柄谷が示した「資本=ネーション=国家(capital-nation-state)」のボロメオの環だが[参照]、これは最も基本的にはこう読む。 |
・国家の環はネーション(国民・共同体)の環を覆っている(支配しようとする)。例えば法律・税金等で。 |
・ネーションの環は資本の環を覆っている(支配しようとする)。例えば互酬制的相互扶助にて。 |
・資本の環は国家の環を覆っている。つまり国家は資本に支配されている。 |
最後の「資本」とは何か。 |
“大洪水よ、わが亡きあとに来たれ!”(後は野となれ山となれ!)、これがすべての資本家およびすべての資本主義国民のスローガンである[Après moi le déluge! ist der Wahlruf jedes Kapitalisten und jeder Kapitalistennation. ](マルクス『資本論』第1巻「絶対的剰余価値の生産」) |
あるいはーー、 |
(資本システムにおいて)労働力の売買がその枠内で行なわれる流通または商品交換の領域は,実際,天賦人権の真の楽園であった。 ここで支配しているのは,自由,平等,所有,およびベンサムだけである[Was allein hier herrscht, ist Freiheit, Gleichheit, Eigentum und Bentham.] 自由! なぜなら、商品──例えば労働力──の買い手と売り手は、彼らの自由意志によってのみ規定されているのだから。彼らは、自由で法的に同じ身分の人格として契約する。契約は、彼らの意志に共通な法的表現を与えるそれの最終成果である。 平等! なぜなら彼らは商品所有者としてのみ相互に関係し、 等価物を等価物と交換するのだから。 所有! なぜなら誰もみな、 自分のものだけを自由に処分するのだから。 |
ベンサム! なぜなら双方のいずれにとっても、問題なのは自分のことだけだからである。彼らを結びつけて一つの関係のなかに置く唯一の力は、彼らの自己利益、彼らの特別利得、彼らの私益という力だけである。 Bentham! Denn jedem von den beiden ist es nur um sich zu tun. Die einzige Macht, die sie zusammen und in ein Verhältnis bringt, ist die ihres Eigennutzes, ihres Sondervorteils, ihrer Privatinteressen. (マルクス『資本論』第1巻第2篇第4章「貨幣の資本への転化 Die Verwandlung von Geld in Kapital」1867年) |
要は資本とは究極的には、その場限りの自己利益のみを追求する無意識的な「人間による人間の搾取システム」である。 |
言語における仮面が唯一意味をもつのは、無意識的あるいは、実際の仮面の故意の表出のときのみである。この場合、功利関係はきわめて決定的な意味をもっている。すなわち、私は他人を害することによって自分を利する(人間による人間の搾取) ということである。 Die Maskerade in der Sprache hat nur dann einen Sinn, wenn sie der unbewußte oder bewußte Ausdruck einer wirklichen Maskerade ist. In diesem Falle hat das Nützlichkeitsverhältnis einen ganz bestimmten Sinn, nämlich den, daß ich mir dadurch nütze, daß ich einem Andern Abbruch tue (exploitation de l'homme par l'homme <Ausbeutung des Menschen durch den Menschen>); (マルクス&エンゲルス『ドイツイデオロギー』「聖マックス」1845-1846 年) |
この相互搾取理論は,ベンサムがうんざりするほど詳論したものだ[Wie sehr diese Theorie der wechselseitigen Exploitation, die Bentham bis zum Überdruß ausführte, ](マルクス&エンゲルス『ドイツイデオロギー』「聖マックス」 1846年) |
1990年冷戦終了以降の世界資本主義の時代における「資本の搾取システム」の別名は、帝国主義、新自由主義、あるいは市場原理主義である。
さて冒頭のボロメオの環の用語をいくらか置き換えてみよう。
1990年以降の新自由主義の時代、上部構造の国際秩序・民主主義は、事実上、底部構造の帝国主義的イデオロギーに支配されている。別の言い方をすれば、表向きは国際秩序を目指す西側イデオロギーの背後には、資本の功利主義、搾取システムがあり、それが上部構造の無意識的原動因になっている。
これが最も基本的な現在におけるマルクスの読み方である。
ドゥルーズは1993年にこう言い残して死んでいった(1995年自死)。 |
マルクスは間違っていたなどという主張を耳にする時、私には人が何を言いたいのか理解できません。マルクスは終わったなどと聞く時はなおさらです。現在急を要する仕事は、世界市場とは何なのか、その変化は何なのかを分析することです。そのためにはマルクスにもう一度立ち返らなければなりません。〔・・・〕 次の著作は『マルクスの偉大さ La grandeur de Marx』というタイトルになるでしょう。それが最後の本です。〔・・・〕私はもう文章を書きたくありません。マルクスに関する本を終えたら、筆を置くつもりでいます。そうして後は、絵を書くでしょう。(ドゥルーズ「思い出すこと」インタビュー1993年) |
私はこのところ国際政治学者に対して強い批判をしている根にあるのは、彼らが徹底的に「経済音痴」なことである。それは彼らの片言隻語を垣間見るだけで即座に断言できる。つまりは現在の西側イデオロギーの底にある資本の排除システムにまったく不感症であり、この帝国主義的イデオロギーに対して目隠ししたまま国際秩序なるものを「夢見るように」信奉しているのである。冷戦終了前後から学び始めた1970年前後生まれの中堅の国際政治学者たちがことさらひどい。現在席巻しているネオコンイデオロギーに対する別の選択肢の可能性などまったく思いもよらぬらしい、善人の仮面を被った「世界資本主義者」しかいない。
通俗哲学者や道学者、その他のからっぽ頭、キャベツ頭[Allerwelts-Philosophen, den Moralisten und andren Hohltöpfen, Kohlköpfen…]〔・・・〕 完全に不埒な「精神」たち、いわゆる「美しい魂」ども、すなわち根っからの猫かぶりども[Die vollkommen lasterhaften ”Geister”, die ”schönen Seelen”, die in Grund und Boden Verlognen] 》(ニーチェ『この人を見よ』1888年) |
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