2022年5月1日日曜日

日本文化はケッタイな日本語によって作られている

 日本語がヘンな言語だとはむかしから言われてきた。そして日本文化はこのケッタイな日本語によって作られている、少なくとも構造化されていると。

まず漢字の使用による言葉における「音調の軽視-意味の過重」がある。

我々の国語は、漢字の伝来の為に、どれだけ言語の怠惰性能を逞しうしてゐたか知れない程で、決して順当の発達を遂げて来たものではないのである。(折口信夫「古語復活論」)

何と言つても、語が目の支配を受けて、口を閑却すると言ふ事は、正しい事ではありません。(折口信夫「新しい国語教育の方角」)


記銘における兆候性あるいはパラタクシス性は、言語化によって整序されているとはいえ、その底に存在し続けている。それは日本語の会話において音声言語の裏に常に漢字表象が張りついているという高島俊男の指摘に相似的である。想起においても兆候性あるいはパラタクシス性は、影が形に添うごとく付きまとって離れない。(中井久夫「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』)


次に一人称の問題。


一人称の問題があると。それは当然二人称、三人称との関連になります。そうすると、歴史の問題じゃないかと思うわけね。その言語圏がどういう闘争を経てきたかという、それによるんじゃないかしら。

日本の中世近世からずっと見ると、それほど強い内部的な抗争は経てないというふうに思える。とにかく自他の区別をはっきりしないと、どうつけこまれるかわかりゃしないっていうような、そういうことが少なかったんでしょうね。その中で文章が丸く完成していって、近代に入ってからも、どっちかっていうと集団でふるまうでしょ。だからひょっとして「私」っていう立場が歴史的に薄いんじゃないか。〔・・・〕

これからどうするんだろうね。僕なんかもう残りの年が少ないから、もういいやと思っているけど、若い人はどうするんだろう。主語をはっきりさせて日本語が成り立つかどうかの問題があるんですよね。


社会生活の中で「私」っていうのは、自分は何者かということでしょ? 個人のことでもなくてね、その親の代から祖父の代から何者であるかっていうことのはずなんですよ。

で、文学はそれだけだったら駄目なはずですよね。そこで「私」に関するフィクションが出てくるんだと思うんです。ただ、フィクションと現実との間にどういう緊張があるかということではありませんか。「私」とは険しいものでね。(古井由吉「文芸思潮」2010初夏)



この古井由吉の話は「日本語は敬語」だという形で語られてきた。



実は私、日本語全体がこういう意味で敬語だと思うのです。〔・・・〕

何か日本語でひとこと言った場合に、必ずその中には自分と相手とが同時に意識されている。と同時に自分も相手によって同じように意識されている。だから「私」と言った場合に、あくまで特定の「私」が話しかけている相手にとっての相手の「あなた」になっている。〔・・・〕私も実はあなたのあなたになって、ふたりとも「あなた」になってしまうわけです。これを私は日本語の二人称的性格と言います。ですから、私は日本語には根本的には一人称も三人称もないと思うんです。(森有正『経験と思想』1977年)


日本語は、つねに語尾において、話し手と聞き手の「関係」を指示せずにおかないからであり、またそれによって「主語」がなくても誰のことをさすかを理解することができる。それはたんなる語としての敬語の問題ではない。時枝誠記が言うように、日本語は本質的に「敬語的」なのである。(柄谷行人「内面の発見」『日本近代文学の起源』1980年)



次も敬語という語は現れないが同様である。


「私」が発言する時、その「私」は「汝」にとっての「汝」であるという建て前から発言しているのである。日本人は相手のことを気にしながら発言するという時、それは単に心理的なものである以上、人間関係そのもの、言語構成そのものがそういう構造をもっているのである。(森有正『経験と思想』1977年)


いまさらながら、日本語の文章が相手の受け取り方を絶えず気にしていることに気づく。日本語の対話性と、それは相照らしあう。むろん、聴き手、読み手もそうであることを求めるから、日本語がそうなっていったのである。これは文を越えて、一般に発想から行動に至るまでの特徴である。文化だといってもよいだろう。(中井久夫「日本語の対話性」2002年『時のしずく』所収)



これとほとんど同じことは、ラカンがロラン・バルトの日本文化論ーー時枝の風呂敷に触れつつの(参照)ーーに刺激されて日本旅行をした直後の次の文にも現れる。



主体がおのれの根源的同一化[identification fondamentale]として、 唯一の徴[le trait unaire]にだけではなく、 星座でおおわれた天空にも支えられることは、主体が「おまえ le Tu」によってしか支えられないことを説明する。「おまえ le Tu」によってというのは、 つまり、 あるゆる言表が自らのシニフィエの裡に含む礼儀作法の関係[relations de politesse]によって変化するようなすべての文法的形態のもとでのみ、主体は支えられるということである。


日本語では真理は、私がそこに示すフィクションの構造を、このフィクションが礼儀作法の法[lois de la politesse]のもとに置かれていることから、強化している。 (ラカン、「リチュラテール Lituraterre, Autres Écrits19、1971年)



このラカンのいう「礼儀作法の法」とは敬語ということであり、《主体が「おまえ le Tu」によってしか支えられない》とは、例えば森有正が言っている《私も実はあなたのあなたになって、ふたりとも「あなた」になってしまうわけです。これを私は日本語の二人称的性格と言います。ですから、私は日本語には根本的には一人称も三人称もないと思うんです》と同じことである。要するに日本語は少なくとも会話において二人称言語の特徴を持っている。


上でラカンが言っている主体とは、象徴的なシニフィアンの主体sujet du signifiant、あるいはシニフィアン私[signifiant « je » ]であり、典型的には「主語」である。これ以外に想像的な自我(自己イマージュimage de soi)、そして現実界的な斜線を引かれた主体$ーー主体というより事実上、エスの欲動の身体ーーがある。





ラカンは、主体の不在[l'absence du sujet][$]の場処を示すために隠喩を使い、詩的に表現した、《欲動の藪のなかで燃え穿たれた穴 [rond brûlé dans la brousse des pulsions]》(E666, 1960)と。欲動の薮、すなわち享楽の藪[la brousse de la jouissance]である。享楽のなかの場は空虚化されている[où dans la jouissance une place est vidée]。この享楽の藪のなかの場は、シニフィアンの主体[le sujet du signifiant]が刻印されうる (J.-A. MILLER, - Tout le monde est fou – 04/06/2008, 摘要訳)

穴は斜線を引かれた主体と等価である[Ⱥ ≡ $]

A barré est équivalent à sujet barré. [Ⱥ ≡ $](J.-A. MILLER, -désenchantement- 20/03/2002)


この主体の穴とは事実上身体なのである。


身体は穴である[(le) corps…C'est un trou](Lacan, conférence du 30 novembre 1974, Nice)

ラカンは、享楽によって身体を定義するようになる [Lacan en viendra à définir le corps par la jouissance](J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)


ーーこのリアルな身体の穴を穴埋めするのが、象徴的シニフィアンの主体、もしくは想像的自我である。


敬語的、あるいは二人称的とは、ラカン的には自我と鏡像自我(フロイトの「理想自我」)とのあいだのイマジネールな関係性ということであり、父の名(フロイトの「自我理想」)が充分に機能せず、主語が事実上ないということになる。


この典型的事例としてラカニアンの藤田博史による内田樹批判文を、少し長くなるが、掲げよう。以下に「私」という主語の多用が指摘されているが、その後想像的ディスクールとあるように「あなたにとっての私」であり、他者との鏡像関係にある「自我としての私」である。



藤田博史による内田樹批判、2013年

「内田樹式批判の技法」のカラクリ〔・・・〕。


つまり、最初に相手の主張を自分の都合の良いように改変する。読者に共感してもらうために、大概は「×××原理主義」であるかのように捏造する。そして捏造された「×××原理主義」の極端さや権威主義的な側面を批判する。このトリックに引っかかった読者はその語りに乗ってくる。彼の語り口は意図的に「上から目線」ではなく「下から目線」であるかのようになされ、日常のなかで「上から目線」で圧迫を受けている人たちの共感を引き出す。そして、わたしは読者の味方ですよ、原理主義、上から目線、いやですね~、と読者を引き寄せる。あらかじめ自分で批判用に捏造しているのだから、批判できるのは当たり前である。


つまり内田樹が誰かを批判する場合、その手口は一定のパターンがある。それはこんな風だ。原理主義的仮想敵の捏造→原理主義に対する批判→自分は極端に走らないバランスの取れた人間だという自己宣伝、で結ぶ。あらかじめ読者を味方につけるために、意図的に相手の主張を都合よく捏造する。ここに見られるのは「自作自演」という常習的に嘘をつくという病的な傾向をもった人たちがよく使う手法とまったく同じである。


次に指摘されるのは、文章のなかに頻繁に登場する「私」である。うんざりする。とにかくこの「私」の登場回数は半端ではない。特に持論を展開する時など頻繁にしゃしゃり出てくる。特に多いのが「私は」で始まるフレーズだ。勘弁して欲しい。もう少し「私」を削った文章が書けないものだろうか。〔・・・〕


知的な人間を装った虚しいおしゃべりのなかで、空想と捏造を交えていろんなことを論じているが、注意深く読んでゆくと、引用の一つ一つの客観性が見えてこない。括弧で括ったりして引用の体裁を取ってはいるが、肝腎の出典が殆ど示されていないのだ。むしろ、一見引用に見えるものが実は引用ではなく、自分に都合の良いように書き換えられ、捏造された「偽引用」であることがわかる。つまり、引用に見せかけて、自分が反論しやすい形にすでに相手の主張を改竄し、作話している。冒頭で見たように、わたしが書いたこともないような言葉が、丁寧に括弧で括られて、藤田の主張となっているのがその良い例だ。わたしの著作を読んだことのない人がこの捏造された言葉を信じてしまったとしたら、これは、読者に対する一種の洗脳であり、学問に対する冒涜である。


以上をまとめると以下のようになる。


内田樹の文章は、客観性に乏しく、一人芝居的。殆どの話題や対象は、自分流に改変され、あたかも幼児が玩具を自分の周りに散らかして、そのなかで空想物語を作り続けているようだ。自分の空想のなかで、対象どうしの関係を想像的に決めて語り続ける。語りは「私は~」という一人称で連続してゆく。つまり、論考自体が自閉的な性質を持っている。精神分析ではこういう語りを「想像的ディスクール」と呼んでいる。すべての価値は判断主体である「私」との双数的関係のなかで決まっており、何でも言えるし、何を言っても仕方のない領野である。


したがって、「私」の物語は外部に向かって開かれていないので、時々その信憑性を確かめたくなって、外の世界にちょっかいを出すのだろう。そしてすぐ自分の殻のなかへと避難する。子供がよくやる「ピンポンダッシュ」に見られるような、幼児的な自我の防衛機制である。実際に呼び鈴を押されてとばっちりを食らったのが上野千鶴子氏であり、わたしである。


最後に、内田樹の心性を精神病理学的に推察すれば、彼の自閉的な一連の行為の背後には、おそらく幼い頃に味わった強烈な劣等感が潜んでいるのではないかと強く推測される。さもなければ、彼の理不尽なまでの不必要な外部への攻撃とすぐさまの逃避は説明がつかないだろう。人生の黎明期に味わった劣等感を、歳を取ってから克服するために、迷惑なことにレヴィナスが利用され、合気道でカモフラージュされている。ちゃっかり利用しているので「ちゃっかりおじさん」と呼びたくなるくらいだ。この二つの社会性を持った名札を胸に付けて、自閉のドアを開いて外へ出ようとするが、もともとレヴィナスも自己流に改変されているから、まともな批判は受けたくない。したがって、常に空想のなかで語るしかなく、論考は常に想像的なものであり、結局、客観的な論の運びができないままだ。


そこで編み出されたのが「ゆるいキャラ、決定しないキャラ」である。「わからない」と言い訳しながら、語り続ける。わたしはこれを植木等主演映画の「無責任」キャラに喩えた。この手の知識人が一番厄介だ。


いずれにせよ、賢明な読者であれば、彼の専門書においてすら、読み終わった後、論理ではなく思い込みが、見せかけばかりが撒き散らされていて、結局、肝腎なことは何も言われていない、ということに気づくだろう。端的にいえば彼の著作は自閉的自我の空想によるサンブラン(見せかけ)で構成されている。


もしフロイトが生きていて、日本語が読めたならば、内田樹の本は、批判と自己擁護、つまり幼児的な他者廃棄と自閉的自我の確認作業の産物であることを見抜くだろう。そして、彼の話術に化かされ、幼児的空想という一個人の排泄物を、美味しい美味しいと食べさせられている人たちに、そろそろ誰かが警鐘を鳴らさなければならない時が来ているのかも知れない。



これはかなり強い内田樹批判であり、その是非はさて置きーーもっとも蓮實重彦や池内恵・山形浩生も「犯罪的」という形容詞までを使いながら辛辣な内田樹批判をしているーー、多くの書き手も内田氏と似たようなことをやっている。日本的読者に受けようと思えば、こうなってしまうのであろう。隣のお兄さん文体で「下からの目線」あるいは「あなたのお友だち文体」で書く、これは多くの読者に「共感」を産もうとすれば自ずとそうなってしまうようだ。例えば現代日本では「優れた」と言いうるだろう批評家東浩紀も、雑誌編集を経営し出してからは以前よりさらにイマジネールな「あなたのお兄さん文体」になっている。そもそも現在のSNS文化自体が世界的に「父なき時代のきょうだい言説」をいっそう育んでいる。


何はともあれ、このスタイルが日本的な「悪」を生んでいる可能性に十全に注意すべきではないか。



公的というより私的、言語的(シンボリック)というより前言語的(イマジナリー)、父権的というより母性的なレヴェルで構成される共感の共同体。......それ はむしろ、われわれを柔らかく、しかし抗しがたい力で束縛する不可視の牢獄と化している。(浅田彰「むずかしい批評」1988年)



例えばロシアに侵略を受けたウクライナを憐れむが、ロシア侵攻の原因は問わない。これが共感の共同体の姿だ。


ここに現出するのは典型的な「共感の共同体」の姿である。この共同体では人々は慰め合い哀れみ合うことはしても、災害の原因となる条件を解明したり災害の原因を生み出したりその危険性を隠蔽した者たちを探し出し、糾問し、処罰することは行われない。そのような「事を荒立てる」ことは国民共同体が、和の精神によって維持されているどころか、じつは、抗争と対立の場であるという「本当のこと」を、図らずも示してしまうからである。…(この)共感の共同体では人々は「仲よし同士」の慰安感を維持することが全てに優先しているかのように見えるのである。(酒井直樹「「無責任の体系」三たび」2011年『現代思想 東日本大震災』所収)


共感の共同体の別名をムラ社会と呼んでもよいだろう。


日本社会には、そのあらゆる水準において、過去は水に流し、未来はその時の風向きに任せ、現在に生きる強い傾向がある。現在の出来事の意味は、過去の歴史および未来の目標との関係において定義されるのではなく、歴史や目標から独立に、それ自身として決定される。〔・・・〕


労働集約的な農業はムラ人の密接な協力を必要とし、協力は共通の地方心信仰やムラ人相互の関係を束縛する習慣とその制度化を前提とする。この前提、またはムラ人の行動様式の枠組は、容易に揺らがない。それを揺さぶる個人または少数集団がムラの内部からあらわれれば、ムラの多数派は強制的説得で対応し、それでも意見の統一が得られなければ、「村八分」で対応する。いずれにしても結果は意見と行動の全会一致であり、ムラ全体の安定である。(加藤周一『日本文化における時間と空間』2007年)



日本語の二人称文化とはこのムラ社会的共同体の共同体であり、ときに自らの信奉するイデオロギーに異議を唱える少数者を村八分で排除する。これはこの今も至るところで見られる「不可視の牢獄」現象である。学者たちがそれを率先してやっている。例えばオープンレターなるツールを使いながらアンチフェミ研究者を過剰なまでに糾弾して職を脅かしたり、あるいは国際政治学者たちが、一方でYouTubeなどで二人称的に互いに湿った瞳を交わし合い頷き合いながら、他方でツイッター村で束=ファシストになって、元大阪市長や東大で式辞を述べた映画監督をこれまた限度を超えて理不尽に糾弾している。


フロイトの『集団心理学と自我の分析』に準拠すれば、父の名(自我理想)の斜陽の時代には、理念による象徴的同一化の機能が弱まり、自我は憎悪対象にて想像的同一化をして結束する傾向があるのである。




原初の集団は、同一の対象を自我理想[Ichideals]の場に置き、その結果おたがいの自我において同一化[identifiziert]する集団である。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第8章、1921年)

理念[ führende Idee]がいわゆる消極的な場合もあるだろう。特定の個人や制度にたいする憎悪は、それらにたいする積極的依存 [positive Anhänglichkeit ]と同様に、多くの人々を一体化させるように作用するだろうし、類似した感情的結合 [Gefühlsbindungen]を呼び起こすであろう。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第6章)