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2022年5月21日土曜日

宇種に自己を失った主流メディア

 

◼️イタリアのジャーナリスト、ジョルジョ・ビアンキの証言 【5月6日国連安全保障理事会アリア・フォーミュラ会議、2022年5月6(日)】 Youtube

ロシアのプロパガンダは理解できる。ウクライナのプロパガンダは理解できる。私にとって理解しがたいのはヨーロッパのプロパガンダです。ロシアのメディアはキャンセルされ、公式メディアと呼ばれるものはすべてヨーロッパの大衆向けのウクライナのプロパガンダで足並みを揃えている。現場の実態を客観的に判断することは事実上不可能です。そのため、バランスの取れた情報をウェブに求める人達が増えているのです。


政府やデジタル・プラットフォームはこの現象について自問するのではなく、 オンラインでの情報へのアクセスを制限しようとしているのです。事実を一つのシナリオとして支持することが目的のようだ。戦争は劇的なものであり、私もそれについて知っている。しかし、 フェイクニュースでエディターや新聞に溢れさせることによって、 更に恐ろしいものにする必要はない。紛争を助長したり、 憎しみを与えて拡大させることは彼らにとって有益だと考えている。紛争を長引かせ、 拡大させることにある種の利権があるように思えるのです。



プロパガンダはラテン語の propagare(繁殖させる、種をまく)に由来するそうだが、ジョルジョ・ビアンキの言っているようにウクライナにもロシアもプロパガンダはあるに決まっている。戦争とは情報戦争の比重も大なのだから。


問題は西側の主流メディアだ。宇種ばかり繁殖させている。





まったくバランス感覚がなく宇種拡声器に成り下がっている。日本でも朝日やら読売やら毎日やら日経やらほとんど全滅だ。連中は誰かに操られているかのようだ、例えば戦争広告代理店のような勢力に。


大衆が宇種を支えている米英体制側のプロパガンダに自己を失うのはある程度やむ得ない。だがこの今、主流メディア自体が大衆と同じように全き体制順応主義に陥ってしまっている。



もし、ソクラテスが、プロパガンダという言葉を知っていたら、教育とプロパガンダの混同は、ソフィストにあっては必至のものだと言ったであろう。言うまでもなく、ソクラテスは、この世に本当の意味での教育というものがあるとすれば、自己教育しかない、或はその事に気づかせるあれこれの道しかない事を確信していた。もし彼が今日まで生きていたら、現代のソフィスト達が説教している事、例えばマテリアリズムというものを、弁証法とか何とか的とか言う言葉で改良したらヒューマニズムになるというような詭弁を見逃すわけはない。事実を見定めずにレトリックに頼るソフィストの習慣は、アテナイの昔から変わっていない、と彼は言うだろう。〔・・・〕


社会は一匹の巨獣である、では社会学にはならぬ。そんな事を言って、プラトンを侮るまい。いよいよ統計学に似て来る近代社会学には、統計学の要求に屈して、人間を、計算に便利な人間という単位で代置する誘惑が避け難い。この傾向は、人間について何が新しい発見を語る事なのか、それとも来るべきソフィスト達の為に、己惚れの種を播く事なのか。一応疑ってみた方がよいだろう。


ソクラテスの話相手は、子供ではなかった。経験や知識を積んだ政治家であり、実業家であり軍人であり、等々であった。彼は、彼らの意見や考えが、彼等の気質に密着し、職業の鋳型で鋳られ、社会の制度にぴったりと照応し、まさにその理由から、動かし難いものだ、と見抜いた。彼は、相手を説得しようと試みた事もなければ、侮辱した事もない。ただ、彼は、彼等は考えている人間ではない、と思っているだけだ。彼等自身、そう思いたくないから、決してそう思いはしないが、実は、彼等は外部から強制されて考えさせられているだけだ。巨獣の力のうちに自己を失っている人達だ。自己を失った人間ほど強いものはない。(小林秀雄「プラトンの「国家」」1959年)


ヒットラーの独自性は、大衆に対する徹底した侮蔑と大衆を狙うプロパガンダの力に対する全幅の信頼とに現れた。と言うより寧ろ、その確信を決して隠そうとはしなかったところに現れたと言った方がよかろう。〔・・・〕


大衆はみんな嘘つきだ。が、小さな嘘しかつけないから、お互いに小さな嘘には警戒心が強いだけだ。大きな嘘となれば、これは別問題だ。彼等には恥ずかしくて、とてもつく勇気のないような大嘘を、彼らが真に受けるのは、極く自然な道理である。たとえ嘘だとばれたとしても、それは人々の心に必ず強い印象を残す。うそだったということよりも、この残された強い痕跡の方が余程大事である、と。


大衆が、信じられぬほどの健忘症であることも忘れてはならない。プロパガンダというものは、何度も何度も繰り返さねばならぬ。それも、紋切型の文句で、耳にたこが出来るほど言わねばならぬ。但し、大衆の目を、特定の敵に集中させて置いての上でだ。(小林秀雄「ヒットラーと悪魔」1960年)