ははあ、小泉悠くんはなかなかいいこと言ってるじゃないか
人@OKB1917 2022年04月01日(金) この中で富田先生のいう「危ない発言をする若手」のおそらく一人としては、自国のやった侵略戦争への罪悪感というのがある世代以上のインテリの意識をがんじがらめにしていて安全保障の話になると自動ブレーキみたいのが作動するっぽいな、という印象を持った。 |
歴史家としての富田先生の日ソ戦争研究の物凄さとかロシアに対する深い理解というのは著作やご本人の人柄を通じてよく知っているだけに、過去の侵略に対する視線の鋭さと目の前で起きている侵略へのなんかよくわかんないレスポンスとの対比が逆に際立つ |
ただ、この「自動ブレーキ」が日本社会にインストールされた経緯を忘れてはならない、という点は富田先生が指摘するとおりであるし、多分それが実際に安全装置として機能したことはあったのだと思う。問題は、このブレーキは自動なので割と変な時にも発動してしまう、という点であろう。 |
「自動ブレーキ」ってのはとってもいい表現だ、むかしの世代はそれがある人が多いんだ、たしかに。
◼️「ウクライナ戦争を1日でも早く止めるために日本政府は何をなすべきか」 ロシア史研究者有志が声明発表 専門的見地から行動提起、2022年3月29日 |
成蹊大学名誉教授の富田武氏は、「日本の今の論壇やメディアでの説明や解説に非常に危ういものを感じる。防衛省関係者が増えたり、若手研究者でも危ない発言をしている人がいる。論調のかなりを占めているのが“ロシアはひどい国家だ”というものであり、また“中国の日本に対する脅威が増し、台湾に攻め込み、その勢いで日本にも侵攻してくるのではないか”といった極端なものもある。だが、一番いいたいのは、ロシアの現在の蛮行は、日本がかつて満州事変以後に中国本土でくり広げてきたこととほとんど同じではないか。そのことの反省と自覚を抜きにして、ロシアが悪いとだけ主張する考え方に強い違和感を覚える」と思いをのべた。 |
で、「非常に危うい」小泉悠くんは自動ブレーキがまったくないので、彼の表現を使わせていただければ「変な時にも発動してしまう」自動機械なんだろうな。何がって、何よりもまずもともと軍事にとっても関心があったことから軍事評論家の職業選択したのだろうから、その意味での戦争好きの「自動機械」だろうが、それだけではない。
中毒的な自動機械性向を精神分析の世界では、固着を通した自動反復=自動機械[automatisme]と呼ぶ。
トラウマと原光景に伴った固着と退行の概念は最初の要素である。結果として、反復の過程はその原理において、物質的な、ナマで裸の様式に従う。それは同一のものの反復として理解しうる。このコンテキストにおける自動反復(自動機械automatisme)の考え方は、固着された欲動様式を表している。いやむしろ固着と退行によって条件付けられた反復の様式を。 Les concepts de fixation et de régression, et aussi de trauma, de scène originelle, expriment ce premier élément. Dès lors le processus de la répétition se conformerait en droit au modèle d'une répétition matérielle, brute et nue, comme répétition du même : l'idée d'un « automatisme » exprime ici le mode de la pulsion fixée, ou plutôt de la répétition conditionnée par la la fixation ou la régression (ドゥルーズ『差異と反復』第2章、1968年) |
この自動機械の別名が、あのニーチェ起源の無意識のエスの反復強迫だ。 |
欲動蠢動は「自動反復=自動機械」の影響の下に起こるーー私はこれを反復強迫と呼ぶのを好むーー。そして抑圧において固着する契機は「無意識のエスの反復強迫」である[Triebregung …vollzieht sich unter dem Einfluß des Automatismus – ich zöge vor zu sagen: des Wiederholungszwanges –…Das fixierende Moment an der Verdrängung ist also der Wiederholungszwang des unbewußten Es](フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年、摘要) |
現代ラカン派ではこの固着を、人がみなもつ原症状(リアルな症状)とする。 |
分析経験の基盤は厳密にフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである[fondée dans l'expérience analytique, et précisément dans ce que Freud appelait Fixierung, la fixation. ](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011) |
いまだほとんど理解されずに使われているラカンの享楽(ニーチェの「悦≒エス」)という語自体が固着でありトラウマのことなのである。 |
享楽は真に固着にある。人は常にその固着に回帰する[La jouissance, c'est vraiment à la fixation …on y revient toujours. (J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse, 20/5/2009) |
分析経験において、享楽は、何よりもまず、固着を通してやって来る[Dans l'expérience analytique, la jouissance se présente avant tout par le biais de la fixation]. 〔・・・〕分析経験において、われわれはトラウマ化された享楽を扱っている[dans l'expérience analytique. Nous avons affaire à une jouissance traumatisée]( J.-A. MILLER, L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE、2011) |
固着(身体の出来事への固着=トラウマへの固着)にはポジ面とネガ面がある。
トラウマは自己身体の出来事もしくは感覚知覚 である[Die Traumen sind entweder Erlebnisse am eigenen Körper oder Sinneswahrnehmungen]。〔・・・〕 |
トラウマの影響は両面がある。ポジ面とネガ面である[Die Wirkungen des Traumas sind von zweierlei Art, positive und negative.]。 |
ポジ面は、トラウマを再生させようとする試み、すなわち忘却された出来事の想起、よりよく言えば、トラウマを現実的なものにしようとする、トラウマを反復して何度も新たに経験しようとすることである[Die ersteren sind Bemühungen, das Trauma wieder zur Geltung zu bringen, also das vergessene Erlebnis zu erinnern, oder noch besser, es real zu machen, eine Wiederholung davon von neuem zu erleben]〔・・・〕 |
このトラウマの作用はトラウマへの固着と反復強迫として要約できる[Man faßt diese Bemühungen zusammen als Fixierung an das Trauma und als Wiederholungszwang. ] これらは、標準的自我と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向をもっており、不変の個性刻印 と呼びうる[Sie können in das sog. normale Ich aufgenommen werden und als ständige Tendenzen desselben ihm unwandelbare Charakterzüge verleihen]〔・・・〕 |
ネガ面の反応は逆の目標に従う。忘却されたトラウマは何も想起されず、何も反復されない。我々はこれを「防衛反応」として要約できる。その基本的現れは、「回避」と呼ばれるもので、「制止」と「恐怖症」に収斂しうる[Die negativen Reaktionen verfolgen das entgegengesetzte Ziel, daß von den vergessenen Traumen nichts erinnert und nichts wiederholt werden soll. Wir können sie als Abwehrreaktionen zusammenfassen. Ihr Hauptausdruck sind die sog. Vermeidungen, die sich zu Hemmungen und Phobien steigern können.] これらのネガ反応もまた、「個性刻印」に強く貢献している。ネガ反応はポジ反応と同様に「トラウマへの固着」である。それはただ「反対の傾向への固着」という相違があるだけである[Auch diese negativen Reaktionen leisten die stärksten Beiträge zur Prägung des Charakters; im Grunde sind sie ebenso Fixierungen an das Trauma wie ihre Gegner, nur sind es Fixierungen mit entgegengesetzter Tendenz].(フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939年) |
旧世代には戦争トラウマへの固着があって、ネガ面としての不変の個性刻印、戦争への防衛反応(制止と恐怖症)がある人が多いんだ。これこそまさに「自動ブレーキ」だ。
で「非常に危うい」小泉悠くんは、ポジ面としての不変の個性刻印があって「戦争自動機械」性向が赤裸々に露顕しているのだろうよ。これは人間ってのはもともとそういうものなのでそれ自体は問題ではない。いわゆる人がみなもつ「残酷の享楽[Der Genuss der Grausamkeit]であり、問題は自らのなかの「野獣」に気づいているか否かだ。
最も厳しい倫理が支配している、あの小さな、たえず危険にさらされている共同体が戦争状態にあるとき、人間にとってはいかなる享楽が最高のものであるか? [Welcher Genuss ist für Menschen im Kriegszustande jener kleinen, stets gefährdeten Gemeinde, wo die strengste Sittlichkeit waltet, der höchste?] 戦争状態ゆえに、力があふれ、復讐心が強く、敵意をもち、悪意があり、邪推深く、どんなおそろしいことも進んでし、欠乏と倫理によって鍛えられた人々にとって? 残酷の享楽[Der Genuss der Grausamkeit]である。残酷である点で工夫に富み、飽くことがないということは、この状態にあるそのような人々の徳にもまた数えられる。共同体は残酷な者の行為で元気を養って、絶え間のない不安と用心の陰鬱さを断然投げすてる。残酷は人類の最も古い祭りの一つである[Die Grausamkeit gehört zur ältesten Festfreude der Menschheit].〔・・・〕 |
「世界史」に先行している、あの広大な「風習の倫理」の時期に、現在われわれが同感することをほとんど不可能にする……この主要歴史においては、痛みは徳として、残酷は徳として、偽装は徳として、復讐は徳として、理性の否定は徳として、これと反対に、満足は危険として、知識欲は危険として、平和は危険として、同情は危険として、同情されることは侮辱として、仕事は侮辱として、狂気は神性として、変化は非倫理的で破滅をはらんだものとして、通用していた! ――諸君はお考えになるか、これらすべてのものは変わった、人類はその故にその性格を取りかえたに違いないと? おお、人間通の諸君よ、互いをもっとよくお知りなさい![Oh, ihr Menschenkenner, lernt euch besser kennen! ](ニーチェ『曙光』18番、1881年) |
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われわれが「高次の文化」と呼ぶほとんどすべてのものは、残酷さの精神化の上に成り立っているーーこれが私のテーゼである。あの「野獣」が殺害されたということはまったくない。まだ、生きておりその盛りにある、それどころかひたすら――神聖なものになっている。Fast Alles, was wir "hoehere Cultur" nennen, beruht auf der Vergeistigung und Vertiefung der Grausamkeit - dies ist mein Satz; jenes "wilde Thier" ist gar nicht abgetoedtet worden, es lebt, es blueht, es hat sich nur -vergoettlicht. (ニーチェ『善悪の彼岸』229番、1886年) |
小泉悠くんはなかなか他者の心理分析も巧みだが、今度は「変な時にも発動してしまう」自らの「戦争自動機械」性向を分析してみたらどうだろうね。表面を取り繕うのも程よく巧みだから、ある程度のメタ心理訓練を受けていないふつうの人には彼の「野獣」性向が見えないかもしれないが、心理文学読みでさえーー例えばドストエフスキーやプルースト読みーー、彼のブレーキなき戦争機械はよくみえる筈だよ。《おお、人間通の諸君よ、互いをもっとよくお知りなさい![Oh, ihr Menschenkenner, lernt euch besser kennen! ]》(ニーチェ『曙光』18番、1881年)。
もちろんこれは自我レベルの話ではなくエスレベル話であり、自我はエスの破壊欲動(破壊の悦)を通常抑圧しているのだが、人には常にエスの残滓がある。
この残滓、この破壊の悦としての戦争機械の別名が力への意志だ。米ネオコン文化にことさら明らかな暴動への意志。
力への意志、すなわち欲動の飼い馴らされていない暴力[Willen zur Macht…der unbändigen Gewalt dieses Triebs](ニーチェ「私が古人に負うところのもの Was ich den Alten verdanke」1888年、摘要) |
自我に飼い馴らされていない荒々しい欲動蠢動を満足させたことから生まれる幸福感は、家畜化された欲動を満たした場合とは比較にならぬほど強烈である[Das Glücksgefühl bei Befriedigung einer wilden, vom Ich ungebändigten Triebregung ist unvergleichlich intensiver als das bei Sättigung eines gezähmten Triebes. ](フロイト『文化のなかの居心地の悪さ』第2章、1930年、摘要) |
欲動蠢動 Triebregung、この蠢動は、刺激、無秩序への呼びかけ、いやさらに暴動への呼びかけである[ « Triebregung »… la Regung est stimulation, l'appel au désordre, voire à l'émeute.](Lacan, S10, 14 Novembre 1962) |
ま、世代だけじゃなく育った家庭環境のなんらかの影響もあるのだろうけどさ、基本的にはこういうことだよ、ーー《戦争を知る者が引退するか世を去った時に次の戦争が始まる例が少なくない。》(中井久夫「戦争と平和ある観察」)