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2022年5月12日木曜日

女主人の沈黙の声に耳を塞ぐための音楽

 


夜と音楽。--恐怖の器官[Organ der Furcht] としての耳は、夜においてのみ、暗い森や洞穴の薄明のなかでのみ、畏怖の時代の、すなわちこれまで存在した中で最も長かった人間の時代の生活様式に応じて、現在見られるように豊かな発展することが可能だった。光のなかでは、耳はそれほど必要ではない。それゆえに、夜と薄明の芸術としての音楽の性格がある[der Charakter der Musik, als einer Kunst der Nacht und Halbnacht]。 (ニーチェ『曙光』250番、1881年)




君たちのまがいの音楽がよくわかるよ。


芸術家はいまや俳優となり、その芸術はますます虚言の才能として発達してゆく。…芸術の俳優的なもののうちへのこの総体的変化は、まさにまぎれもなく生理学的退化の一つの現われ(もっと精確には、ヒステリー症状の一形式)である。〔・・・〕


わが友らよ、私たちが理想に本気であるなら、私たちは誹謗しよう、私たちは旋律を誹謗しよう![verleumden wir die Melodie!]  美しい旋律にもまして危険なものは何ひとつとしてない![Nichts ist gefährlicher als eine schöne Melodie! ] それにもまして確実に趣味を台なしにするものは何ひとつとしてない![Nichts verdirbt sicherer den Geschmack! ](ニーチェ『ワーグナーの場合』トリノ書簡、1888年)




なぜ人は喋りまくるのか、なぜ人は音楽を聴くのか? 

ーー沈黙の声に耳を塞ぐためである

われわれが喋りまくるなら、われわれが会議をするなら、われわれが噂話をするなら、われわれが歌い歌い手を聴くなら、われわれが音楽を作って聴くなら、ラカンのテーゼが含意するのは、対象aとしての声を黙らせるためである[Si nous parlons autant, si nous faisons nos colloques, si nous bavardons, si nous chantons et si nous écoutons les chanteurs, si nous faisons de la musique et si nous en écoutons, la thèse de Lacan comporte que c'est pour faire taire ce qui mérite de s'appeler la voix comme objet petit a](J.-A. MILLER, Jacques Lacan et la voix 、1988)


超自我の声の穴なる深淵はたしかに恐ろしい、

だがいつまで避けているつもりだ?


超自我のあなたを遮る命令の形態は、声としての対象aの形態にて現れる[la forme des impératifs interrompus du Surmoi …apparaît la forme de (a) qui s'appelle la voix. ](ラカン, S10, 19 Juin 1963)

私は大他者に斜線を記す、Ⱥ(穴)と。…これは、大他者の場に呼び起こされるもの、すなわち対象aである。この対象aは現実界であり、表象化されえないものだ。この対象aはいまや超自我とのみ関係がある[Je raye sur le grand A cette barre : Ⱥ, ce en quoi c'est là, …sur le champ de l'Autre, …à savoir de ce petit(a).   …qu'il est réel et non représenté, …Ce petit(a)…seulement maintenant - son rapport au surmoi : ](Lacan, S13, 09 Février 1966)



人はみな病気である、なぜなら超自我の死の欲動を抱えているから。


私は病気だ。なぜなら、皆と同じように、超自我をもっているから[j'en suis malade, parce que j'ai un surmoi, comme tout le monde](Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)

死の欲動は超自我の欲動である[la pulsion de mort ..., c'est la pulsion du surmoi]  (J.-A. Miller, Biologie lacanienne, 2000)





超自我は自己破壊欲動としての死の欲動なのだから。


超自我が設置された時、攻撃欲動の相当量は自我の内部に固着され、そこで自己破壊的に作用する[Mit der Einsetzung des Überichs werden ansehnliche Beträge des Aggressionstriebes im Innern des Ichs fixiert und wirken dort selbstzerstörend]. (フロイト『精神分析概説』第2章、1939年)

我々が、欲動において自己破壊を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動の顕れと見なしうる。それはどんな生の過程からも見逃しえない。

Erkennen wir in diesem Trieb die Selbstdestruktion unserer Annahme wieder, so dürfen wir diese als Ausdruck eines Todestriebes erfassen, der in keinem Lebensprozeß vermißt werden kann. (フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)



超自我は女なる神だ、《女が欲することは神も欲する[Ce que femme veut, Dieu le veut]》(ミュッセ、Le Fils du Titien, 1838)



一般的に神と呼ばれるもの、それは超自我と呼ばれるものの作用である[on appelle généralement Dieu …, c'est-à-dire ce fonctionnement qu'on appelle le surmoi.] (Lacan, S17, 18 Février 1970)

一般的に神と呼ばれるものがある。だが精神分析が明らかにしたのは、神とは単に女なるものだということである[C'est celui-là qu'on appelle généralement Dieu, mais dont l'analyse dévoile  que c'est tout simplement « La femme ».  ](Lacan, S23, 16 Mars 1976)





最も静かな時刻には常に女主人のエスの声が聞こえてくる、

最も静かな時刻を知らない者だけがそれを知らない


何事がわたしに起こったのか。だれがわたしに命令するのか。ーーああ、わたしの女主人が怒って、それをわたしに要求するのだ。彼女がわたしに言ったのだ。彼女の名をわたしは君たちに言ったことがあるだろうか。


きのうの夕方ごろ、わたしの最も静かな時刻[meine stillste Stunde]がわたしに語ったのだ。つまりこれがわたしの恐ろしい女主人の名[Name meiner furchtbaren Herrin]だ。


それからの次第はこうであるーーわたしは君たちに一切を話さなければならない、君たちの心が、突然に去ってゆく者にたいして冷酷になることがないように。

君たちは、眠りに落ちようとしている者を襲う驚愕を知っているか。ーー


足の指の先までかれは驚得する。自分の身の下の大地が沈み、夢がはじまるのだ。


このことをわたしは君たちに比喩として言うのだ。きのう、最も静かな時刻に、わたしの足もとの地が沈んだ、夢がはじまった。


針が時を刻んで動いた。わたしの生の時計が息をした。ーーいままでにこのような静けさにとりかこまれたことはない。それゆえわたしの心臓は驚得したのだ。


そのとき、声なくしてわたしに語るものがあった。「おまえはエスを知っているではないか、ツァラトゥストラよ」ーー

Dann sprach es ohne Stimme zu mir: `Du weisst es, Zarathustra?` -


このささやきを聞いたとき、わたしは驚鍔の叫び声をあげた。顔からは血が引いた。しかしわたしは黙ったままだった。


と、重ねて、声なくして語られることばをわたしは聞いた。「おまえはエスを知っているではないか、ツァラトゥストラよ。しかしおまえはエスを語らない」ーー


Da sprach es abermals ohne Stimme zu mir: `Du weisst es, Zarathustra, aber du redest es nicht!` -(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第2部「最も静かな時刻 Die stillste Stunde」)





お前には聞こえぬか、あの深い真夜中の声が?


いま、エスは語る、いま、エスは聞こえる、いま、エスは夜を眠らぬ魂のなかに忍んでくる。ああ、ああ、なんと吐息をもらすことか、なんと夢を見ながら笑い声を立てることか。

ーーおまえには聞こえぬか、あれがひそやかに、すさまじく、心をこめておまえに語りかけるのが? あの古い、深い、深い真夜中が語りかけるのが?


- nun redet es, nun hört es sich, nun schleicht es sich in nächtliche überwache Seelen: ach! ach! wie sie seufzt! wie sie im Traume lacht!

- hörst du's nicht, wie sie heimlich, schrecklich, herzlich zu _dir_ redet, die alte tiefe tiefe Mitternacht? (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌」第3節、1885年)




お前にはほんとうに聞こえぬのか、あの不気味な沈黙の声が?


不気味なものは人間の実存[Dasein]であり、それは意味もたず黙っている[Unheimlich ist das menschliche Dasein und immer noch ohne Sinn ](ニーチェ『ツァラトゥストラ 』第1部「序説」1883年)

死の欲動は本源的に沈黙しているという印象は避けがたい[müssen wir den Eindruck gewinnen, daß die Todestriebe im wesentlichen stumm sind ](フロイト『自我とエス』第4章、1923年)



あの不気味な異者の蠢きの声が?


不気味なものは、抑圧の過程によって異者化されている[dies Unheimliche ist …das ihm nur durch den Prozeß der Verdrängung entfremdet worden ist.](フロイト『不気味なもの』第2章、1919年、摘要)

異者がいる。異者とは、厳密にフロイトの意味での不気味なものである[Il est étrange… étrange au sens proprement freudien : unheimlich] (Lacan, S22, 19 Novembre 1974)

自我はエスの組織化された部分である。ふつう抑圧された欲動蠢動は分離されたままである[ das Ich ist eben der organisierte Anteil des Es ...in der Regel bleibt die zu verdrängende Triebregung isoliert.] 〔・・・〕

エスの欲動蠢動は、自我組織の外部に存在し、自我の治外法権である。われわれはこのエスの欲動蠢動を、異者身体 [Fremdkörper]の症状と呼んでいる[Triebregung des Es … ist Existenz außerhalb der Ichorganisation …der Exterritorialität, …betrachtet das Symptom als einen Fremdkörper](フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要)




聞こえぬわけがあるまい、あの母なる超自我の穴の声が?


モノの概念、それは異者としてのモノである[La notion de ce Ding, de ce Ding comme fremde, comme étranger](Lacan, S7, 09  Décembre  1959)

母なるモノ、母というモノ、これがフロイトのモノ[das Ding]の場を占める[la Chose maternelle, de la mère, en tant qu'elle occupe la place de cette Chose, de das Ding.   ](Lacan, S7, 16  Décembre  1959)

フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne …ce que j'appelle le Réel] (Lacan, S23, 13 Avril 1976)

大文字の母は、その基底において、「原リアルの名」であり、「原穴の名 」である[Mère, au fond c’est le nom du premier réel, …c’est le nom du premier trou] (Colette Soler, Humanisation ? ,2014)






母なる超自我[surmoi maternel]は原超自我[surmoi primordial]である。

(Lacan, S5, 02 Juillet 1958、摘要)

心的装置の一般的図式は、心理学的に人間と同様の高等動物にもまた適用されうる。超自我は、人間のように幼児の依存の長引いた期間を持てばどこにでも想定されうる。そこでは自我とエスの分離が避けがたく想定される。Dies allgemeine Schema eines psychischen Apparates wird man auch für die höheren, dem Menschen seelisch ähnlichen Tiere gelten lassen. Ein Überich ist überall dort anzunehmen, wo es wie beim Menschen eine längere Zeit kindlicher Abhängigkeit gegeben hat. Eine Scheidung von Ich und Es ist unvermeidlich anzunehmen. (フロイト『精神分析概説』第1章、1939年)



…………………




境界表象 S(Ⱥ)[boundary signifier [Grenzvorstellung ]: S(Ⱥ)](PAUL VERHAEGHE, DOES THE WOMAN EXIST?, 1997)

大他者のなかの穴の表象をS (Ⱥ) と記す[(le) signifiant de ce trou dans l'Autre, qui s'écrit S (Ⱥ)  ](J.-A. MILLER, - Illuminations profanes - 15/03/2006)


S(Ⱥ)に、フロイトの超自我の翻訳を見い出しうる[S(Ⱥ) …on pourrait retrouver une transcription du surmoi freudien. ](J.-A.MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses Comités d'éthique - 27/11/96)

固着はS(Ⱥ) に関わる [Fixation… concerns S(Ⱥ)]。(PAUL VERHAEGHE, DOES THE WOMAN EXIST?, 1997)

言わなければならない、S(Ⱥ)の代わりに対象aを代替しうると[il faut dire … à substituer l'objet petit a au signifiant de l'Autre barré[S(Ⱥ)](J.-A. MILLER, - Illuminations profanes - 16/11/2005)


対象aはリビドーの固着点に現れる[petit(a) …apparaît que les points de fixation de la libido ](Lacan, S10, 26 Juin 1963)

母は構造的に対象aの水準にて機能する[C'est cela qui permet à la mamme de fonctionner structuralement au niveau du (а).]  (Lacan, S10, 15 Mai 1963 )


異者としての身体…問題となっている対象aは、まったき異者である[corps étranger,…le (a) dont il s'agit,…absolument étranger ](Lacan, S10, 30 Janvier 1963)

異者がいる。異者とは、厳密にフロイトの意味での不気味なものである[Il est étrange… étrange au sens proprement freudien : unheimlich] (Lacan, S22, 19 Novembre 1974)


………………



常に残存現象がある。つまり部分的な置き残しがある。〔・・・〕標準的発達においてさえ、転換は決して完全には起こらず、最終的な配置においても、以前のリビドー固着の残滓が存続しうる[Es gibt fast immer Resterscheinungen, ein partielles Zurückbleiben. […]daß selbst bei normaler Entwicklung die Umwandlung nie vollständig geschieht, so daß noch in der endgültigen Gestaltung Reste der früheren Libidofixierungen erhalten bleiben können. ](フロイト『終りある分析と終りなき分析』第3章、1937年)

異者身体は原無意識としてエスのなかに置き残されたままである[Fremdkörper…bleibt als das eigentliche Unbewußte im Es zurück. ](フロイト『モーセと一神教』3.1.5 Schwierigkeiten, 1939年、摘要)


母へのエロス的固着の残滓は、しばしば母への過剰な依存形式として居残る。[Als Rest der erotischen Fixierung an die Mutter stellt sich oft eine übergrosse Abhängigkeit von ihr her](フロイト『精神分析概説』第7章、1939年)

すべての利用しうるエロスエネルギーを、われわれはリビドーと名付ける[die gesamte verfügbare Energie des Eros, die wir von nun ab Libido heissen werden](フロイト『精神分析概説』第2章, 1939年)