2022年4月27日水曜日

哲学者・芸術家に必要不可欠な価値形態論

 マルクスには、経済的下部構造ーーリアルな土台[die reale Basis]ーーが、社会的・政治的上部構造を規定すると要約しうる名高い文がある。


人間の物質的生産諸力の一定の発展段階に対応する生産諸関係の総体が、社会の経済的構造[die ökonomische Struktur der Gesellschaft]を形成する。これがリアルな土台[die reale Basis]であり、その上に一つの法的政治的上部構造[juristischer und politischer Überbau]がそびえたち、この土台に一定の社会的意識諸形態 [bestimmte gesellschaftliche Bewußtseinsformen]が対応する。


物質的生活の生産様式が、社会的・政治的および心的な生活過程一般の条件を与える[Die Produktionsweise des materiellen Lebens bedingt den sozialen, politischen und geistigen Lebensprozeß überhaupt]。

人間の意識が彼らの存在を規定するのではなく、逆に彼らの社会的存在が彼らの意識を規定するのである[Es ist nicht das Bewußtsein der Menschen, das ihr Sein, sondern umgekehrt ihr gesellschaftliches Sein, das ihr Bewußtsein bestimmt. ](マルクス『経済学批判』「序言」1859年)


これをボロメオの環におけば次のようになる。



このマルクスを受け入れるなら、経済のことが分かっていない政治学者や社会学者はゼロだということになるな。ま、実際のところ、連中は木瓜の花だよ。


連中を馬鹿にしまくっている柄谷やジジェクのボロメオの環はこのマルクスのヴァリエーションに他ならない(参照)。





ところでーー政治学者や社会学者が木瓜の花なのはやむ得ないとしてーー哲学者や芸術家(文学者・批評家も含む)はどこに置けるんだろ? 


おおむね社会的イデオロギーのポジションだよ。


実際に、文学や芸術の現場では、その[趣味判断の普遍性を主張し合っての]争いが日常的に行われています。あれはいい、よくない、という喧嘩をいつもしているわけです。(柄谷行人『倫理21』2003年)



巷のマルクス主義者たちーー最近、ドイツで勉強してきてジジェクに褒められて舞い上がっているマヌケがいるが、彼はマルクスの資本論冒頭の価値形態論を

オベンキョウし直したほうがいいーー、このたぐいのキャベツ頭の日本的マルキストたちもせいぜい社会的イデオロギーのポジションにしかいない。


ま、こういった連中は笑ってやり過ごすとしても、哲学者や芸術家を仮に救うなら、アソシエーションのポジション目指さないとな。




でもそのためにはマルクスが必要不可欠だぜ、マルクスと言っても「価値形態Wertform

」論に集中したらよい。とはいえ、20〜30年思考したってわかってないヤツがほとんどだけど。それぐらい難解だから、大半のマルキストはすっ飛ばしてしまう。


フロイトとラカンの助けを借りたら近道なんだが。



サモ・トムシッチの達成が説き明かすことは、我々が世界資本主義の全体像と対決するための理論的枠組みを提供しようとするなら、精神分析への準拠が不可欠だと言うことだ。

いまいまマルキシストであるためには、人はラカンを通さねばならない![To be a Marxist today, one has to go through Lacan!](ジジェク書評ーーサモ・トムシッチ『資本家の無意識:マルクスとラカン』The Capitalist Unconscious  Marx and Lacan by Samo Tomšič, 2015)

『資本家の無意識』は、為すのがひどく難しいシンプルな仕事をしている。それはマルクスの読者としてのラカンを正面から取り上げることである。これまでしばしば為されてきたフロイトとマルクスを統合しようとする試みのあらゆる混乱と失敗に反して、トムシッチは主張している、我々は無意識の構造と資本主義の構造を共に思考しなければならないと。[we must think the structure of the unconscious and the structure of capitalism together](Benjamin Noys書評)


二人は、このサモ・トムシックの書を絶賛しているとはいえ、完璧ではない。だが価値形態論把握のための手始めにはきわめて優れているのは間違いない。


注意しなければならないのは単なる気合い系でマチガイだらけの『ラカニアンレフト』の類いの書は決して読んではならないことだ。



ドゥルーズはこう言って死んでいった。


マルクスは間違っていたなどという主張を耳にする時、私には人が何を言いたいのか理解できません。マルクスは終わったなどと聞く時はなおさらです。現在急を要する仕事は、世界市場とは何なのか、その変化は何なのかを分析することです。そのためにはマルクスにもう一度立ち返らなければなりません。〔・・・〕


次の著作は『マルクスの偉大さ La grandeur de Marx』というタイトルになるでしょう。それが最後の本です。(ドゥルーズ「思い出すこと」インタビュー1993年)



簡単にいえば、マルクスの核心はコミュニケーション理論である。



広い意味で、交換(コミュニケーション)でない行為は存在しない。〔・・・〕その意味では、すべての人間の行為を「経済的なもの」として考えることができる。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001年)





人間社会において自己が自己であることの困難と、資本主義社会において貨幣が貨幣であることの困難とのあいだには、すくなくとも形式的には厳密な対応関係が存在している(岩井克人『貨幣論』1993年)


参照:剰余価値-資本の欲動をめぐって



上の左側の図は岩井克人の発言をベースに図式化したのであのように置いたが、より厳密には次のようになる。


マルクス

一商品の価値は他の商品の使用価値で表示される[der Wert einer Ware im Gebrauchswert der andren. ](マルクス『資本論』第一篇第三節「相対的価値形態Die relative Wertform」)

ラカン

一つのシニフィアン(S1)は他のシニフィアン(S2)に対して主体($)を表象する[ un signifiant représente un sujet pour un autre signifiant ](ラカン「主体の転覆」E819, 1960年)


マルクス

どんな商品も等価物としての自分自身に関連することはできず、したがってまたそれ自身の自然的外皮をそれ自身の価値の表現にすることはできないから、どんな商品も等価物としての他の商品に関連せざるをえない[Da keine Ware sich auf sich selbst als Äquivalent beziehn, also auch nicht ihre eigne Naturalhaut zum Ausdruck ihres eignen Werts machen kann, muß sie sich auf andre Ware als Äquivalent beziehn ](マルクス第一篇第一章第三節「等価形態 Die Äquivalentform」)

ラカン

すべてのシニフィアンの性質はそれ自身をシニフィアン(表象)することができないことである[ il est de la nature de tout et d'aucun signifiant de ne pouvoir en aucun cas se signifier lui-même.](ラカン、S1416 Novembre 1966)

シニフィアンは、それが言語の部分であるという限りで、他の記号と関連する一つの記号である。言い換えれば、二つ組で己れに対立する[le signifiant, en tant qu'il fait partie du langage, c'est un signe qui renvoie à un autre signe, en d'autres termes :  pour s'opposer à lui dans un couple (ラカン, S3, 14 Mars 1956



上の文に、剰余享楽(a)つまり剰余価値を含めた図が、ラカンの言説理論の次の図である。




より厳密に置き直せば、次のようになる(参照: マルクスの商品語=ラカンの人間語)。




症状概念。注意すべき歴史的に重要なことは、フロイトによってもたらされた精神分析の導入の斬新さにあるのではないことだ。症状概念は、私は何度か繰り返し示してきたが、マルクスを読むことによって、とても容易くその所在を突き止めるうる。la notion de symptôme. Il est important historiquement de s'apercevoir que ce n'est pas là que réside la nouveauté de l'introduction à la psychanalyse réalisée par FREUD : la notion de symptôme, comme je l'ai plusieurs fois indiqué, et comme il est très facile de le repérer, à la lecture de celui qui en est responsable, à savoir de MARX.(Laca,.S.18,16 Juin 1971)




重要なのは日本でなら柄谷を読むことだ。


例えばサモ・トムシッチの次の文ーー、


言語は単一義的ではなく多義的であり、関係ではなく非関係という範例的事例である。…言語システムと経済システムは開かれた集合を形成する。結果としてメタランゲージ(大他者の大他者)の非存在と大他者の非存在は同一である。(サモ・トムシッチSamo Tomšič 『資本家の無意識 The Capitalist Unconscious』2015年)


これは柄谷が既に1985年に書いていることと「厳密に」等価である。


言語とはもともと言語についての言語である。すなわち、言語は、たんなる差異体系(形式 体系・関係体系)なのではなく、自己言及的・自己関係的な、つまりそれ自身に対して差異的であるところの、差異体系なのだ。自己言及的(セルフリファレンシャル)な形式体系あるいは自己差異的(セルフディファレンシャル)な差異体系には、根拠がなく、中心がない。あ るいはニーチェがいうように多中心(多主観)的であり、ソシュールがいうように混沌かつ過剰である。ラング(形式体系)は、自己言及性の禁止においてある。( 柄谷行人「言語・数・ 貨幣」『内省と遡行』所収、1985 年)




そしてこの柄谷は次のラカンと「厳密に」同じことを言っている。


メタランゲージはない il n'y a pas de métalangage

大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre,

真理についての真理はない il n'y a pas de vrai sur le vrai.

〔・・・〕

見せかけはシニフィアン自体のことである [Ce semblant, c'est le signifiant en lui-même ! ](Lacan, S18, 13 Janvier 1971)


この見せかけが社会的結びつきーー交換(コミュニケーション)ーーという症状である。


社会的症状は一つあるだけである。すなわち各個人は実際上、皆プロレタリアである。つまり個人レベルでは、誰もが「社会的結びつき lien social を築く言説」、換言すれば「見せかけ semblant」をもっていない。これが、マルクスがたぐい稀なる仕方で没頭したことである。

Y'a qu'un seul symptôme social : chaque individu est réellement un prolétaire, c'est-à-dire n'a nul discours de quoi faire lien social, autrement dit semblant. C'est à quoi MARX a paré, a paré d'une façon incroyable.(LACAN, La troisième 1-11-1974 )


ーー《社会的結びつきは症状である[le lien social, c’est le symptôme]》 (J.-A. Miller, Los inclasificables de la clínica psicoanalítica, 1999)


マルクスは精神分析の始祖である。マルクスは人間のあらゆる症状分析の始祖なのである。もちろんその向こうにカントがいるという柄谷が『トランスクリティーク』で提示した立場がないではない。




柄谷は資本を「資本の欲動」と言ったが、フロイトのエス、ラカンのモノ=享楽ももちろん欲動(欲動の身体)である。

…………………


現在のウクライナロシア戦争も、覇権主義、民主主義、帝国主義のコミュニケーションである。



ウクライナの民主主義(ときに愛国主義、ときに民族主義、ときにネオファシズム)に対するロシアの覇権的軍事侵略の背後には、米ネオコンの帝国主義(新自由主義・市場原理主義・世界資本主義)があることを見なければ何も見たことにならない。


宇国の民主主義をイマジネールだとするのがシツレイならシンボリックに格上げして次のように置いてもよろしい。



こうすれば宇露戦争の真理Véritéが何なのか、誰にでもお分かりになることだろう。「代理戦争」などという凡庸な表現を使いたくない方は、この「宇露戦争症状図」をじっくり消化されたらよろしい。