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2022年4月12日火曜日

愚かさは進歩する!(フローベール)

 この1ヶ月半ほどいわゆる国際政治学者と呼ばれる10人弱の人のツイートをそれなりに熱心に観察したのだが、もはや飽きた。バカにするのもバカらしい。だがあの連中が日本の世論を作っていると思うと絶望的になる。

何が問題なのか。結局、彼らもツイッター大衆文化にどっぷり浸かっている。もはや学者とは言い得ず、「芸能人」に過ぎない。

前回も引用したが、彼らのなかには次のようなことの片鱗さえ言える人物がひとりもいないのである。

令和4年度東京大学学部入学式 祝辞 映画作家 河瀨直美

例えば「ロシア」という国を悪者にすることは簡単である。けれどもその国の正義がウクライナの正義とぶつかり合っているのだとしたら、それを止めるにはどうすればいいのか。なぜこのようなことが起こってしまっているのか。一方的な側からの意見に左右されてものの本質を見誤ってはいないだろうか?誤解を恐れずに言うと「悪」を存在させることで、私は安心していないだろうか? 



「悪を存在させて私は正義として振る舞う。すると私の悪は隠蔽できる」。これを誰が・どの国がやっているかは言わずもがなだろう。善は悪の仮面である。これはニーチェの、フロイトラカンのテーゼである。



性欲動の発展としての同情と人類愛。復讐欲動の発展としての正義[Mitleid und Liebe zur Menschheit als Entwicklung des Geschlechtstriebes. Gerechtigkeit als Entwicklung des Rachetriebes. ](ニーチェ「力への意志」遺稿、 Frühjahr 1887)


………………

以下、フローベールにかかわる蓮實重彦とクンデラの文を列挙する。ここにあの学者連中の症状の記述がある。


同じ主題をめぐり、同じ言葉を語りうることを前提として群れ集まるものたちのみが群衆というやつなのだ。彼らが沈黙していようと、この前提が共有されているかぎり、それは群衆である。(蓮實重彦『物語批判序説』1985年)d


大衆化現象は、まさに、…階層的な秩序から文化を解放したのである。そしてそのとき流通するのは、記号そのものではなく、記号の記号でしかない。…読まれる以前にすでに記号の記号として交換されているのである。〔・・・〕


問題は、欠落を埋める記号を受けとめ、その中継点となることなのではなく、もはや特定の個人が起源であるとは断定しがたい知を共有しつつあることが求められているのである。新たな何かを知るのではなく、知られている何かのイメージと戯れること、それが大衆化現象を支えている意志にほかならない。それは、知っていることの確認がもたらまがりなす安心感の連帯と呼ぶべきものだ……。そこにおいて、まがりなりにも芸術的とみなされる記号は、読まれ、聴かれ、見られる対象としてあるのではない、ともにその名を目にしてうなずきあえる記号であれば充分なのである。だから、それを解読の対象なのだと思ってはならない。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』1988年)


この『凡庸な芸術家の肖像』は「凡庸な知識人の肖像」でもあり、上に《まがりなりにも芸術的とみなされる記号》とある「芸術的」は「知識的」と読み換えうる。

すなわち、《まがりなりにも知識的とみなされる記号は、読まれ、聴かれ、見られる対象としてあるのではない、ともにその名を目にしてうなずきあえる記号であれば充分なのである》ーーこれが大衆化現象における「記号の記号」の交換であり、この21世紀にはSNSにてそれが極まっている。


この意味は何よりもまず「進歩とともに愚かさもまた進歩する!」である。


フローベールの愚かさに対する見方のなかでもっともショッキングでもあれば、またもっとも絶句せざるをえないことは、愚かさは、科学、技術、進歩、近代性を前にしても消え去ることはないということであり、それどころか、進歩とともに、愚かさもまた進歩する! ということです。〔・・・〕


フローベールは、自分のまわりの人々が知ったかぶりを気取るために口にするさまざまの紋切り型の常套語を、底意地の悪い情熱を傾けて集めています。それをもとに、彼はあの有名な『紋切型辞典』を作ったのでした。この辞典の表題を使って、次のようにいっておきましょう。すなわち、現代の愚かさは無知を意味するのではなく、先入見の無思想を意味するのだと。フローベールの発見は、世界の未来にとってはマルクスやフロイトの革命的な思想よりも重要です。といいますのも、階級闘争のない未来、あるいは精神分析のない未来を想像することはできるとしても、さまざまの先入見のとどめがたい増大ぬきに未来を想像することはできないからです。これらの先入見はコンピューターに入力され、マスメディアに流布されて、やがてひとつの力となる危険がありますし、この力によってあらゆる独創的で個人的な思想が粉砕され、かくて近代ヨーロッパの文化の本質そのものが息の根をとめられてしまうことになるでしょう。(クンデラ「エルサレム講演」『小説の精神』所収)




フローベールの「紋切型辞典」に触れている蓮實重彦の文をここではひとつだけ掲げる。


あらゆる項目がそうだとは断言しえないが、『紋切型辞典』に採用されたかなりの単語についてみると、それが思わず誰かの口から洩れてしまったのは、それがたんに流行語であったからではなく、思考さるべき切実な課題をかたちづくるものだという暗黙の申し合わせが広く行きわたっていたからである。その単語をそっと会話にまぎれこませることで一群の他者たちとの差異がきわだち、洒落ているだの気が利いているだのといった印象を与えるからではなく、それについて語ることが時代を真摯に生きようとする者の義務であるかのような前提が共有されているから、ほとんど機械的に、その言葉を口にしてしまうのだ。そこには、もはやいかなる特権化も相互排除も認められず、誰もが平等に論ずべき問題だけが、人びとの説話論的な欲望を惹きつけている。問題となった語彙に下された定義が肯定的なものであれ否定的なものであれ、それを論じることは人類にとって望ましいことだという考えが希薄に連帯されているのである。(蓮實重彦『物語批判序説』1985年)


ーー国際政治学者であるなら、「それについて語ることが時代を真摯に生きようとする者の義務であるかのような前提が共有されている」言葉は、「国際秩序」、「民主主義」等々の「シニフィアン」であるだろう。冷戦終了後の新自由主義の時代、彼らはこの各々の語の背後に「帝国主義」、「ファシズム」があることを毛ほども思い浮かべる気配がない・・・





いかに多くの血と戦慄があらゆる「善事」の土台になっていることか!…[wieviel Blut und Grausen ist auf dem Grunde aller »guten Dinge«!... ](ニーチェ『道徳の系譜』第二篇第三節、1887年)

われわれが「高次の文化」と呼ぶほとんどすべてのものは、残酷さの精神化の上に成り立っているーーこれが私のテーゼである。あの「野獣」が殺害されたということはまったくない。まだ、生きておりその盛りにある、それどころかひたすら――神聖なものになっている「Fast Alles, was wir "hoehere Cultur" nennen, beruht auf der Vergeistigung und Vertiefung der Grausamkeit - dies ist mein Satz; jenes "wilde Thier" ist gar nicht abgetoedtet worden, es lebt, es blueht, es hat sich nur -vergoettlicht.」 (ニーチェ『善悪の彼岸』229番、1886年)




さて上の蓮實やクンデラの意味するところを穏やかに言い換えた仕方のひとつが、2018年に浅田彰の言っていることである。


ネット社会の問題⋯⋯⋯。横のつながりが容易になったが、SNS上で「いいね!」数を稼ぐことが重要になった。人気や売り上げだけを価値とする資本主義の論理に重なります。他方、一部エリートにしか評価されない突出した作品や、大衆のクレームを招きかねないラディカルな批評は片隅に追いやられる。仲良しのコミュニケーションが重視され、自分と合わない人はすぐに排除するんですね。 (「逃走論」、ネット社会でも有効か 浅田彰さんに聞く、2018年1月7日朝日新聞)



もういくらか辛辣に、そして視点を大局的にすれば次のようになる。


蓮實重彦)なぜ書くのか。私はブランショのように、「死ぬために書く」などとは言えませんが、少なくとも発信しないために書いてきました。 マネやセザンヌは何かを描いたのではなく、描くことで絵画的な表象の限界をきわだたせた。フローベールやマラルメも何かを書いたのではなく、書くことで言語的表象の限界をきわだたせた。つまり、彼らは表象の不可能性を描き、書いたのですが、それは彼らが相対的に「聡明」だったからではなく、「愚鈍」だったからこそできたのです。私は彼らの後継者を自認するほど自惚れてはいませんが、この動物的な「愚鈍さ」の側に立つことで、何か書けばその意味が伝わるという、言語の表象=代行性(リプレゼンテーション)に対する軽薄な盲信には逆らいたい。


浅田)…僕はレスポンスを求めないために書くという言い方をしたいと思います。東浩紀さんや彼の世代は、そうは言ったって、批評というものが自分のエリアを狭めていくようでは仕方がないので、より広い人たちからのレスポンスを受けられるように書かなければいけないと主張する。… しかし、僕はそんなレスポンスなんてものは下らないと思う。


蓮實)下らない。それは批評の死を意味します。


(「対談「空白の時代」以後の二〇年」蓮實重彦+浅田彰、中央公論 2010年1 月号)



ーーこれは標準的な学者には過去から望むべきもない話ではあり、とはいえ批評家自体もこの市場原理の時代には「批評の死」が訪れているという話である。もちろん「芸術の死」も。


これらはすべてフローベールの後継者たち、あるいは少なくとも彼の耳垢でも煎じて飲みたいと思っている人たちの言葉である。



芸術家はその作品の中で、神が自然における以上に現れてはならぬと思っています。人間とは何物でもない、作品がすべてなのです。この訓練は、ことによると間違った見地から出発しているのかもしれませんが、それを守るのは容易ではないのです。しかし少なくとも私にとって、これはみずから好んでなした絶え間のない犠牲でした。私だって自分の思ったことを言い、文章によってギュスタフ・フロオベル氏を救ったらずいぶんいい気持ちでしょう。だがこの先生にいったい何の価値があるのでしょう。(フローベール『ジョルジョ・サンドへの書簡』中村光夫訳)