2022年4月28日木曜日

嘴の黄色い未熟者/全世界を異郷と思う者

 愛国心か、いいねえ、そこに留まりうる精神には羨望するよ。前にも言ったが、ボクは社会の毛穴のなかのユダヤ人だからな、《ポーランド社会の毛穴の中のユダヤ人[Juden in den Poren der polnischen Gesellschaft]》(マルクス『資本論』)


故郷を甘美に思うものはまだ嘴の黄色い未熟者である。あらゆる場所を故郷と感じられる者は、すでにかなりの力をたくわえた者である。だが、全世界を異郷と思う者こそ、完璧な人間である。(サン=ヴィクトルのフーゴー『ディダスカリコン(学習論)』第3巻第19章)


こういう言葉があります。 《故郷を甘美に思うものは、まだくちばしの黄色い未熟者である。あらゆる場所を故郷と感じられるものは、既にかなりの力を蓄えた者である。全世界を異郷と思うものこそ、完璧な人間である。》


これは、サイードが『オリエンタリズム』においてアウエルバッハから孫引きした、一二世紀ドイツのスコラ哲学者聖ヴィクトル・フーゴーの『ディダシカリオン』の一節です。 


これはとても印象的な言葉で、トドロフも『他者の記号学』の中でサイードから再引用しています。僕なんかが漠然と考えていたことを言い当てている、という感じがするんですね。


その言葉は、思考の三段階ではないとしても、三つのタイプを表していると思います。まず最初の「故郷を甘美に思う」とは、いわば共同体の思考ですね。アリストテレスがそうですが、このタイプの思考は、組織された有限な内部(コスモス)と組織されない無限定な外部(カオス)という二分割にもとづいているわけです。もちろん、このタイプの思考は、なにもアリストテレスにかぎらない。今の文化記号論でもみんな内部と外部の分割がまずあって、その境界線を越える、というような問題として語られているわけですね。しかし、そういう意味での共同体の外部というものは、むしろ「異界」と呼ぶべきだと思うんです。また、外にいるものを「他者」ではなく、「異者」(ストレンジャー)と呼ぶべきだと思うんですよ。僕のいう「外部」とか「他者」とかは、このレベルでは存在しないのです。それは、この種の内部と外部の分割がありえな いような“空間”においてのみ現れるからであり、逆に、それはそのように閉じられたシステム(外部を含む)をディコンストラクトするものだからです。


次の「あらゆる場所を故郷と感じられるもの」とは、いわばコスモポリタンですが、それはあたかもわれわれが、共同体=身体の制約を飛び超えられるかのように考えることですね。あるいは、共同体を超えた普遍的な理性なり真理なりがある、と考えることです。デカルトは、それがあるかどうか、あるとすればいかにして可能なのか、ということを考えた人ですね。いわゆるデカルト主義になってしまうと、それがあることが当然になってしまう。つまり、自然科学があらゆる共同体を超えた真理である、ということになるわけです。もちろんこのことは、科学哲学の領域では、徹底的に吟味されていますけれども・・・・・・。


ふつう科学哲学の人たちは、デカルトのことを悪役に仕立てるんですね。しかし、僕は去年『GS』にデカルトの『方法序説』に関する注釈を一部書いてみたけれども、デカルトに対する批判はほとんどが見当違いだと思います。デカルトは、現代の科学哲学の持っている問題を、パラドックスまで含めてすべて提出しています。そして、まさにそういうデカルトからのみスピノザが出てこられるのです。あるものを悪役に仕立てるのは、見えすいたレトリックであり、哲学の「歴史」(出来事)をもう一つの「物語」に変えるものです。デカルトを、われわれはスピノザ的に読むべきなのです。


第三の「全世界を異郷と思うもの」というのが、いわばデカルト=スピノザなのです。むろん、ある意味でデカルトは第一、第二のタイプでもあるわけです。スピノザは、そういう意味で「完璧な人間」ですね。この第三の態度というのは、あらゆる共同体の自明性を認めない、ということです。しかし、それは、共同体を超えるわけではない。そうではなく、その自明性につねに違和感を持ち、それを絶えずディコンストラクトしようとするタイプです。それは、第一のタイプが持つような内と外との分割というものを、徹底的に無効化してしまうタイプであり、しかもそれは、第二のタイプで普遍的なものというのとも、また違うわけです。


内と外との区別のない空間というのは-僕はそれを「社会的」な交通空間と呼びたいのですが-いいかえれば、それ以上の外がないという意味で、いわば「無限」の空間なんです。ふつう内部と外部というのは、有限と無限定との区別であるわけですが、その区別を無効にしてしまうような無限性、それがスピノザのいう「無限」だと思います。(柄谷行人「スピノザの「無限」」『言葉と悲劇』所収、1989年)





僕は、生産は、「共同体的」であり、交通は「社会的」であると考えています。共同体とは、共通のコードをもった閉じられたシステムであり、社会とは、共通のコードをもたない他者との交通において成立するような空間です。これを僕は「交通空間」とよんでいますけれど、これはどこかに実体的に在るものではなく、絶えず結合され分断されながら無方向に広がるようなネットワークのようなものです。(柄谷行人『闘争のエチカ』1988年)


誤解をさけるために捕捉しておきたいことがある。第一に、「共同体」というとき、村とか国家とかいったものだけを表象してはならないということである。規則が共有されているならば、それは共同体である。したがって、自己対話つまり意識も共同体と見なすことができる。共同体の外と間という場合、それを実際の空間のイメージで理解してはならない。それは体系の差異としてのみあるような「場所」である。(柄谷行人『探求Ⅱ』1989年)






(『方法序説』のデカルトにとって)外国人の習慣や信念は、彼に滑稽で奇矯に見えた。だがそれは、彼が自問するまでだ、我々の習慣や信念も、彼らに同じように見えるのではないか、と。この反転の成り行きは、文化相対主義に一般化され得ない。そこで言われていることは、もっと根源的なことで注意を惹起する。すなわち、我々は自らを奇矯だと経験することを学ばなければならない。我々の習慣はひどく風変わりで、根拠のないものだ、ということを。〔・・・〕


文化固有の「生活様式」とは、ただたんに、一連の抽象的なーーキリスト教、イスラム教ーーの「価値」で構成されているのではない。そうではなく、日常の振る舞いのぶ厚いネットワークのなかに具現化されている。いかに飲食し、いかに歌ったり愛を交わしたりするのか。いかに権威とかかわるのか。我々「それ自身」が生活様式なのだ。それは、我々の第二の特性である。この理由で、直接的「教育」では、それを変えることはできない。何かはるかにラディカルなことが必要なのだ。ブレヒトの「異化」のようなもの、深い実存的経験、我々の慣習や儀式が何と馬鹿げて無意味であり根拠のないものであるかということに、唐突に衝撃を受けるような。〔・・・〕


大切なことは、異邦人のなかに我々自身を認知することではない。我々自身のなかに異邦人を認めることだ。人はみな、各人それぞれの仕方で、風変わりな変人だと認めること。異なった生活様式の寛容な共存にとっての唯一の希望を与えてくれるものはここにしかない。

The point is thus not to recognise ourselves in strangers, but to recognise a stranger in ourselves ….The recognition that we are all, each in our own way, weird lunatics, provides the only hope for a tolerable co-existence of different ways of life.(ジジェク, What our fear of refugees says about Europe, 29 FEBRUARY 2016


………………



共同体(同一化)の成立と同時に、システム の内部と外部の分割が生じ、境界が生じる。それ以前の交通空間、つまり内も外もないような空間は、このとき、「外部」、いいかえれば、諸共同体の「間」にあるとみなされる。しかし、いかなる共同体も、実際には、完全に自閉的ではありえない。ミシェル・セールの比喩を借りていえば、共同体(固体)は、いわば液体のなかに浮かんでおり、液体に浸透されている。共同体において"抑圧されたもの"は、いわば内と外の区別がないような空間(液体)である。したがって、「抑圧されたものの回帰」は、共同体にとっては、必ず「外部」から、且つ「外部」への強迫としてやってくる。


モーゼにおいても、イエスにおいても、あるいはその他の世界宗教においても、喚起されているのは、このような外部性であり、そしてそれは共同体を脱構築する力として働いている。もちろんそれはただちに共同体の内部に回収(同一化)されて、物語となるのだが。


マルクスが、社会的関係が貨幣形態によって隠蔽されるというのは、社会的な、すなわち無根拠であり非対称的な交換関係が、対称的であり且つ合理的な根拠をもつかのようにみなされることを意味している。物象化とは、このことを意味する。(柄谷行人『マルクス その可能性の中心』1978年)