライナのバックにいる米ネオコンの、世界資本主義における「構造的な」という意味での「究極の悪」を隠蔽してるだけなぐらいいくらなんでも気づけよ。世界に冠たる正義の2国! 究極の自由、ネオナチ活動自由の国! ➡︎米国とウクライナは2021年12月の国連決議においてネオナチ賛成投票


ああ、でも経済音痴が明らかで、しかもネオコン宗教信者らしい貴君にはまったくムリなこと言ってしまったかな




どうなんだい、よく知らないがこれは貴君の好きなファクトなのかい? 


ま、どうでもいいさ、この話は。重要なのはまず自覚することなんだがな、例えば東北大震災直後に鈴木健がいみじくも指摘した、タコツボ専門家とは「擬似専門家」でしかないことを。


鈴木健@kensuzuki 要は専門家のもっている専門てほんとに狭くって、世界に数人~数十人しか分かる人がいない。それでも業界外に位置づけを説明するために自分が数千人から数十万人のコミュニティに属しているように説明する。素人から期待される質問に答えようとするととたんに擬似専門家になる。(2011年3月16日)