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2022年4月10日日曜日

「じゃあ、君は自分の国が占領されたのに対して戦いたくないのかい?」

これからきみにぼくの人生で最も悲しかった発見を話そう。それは、迫害された者が迫害する者よりましだとはかぎらない、ということだ。ぼくには彼らの役割が反対になることだって、充分考えられる。(クンデラ「別れのワルツ」)

過去の虐待の犠牲者は、未来の加害者になる恐れがあるとは今では公然の秘密である。(When psychoanalysis meets Law and Evil: Jochem Willemsen and Paul Verhaeghe, 2010)


…………………

なぜわからないのか、と言うつもりはない。わからないひとがいるのはわかる。

例えば下に引用するクンデラやヴェイユの言っていることがわからないひとがいるのはよくわかる。この一か月半マスコミの寵児小泉悠はわからない人だと私は診断した。

戦争は絶対悪だからこそロシアを絶対悪だとすることは間違っていることがわからないひとがいるのもわかる。原因を問わない精神はそうなる。


バイデン政権の対ロ包囲網「戦略」の本質

浅井基文 3/28/2022

ロシア・ウクライナ戦争に関する「事実関係」が完全に西側メディアの報道によって歪められてしまっている日本国内では、ロシアがウクライナに対する軍事侵攻を余儀なくされた根本原因がアメリカ主導のNATO「東方拡大」、特にロシアにとって最後の緩衝地帯であるウクライナをも「東方拡大」の対象にすることを排除しないバイデン政権の対ロ政策に対する危機感にあることを正確に認識する向きはほとんどありません。〔・・・〕


ロシアの軍事侵攻は、戦争を禁じた国連憲章第2条4項違反で許されないことは間違いありません。しかし、ロシアをそこまで追い込んだアメリカの対ロ政策、さらにいえば、相変わらず世界の「一極支配」にしがみつくバイデン政権の危険な本質を見極めないと、今後も私たちはアメリカそして西側メディアによって「思いのままに動かされる操り人形」であり続けることになってしまいます。私は、物事の現象面と本質面とを冷静に見極める判断力を私たち日本人が我がものにすることが何よりも求められていると考えます。〔・・・〕

ロシア・ウクライナ危機勃発後、アメリカはロシアに対する制裁を不断にエスカレートさせ、しかも、全世界にアメリカの味方になることを迫り、その結果、景気回復に悩んでいる世界経済にさらなる重荷を負わせ、各国民生は本来受けるべきでない損害に見舞われている。アメリカは今やグロテスクな巨人に成り下がった。制裁や戦争という手段だけが異常に発達し、平和と発展を促す建設のための手段は筋肉の萎縮を起こして機能退化してしまい、その結果、戦争反対をいいつつ至る所で戦争を引き起こし、平和をいいつつ気の向くままに平和を破壊している。


そう、ロシアを絶対悪だとする精神こそ戦争をいっそう継続させることになりうることがわからないひとが世の中にはいるのだ。それは西側メディアの操り人形だけではないが、多くの場合はそうだ。日本の既存システムで生きていくためには西側メディアの奴隷になったほうが生きやすい。場合によってはその置かれた立場のために已む得ずそうせざるを得ない人もいることだろう。

いま浅井基文氏の文を引用したがあれが全面的に正しいというつもりもない。とはいえ現在の私は99%あの立場をとっている。ケナンの、ミアシャイマーの立場だ[参照]。彼らの立場も西側プロパガンダにより危うくなっているのももちろん知っているが。物事の現象面と本質面とを冷静に見極める判断力》とある。なぜロシア軍事侵略という現象面しか見ないでいられるのか。ミアシャイマーの「NATO の東西拡大が戦争の原因」という見解に対して、いやプーチンはウクライナの民主化を恐れたのだという西側の三文プロパガンダがある。日本の国際政治学者集団がそのプロパガンダを神輿に担ぎ上げて湿った瞳を交わし合い頷き合っている。連中はなぜ民主主義という語の現象面しか見ないのか[参照]。呆れ果てるほかない・・・

もっともある意味で浅井基文やミアシャイマーの立場をとりうる環境に私は置かれていると言ってもよい。


その老学者はまわりの騒がしい若者たちを眺めていたが、突然、このホールのなかで自由の特権をもっているのは自分だけだ、自分は老人なのだから、と思った。老人になってはじめて人は、群集の、世間の、将来の意見を気にせずともすむ。近づいてくる死だけが彼の仲間であり、死には目を耳もないのだ。死のご機嫌をうかがう必要もない。自分の好きなことをし、いえばいいのだ。(クンデラ『生は彼方に』)



老いということではなくてもよい。私は日本的環境の外部にいる。独りで判断できる立場にある。そのことだけでもいくらか自由だ。私はユダヤ人だと言ってもよい。



ユダヤ人であったおかげで、私は、他の人たちが知力を行使する際制約されるところの数多くの偏見を免れたのでした。ユダヤ人の故に私はまた、排斥運動に遭遇する心構えもできておりましたし、固く結束した多数派に与することをきっぱりあきらめる覚悟もできたのでした。(フロイト『ブナイ・ブリース協会会員への挨拶』1926年)



かつてのだ、マルクスが《ポーランド社会の毛穴の中のユダヤ人[Juden in den Poren der polnischen Gesellschaft]》といったユダヤ人だ、いまのユダヤ人ではまったくない。冒頭のクンデラのいうようになってしまっている相があるのが今のユダヤ人だ。バイデン政権の中核スタッフには私の知る限りでもウクライナ系ユダヤ人が二人いる。

何はともあれクンデラやヴェイユのようなひとが世界にわずかでもいなかったら、人類はとっくのむかしになくなっているよ。彼らが言ったことはすぐさまの効果はないにしろ、読者の心のなかで育って、長い年月をかけ、その微少な力で人間を変えくれることをわずかでも期待しないと耐え難いね・・・というのはパクリだ、《詩という言語のエネルギーは素粒子のそれのように微細。政治の力や経済の力と比べようがない。でも、素粒子がなければ、世界は成り立たない。詩を読んで人が心動かされるのは、言葉の持つ微少な力が繊細に働いているから。古典は長い年月をかけ、その微少な力で人間を変えてきた。》(谷川俊太郎、震災後 詩を信じる、疑う)


サビナは学生時代、寮に住んでいた。メーデーの日は全員が朝早くから行進の列をととのえる集会場に行かねばならなかった。欠席者がいないように、学生の役員たちは寮を徹底的にチェックした。そこでサビナはトイレにかくれ、みんながとっくに出ていってしまってから、自分の部屋にもどった。それまで一度も味わったことのない静けさであった。ただ遠くからパレードの音楽がきこえてきた。それは貝の中にかくれていると、遠くから敵の世界の海の音がきこえてくるようであった。


チェコを立ち去ってから二年後、ロシアの侵入の記念日にサビナはたまたまパリにいた。抗議のための集会が行なわれ、彼女はそれに参加するのを我慢することができなかった。フランスの若者たちがこぶしを上げ、ソビエト帝国主義反対のスローガンを叫んでいた。そのスローガンは彼女の気に入ったが、しかし、突然彼らと一緒にそれを叫ぶことができないことに気がつき驚いた。彼女はほんの二、三分で行進の中にいることがいたたまれなくなった。


サビナはそのことをフランスの友人に打ちあけた。彼らは驚いて、「じゃあ、君は自分の国が占領されたのに対して戦いたくないのかい?」と、いった。彼女は共産主義であろうと、ファシズムであろうと、すべての占領や侵略の後ろにより根本的で、より一般的な悪がかくされており、こぶしを上につき上げ、ユニゾンで区切って同じシラブルを叫ぶ人たちの行進の列が、その悪の姿を写しているといおうと思った。しかし、それを彼らに説明することができないだろうということは分かっていた。そこで困惑のうちに会話を他のテーマへと変えたのである。(クンデラ『存在の耐えられない軽さ』1984年)


感受性は、それが一つの価値あるいは真実の判断基準、ある行為の弁明としてみなされるようになったとたんに、恐るべきものに変身する。愛国心という、もっとも高貴であるはずのものが、もっとも残虐な行為を正当化するということが起こりうるのだ。(クンデラ『ジャックとその主人』「序文」)




些細な詩  谷川俊太郎



もしかするとそれも些細な詩

クンデラの言うしぼられたレモンの数滴

一瞬舌に残る酸っぱさと香りに過ぎないのか

夜空で月は満月に近づき

庭に実った小さなリンゴはアップルパイに焼かれて

今ぼくの腹の中

この情景を書きとめて白い紙の上の残そうとするのが

ぼくのささやかな楽しみ

なんのため?

自分のためさ



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わたくしをこわがらせるのは、社会的なものとしての教会でございます。教会が汚れに染まっているからということだけではなく、さらに教会の特色の一つが社会的なものであるという事実でございます。わたくしが非常に個人主義的な気質だからではございません。わたくしはその反対の理由でこわいのです。わたくしには、人々に雷同する強い傾向があります。わたくしは生れつきごく影響されやすい、影響されすぎる性質で、とくに集団のことについてそうでございます。


Ce qui me fait peur, c’est l’Église en tant que chose sociale. Non pas seulement à cause de ses souillures, mais du fait même qu’elle est entre autres caractères une chose sociale. Non pas que je sois d’un tempérament très individualiste. J’ai peur pour la raison contraire. J’ai en moi un fort penchant grégaire. Je suis par disposition naturelle extrêmement influençable, influençable à l’excès, et surtout aux choses collectives. 

もしいまわたくしの前で二十人ほどの若いドイツ人がナチスの歌を合唱しているとしたら、わたくしの魂の一部はたちまちナチスになることを、わたくしは知っております。これはとても大きな弱点でございます。けれどもわたくしはそういう人間でございます。生れつきの弱点と直接にたたかっても、何もならないと思います。


Je sais que si j’avais devant moi en ce moment une vingtaine de jeunes Allemands chantant en chœur des chants nazis, une partie de mon âme deviendrait immédiatement nazie. C’est là une très grande faiblesse. Mais c’est ainsi que je suis. Je crois qu’il ne sert à rien de combattre directement les faiblesses naturelles.〔・・・〕


わたくしはカトリックの中に存在する教会への愛国心を恐れます。愛国心というのは地上 の祖国に対するような感情という意味です。わたくしが恐れるのは、伝染によってそれに染まることを恐れるからです。教会にはそういう感情を起す価値がないと思うのではありません。 わたくしはそういう種類の感情を何も持ちたくないからです。持ちたくないという言葉は適当ではありません。すべてそういう種類の感情は、その対象が何であっても、いまわしいもので あることをわたくしは知っております。それを感じております。


J’ai peur de ce patriotisme de l’Église qui existe dans les milieux catholiques. J’entends patriotisme au sens du sentiment qu’on accorde à une patrie terrestre. J’en ai peur parce que j’ai peur de le contracter par contagion. Non pas que l’Église me paraisse indigne d’inspirer un tel sentiment. Mais parce que je ne veux pour moi d’aucun sentiment de ce genre. Le mot vouloir est impropre. Je sais, je sens avec certitude que tout sentiment de ce genre, quel qu’en soit l’objet, est funeste pour moi.

(シモーヌ・ヴェイユ書簡--ペラン神父宛『神を待ちのぞむ Attente de Dieu』所収)




《もしいまわたくしの前で二十人ほどの若いドイツ人がナチスの歌を合唱しているとしたら、わたくしの魂の一部はたちまちナチスになることを、わたくしは知っております》からこそ、愛国心patriotismeを最も警戒するのだ。さらにいえば信者の共同体、あるいは愛の宗教を。


信者の共同体[Glaubensgemeinschaft]…そこにときに見られるのは他人に対する容赦ない敵意の衝動[rücksichtslose und feindselige Impulse gegen andere Personen]である。…宗教は、たとえそれが愛の宗教[Religion der Liebe ]と呼ばれようと、所属外の人たちには過酷で無情なものである。


もともとどんな宗教でも、根本においては、それに所属するすべての人びとにとっては愛の宗教であるが、それに所属していない人たちには残酷で不寛容 [Grausamkeit und Intoleranz ]になりがちである。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第5章、1921年)


さらにさらにいえば愛自体を。ーー《ただ一人の者への愛は一種の野蛮である。それはすべての他の者を犠牲にして行なわれるからである。神への愛もまた然りである[Die Liebe zu Einem ist eine Barbarei: denn sie wird auf Unkosten aller Übrigen ausgeübt. Auch die Liebe zu Gott.]》(ニーチェ『善悪の彼岸』第67番、1986年)。


例えばファスビンダーの『リリー・マルレーン』、あれ聴かされたらすぐにナチになる人いっぱいいるよ。


これをわからないひとがいるだろうか。少なくともそういうたぐいの人間がいることを。いるようなんだな、世の中には。ウクライナのネオナチ化をいまだ否定している人たちがいるんだから。