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2022年4月10日日曜日

「珍謀論・陰房論」用語のススメ

以下、Wikipediaから抜き出したデマゴギー、プロパガンダ、陰謀論の定義である。


デマゴギー

Demagogie

大衆扇動。主に民衆の感情、恐れ、偏見、無知に訴える事により権力を得かつ政治的目的を達成しようとする政治的言説。

古代ギリシア語のδημαγωγός(デマゴゴス)=「民衆(δμος / dēmos)を導く(γειν / agein)」に由来。

「流布された誤った情報」の意味でのデマは、日本に限った用法であり、本来「嘘」の意味は無い。

プロパガンダ

propaganda

特定の思想・世論・意識・行動へ誘導する意図を持った広報活動、政治活動。

ラテン語の propagare(繁殖させる、種をまく)に由来。

「嘘、歪曲、情報操作、心理操作」と同義として使われる場合もある。

陰謀論

conspiracy theory

ある出来事や現象が、利害関係者による陰謀の結果として発生するという説。特に、秘密にされているが影響力を持つ機関が、(典型的には政治的な動機と抑圧的な意図で)ある説明のつかない出来事に関与しているとする信念。

歴史的に見て、陰謀論は偏見やプロパガンダ、魔女狩り、戦争、および大量虐殺などと密接につながっている。

「陰謀論」という用語自体も陰謀論の対象となっており、陰謀論の支持者を嘲笑の的にすることで、人々から信用されないようにする陰謀論がある。


タメになるね、Wikipediaってのは。いままでバカにしてたの反省しなくっちゃ。


で、三つの語は似たようなもんだな(でもデマゴギーってのは上の定義を受け入れるなら一番リーダーポジションに近い、あるいはそう自認している人の言説なのかも)。陰謀論ーー陰謀[conspiracy]とはもともと共同謀議の義ーーの箇所の定義がとくにいいな、陰謀論の支持者を嘲笑するヤツも陰謀論者でありうるってのが。日本的デマやプロパガンダも一緒だよ。


ブチャ事件に関して「また親露派のプロパガンダだ!」とか言ってる政治学のエライセンセを最近見たが、あれこそプロパガンダを嘲笑する権威主義的ファルス信者の珍奇なプロパガンディスト(propagandist)にしか見えなかったからな。


これから反米プロパガンディストたちに対して「はい。陰謀論」とか言ってるヤツ見たら、「で、お前さんは珍謀論だろ」と返したらどうだろ? propagareの語源は「繁殖させる・種をまく」なんだからピッタンコさ。でも女の場合は合わないな・・・「陰房論」ってのドウカシラ? 噂のオープンレターのたぐいだったら「共同房事」ってのドウ?


……………



ここで古井由吉と蓮實重彦によるデマゴギーをめぐる発言・記述を付記しておこう。


デマゴギーというのは僕らにとっての宿命というくらいに僕は思ってるんです。つまりデモクラシーという社会を選んだんだ。それには付き物なんですよ。有効な発言もデマゴギーぎりぎりのところでなされるわけでしょう。


そうすると、デマゴギーか有効な発言かを見分けるのは、こっちにかかってくるんだけれど、これはなかなか難しい。つまり、だれのためかっていうことだ。マスのためだとしたらデマゴギーは有効なんですね。デマゴギーはその先のことなんて考えないからね。


それにしても、政治家もオピニオンリーダーたちも、マスイメージにたいして語るんですね。民主主義の本来だったら、パブリックなものに語らなきゃいけない。ところが日本では、パブリックという観念が発達してないでしょう。(古井由吉『西部邁発言①「文学」対論』)


人がデマゴギーと呼ぶところのものは、決してありもしない嘘出鱈目ではなく、物語への忠実さからくる本当らしさへの執着にほかならぬ〔・・・〕。人は、事実を歪曲して伝えることで他人を煽動しはしない。ほとんど本当に近い嘘を配置することで、人は多くの読者を獲得する。というのも、人が信じるものは語られた事実ではなく、本当らしい語り方にほかならぬからである。デマゴギーとは、物語への恐れを共有しあう話者と聴き手の間に成立する臆病で防禦的なコミュニケーションなのだ。ブルジョワジーと呼ばれる階級がその秩序の維持のためにもっとも必要としているのは、この種のコミュニケーションが不断に成立していることである。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』1988年)

ある証人の言葉が真実として受け入れられるには、 二つの条件が充たされていなけらばならない。 語られている事実が信じられるか否かというより以前に、まず、 その証人のあり方そのものが容認されていることが前提となる。 それに加えて、 語られている事実が、 すでにあたりに行き交っている物語の群と程よく調和しうるものかどうかが問題となろう。 いずれにせよ、 人びとによって信じられることになるのは、 言葉の意味している事実そのものではなく、 その説話論的な形態なのである。 あらかじめ存在している物語のコンテクストにどのようにおさまるかという点への配慮が、 物語の話者の留意すべきことがらなのだ。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』1988年)





「引き出し」を探ったら蓮實によるプロパガンダをめぐる発言も出てきたので、この際ついでに貼り付けておこう。



◼️『闘争のエチカ』(柄谷行人との対談集 1988)

蓮實)これは当り前のことなんだけど、僕には、伝記的な事実に基づいた十九世紀のフランス文学史が書けますよ。資料を徹底的に調べたアメリカ映画史を書けますよ。しかし、それはあえて括弧に括って作品のレクチュールをやっているのは、何もテクスト論とやらを信仰しているからではなく、映画史や文学史を書くという厄介を回避しているからでも、意味と出会うのを排しているからでもなく、そうしたいっさいをあえて括弧に括ることで始まる読みの方が絶対に困難かつ魅力的なものに思えるからです。


たとえば、四方田犬彦が、あるところで、『カサブランカ』という映画を、プロパガンダ映画だといっている。一見正しい見解に見えるけど、この種の言説が意味を持つのは、あれを本気で恋愛メロドラマだと思っている連中に対してだけであり、実は映画史的には嘘なんですよ。


あそこには、欧州の自由の戦士たちを救えといったメッセージがこめられてはいるけれど、それは当時のアメリカ政治の見解でも何でもない。むしろ、そうしたメッセージは、政府にとってみれば、出すぎた迷惑な話だったんです。『カサブランカ』を製作したワーナー・ブラザースという会社は、亡命者と共産党員の巣であって、昔から政府に目をつけられていたわけで、欧州での大戦勃発直後にアメリカの参戦をうながすような映画を撮って、愛国者たちの反撥さえかっていたのです。対独プロパガンダ映画といま思われている映画の半数は、実は、政府の参戦をうながすための映画人たちの意志表明にすぎなかった。『カサブランカ』も、そうした流れの中に位置している作品だから、政府の意向を反映したプロパガンダ映画ではない。プロパガンダというなら、ハリウッドに隠れていた左翼系知識人による政府および国民へのプロパガンダがこめられているわけです。〔・・・〕


だから、『カサブランカ』は対独プロパガンダ映画というより、反米プロパガンダ映画なんです。そして、アメリカ映画史をちょっとでも本気で勉強していれば、四方田のような視点は出てこないんですよ。それでも、映画批評家になれるんです。若手の批評家でも最初の部分に属する四方田犬彦でさえ、ハリウッド映画を基本的な知識を身につけていない。だから、括弧に括る部分が弱いんです。


括弧に括る部分というのは、いずれにしても見えてこないから、それなしでやっている人とそれを方法的に括弧に括ってやっている人との違いが見えてこない。編集者は本当はそこを感じとらねばいけないのに、その能力がない。そうすると、蓮實はあれでやっているんだから、その筋のものでも大丈夫だろうという気になってしまう。柄谷行人もあれで批評家なんだから、これで大丈夫だということになる。本当は括弧に括る部分の違いが文章に出ているはずですが、それは読まない。その意味では、編集者や批評家予備軍としての読者の方がポスト・モダン化してしまっている。われわれの姿勢が、だから、悪い意味での刺激になってしまっていると思う。(P146-148)



………………


こう引用していくとだんだん話が逸れていくが、やはり柄谷のプロパガンダもひとつだけあげておこう、かつての一般教養として。


科学的ファクトはプロパガンダである、というヤツだ。


たとえば、ポパー、クーン、ファイヤアーベントらの「科学史」にかんする事実においては、科学が事実・データからの帰納や“発見”によるのではなく、仮説にもとづく“発明”であること、科学的認識の変化は非連続的であること、それが受けいれられるか否かは好み(プレファレンス)あるいは宣伝(プロパガンダ)・説得(レトリック)によること……などという考えが前提になっている。考えてみればすぐわかることだが、このような科学史(メタ科学)的認識そのものが、その対象、たとえば量子力学やサイバネティックスにもとづいている。科学史をそのように変化させたのは、すでに現代の科学が経験・データではなく知的構成(建築)にもとづくといわざるをえない事態である。科学史あるいはもっと広く思想史において用いられる理論的枠組(たとえば構造主義)は、科学自体から導入されている。この関係はのちに説明するように自己言及的(セルフ・リファレンシャル)である。すなわち、科学史あるいは思想史は、それが対象とするものに逆に属してしまうのであって、それらはけっして外在的、あるいは“超越的”(メタ)であることができない。

二十世紀の知において生じた事態は、さまざまな個別領域における変化だけでなく、またそれらが諸関係の網目をなすということですらもなく、そのことについての知がもはやそこから超越的ではありえないことなのである。くりかえしていえば、この事態の真に奇妙な性質は、知における変化にあるのではなく、むしろ知についての知(メタ科学・メタ数学・メタ歴史学)がもはや知に対して超越的ではないこと、ホッフシュタッターのことばでいえば、strange loop(不思議な円環)が形成されてしまっていることにある。「形式化」こそがそれを不可避にするのだ。(柄谷行人「隠喩としての建築」『隠喩としての建築』所収、1983年)


言語とはもともと言語についての言語である。すなわち、言語は、たんなる差異体系(形式 体系・関係体系)なのではなく、自己言及的・自己関係的な、つまりそれ自身に対して差異的であるところの、差異体系なのだ。自己言及的(セルフリファレンシャル)な形式体系ある いは自己差異的(セルフディファレンシャル)な差異体系には、根拠がなく、中心がない。あるいはニーチェがいうように多中心(多主観)的であり、ソシュールがいうように混沌かつ過剰である。ラング(形式体系)は、自己言及性の禁止においてある。( 柄谷行人「言語・数・ 貨幣」『内省と遡行』所収、1985 年)


ここで柄谷が言っている《自己言及的(セルフ・リファレンシャル)》、あるいは《“超越的”(メタ)であることができない》とは、ラカンの「メタランゲージはない」、「大他者の大他者はない」と等価である。


メタランゲージはない il n'y a pas de métalangage

大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre,

真理についての真理はない il n'y a pas de vrai sur le vrai.


…見せかけ(仮象)はシニフィアン自体のことである Ce semblant, c'est le signifiant en lui-même ! (ラカン、S18, 13 Janvier 1971)


「大他者の大他者はない」とは言語を支えるものはないということであり、結局、「大他者は存在しない」のこと。


大他者は存在しない。それを私はS(Ⱥ)と書く[l'Autre n'existe pas, ce que j'ai écrit comme ça : S(Ⱥ).](Lacan, S24, 08 Mars 1977)


したがって「父の名は存在しない」、「言語は存在しない」である。


大他者とは父の名の効果としての言語自体である [grand A…c'est que le langage comme tel a l'effet du Nom-du-père.](J.-A. MILLER, Le Partenaire-Symptôme, 14/1/98)

ラカンは父の名を終焉させた。それは、S(Ⱥ)というマテームの下でなされた。斜線引かれた大他者のシニフィアンである[le Nom-du-Père, c'est pour y mettre fin. …sous les espèces du mathème qu'on lit grand S de A barré,  signifiant de l'Autre barré, ]〔・・・〕

これは大他者の不在、大他者は見せかけに過ぎないことを意味する[celle de l'inexistence de l'Autre. …que l'Autre n'est qu'un semblant. ](J.-A.MILLER, L'Autre qui n'existe pas, 20/11/96)


つまりは「言語は嘘」である。


言語は存在しない[le langage, ça n'existe pas. ](Lacan, S25, 15 Novembre 1977)

象徴界は言語である[Le Symbolique, c'est le langage](Lacan, S25, 10 Janvier 1978)

象徴界は厳密に嘘である[le symbolique, précisément c'est le mensonge.](J.-A. MILLER, Le Reel Dans L'expérience Psychanalytique. 2/12/98)


ラカンの「人はみな妄想する」とはこの流れのなかの言明であり、何か特別なことを言ったわけではない。


私は言いうる、ラカンはその最後の教えで、すべての象徴秩序は妄想だと言うことに近づいたと。Je dois dire que dans son dernier enseignement, Lacan est proche de dire que tout l'ordre symbolique est délire〔・・・〕

ラカンは1978年に言った、「人はみな狂っている、すなわち人はみな妄想する tout le monde est fou, c'est-à-dire, délirant」と。〔・・・〕


我々は言う、幻想的と。しかし幻想的とは妄想的のことである[ fantasmatique peut-on-dire - mais, justement, fantasmatique veut dire délirant. ](J.-A. Miller, Retour sur la psychose ordinaire;  2009)


すなわち言語は妄想である。

とはいえ、いくら反露プロパガンダと反米プロパガンダの戦いがどちらも妄想であっても、人が死ぬのはリアルである(「シンボリック=言語」/「リアル=身体」)。いま重要なのは、戦争を可能な限り早く終わらせるプロパガンダである。だが私には、戦争を長引かせるためのプロパガンダがとくに西側のメディアから数多く発信されているように見える。