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2022年5月7日土曜日

「岸辺の変るざわめき」のレミニサンス


幻聴やら幻臭、幻肢とかいうが、すべて抑圧されたものの回帰だよ


症状形成の全ての現象は、「抑圧されたものの回帰」として正しく記しうる[Alle Phänomene der Symptombildung können mit gutem Recht als »Wiederkehr des Verdrängten« beschrieben werden.](フロイト『モーセと一神教』3.2.6、1939年)

抑圧されたものの回帰は、トラウマと潜伏現象の直接的効果に伴った神経症の本質的特徴としてわれわれは叙述する[die Wiederkehr des Verdrängten, die wir nebst den unmittelbaren Wirkungen des Traumas und dem Phänomen der Latenz unter den wesentlichen Zügen einer Neurose beschrieben haben. ](フロイト『モーセと一神教』3.1.3, 1939年)


抑圧されたものの回帰とは見ての通り、トラウマの回帰。


そして《トラウマは自己身体の出来事もしくは感覚知覚[Die Traumen sind entweder Erlebnisse am eigenen Körper oder Sinneswahrnehmungen]》(フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939年)


聴覚やら臭覚やらの身体に刻印された傷が回帰すること。これが抑圧されたものの回帰=トラウマの回帰の原点だ。


トラウマとは異者身体 [Fremdkörper] とも呼ばれ、「異者のレミニサンス」と呼んでもよろしい。


トラウマないしはトラウマの記憶は、異者身体 [Fremdkörper] のように作用する。これは後の時間に目覚めた意識のなかに心的痛みを呼び起こし、殆どの場合、レミニサンス[Reminiszenzen]を引き起こす。

das psychische Trauma, respektive die Erinnerung an dasselbe, nach Art eines Fremdkörpers wirkt,..…als auslösende Ursache, wie etwa ein im wachen Bewußtsein erinnerter psychischer Schmerz …  leide größtenteils an Reminiszenzen.(フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年、摘要)



何度も示しているが、抑圧されたものの回帰はより厳密には「トラウマ的固着点への回帰」。


抑圧の第一段階ーー原抑圧された欲動ーーは、あらゆる「抑圧」の先駆けでありその条件をなしている固着である[Die erste Phase besteht in der Fixierung, (primär verdrängten Triebe) dem Vorläufer und der Bedingung einer jeden »Verdrängung«. ]〔・・・〕

抑圧されたものの回帰は固着点から始まる[Wiederkehr des Verdrängten…erfolgt von der Stelle der Fixierung her]。(フロイト『症例シュレーバー』1911年、摘要)


上にある《原抑圧された欲動[primär verdrängten Triebe]》とは《排除された欲動 [verworfenen Trieb]》『快原理の彼岸』1920年』)と同一であり、抑圧されたものの回帰の原点にある《原抑圧されたものの回帰[Wiederkehr des Ur-Verdrängten]》は《排除されたものの回帰[Wiederkehr des Verworfenen]》。これが固着点への回帰の意味である。


そして同じくこれがラカンの現実界の享楽の回帰。


フロイトが固着点と呼んだもの、この固着点の意味は、「享楽の一者がある」ということであり、常に同じ場処に回帰する。この理由で固着点に現実界の資格を与える。[ce qu'il appelle un point de fixation. …Ce que veut dire point de fixation, c'est qu'il y a un Un de jouissance qui revient toujours à la même place, et c'est à ce titre que nous le qualifions de réel.] (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)

現実界は「常に同じ場処に回帰するもの」として現れる[le réel est apparu comme « ce qui revient toujours à la même place »  ](Lacan, S16, 05  Mars  1969 )



トラウマ的固着[traumatischen Fixierung](フロイト『続精神分析入門』29.  1933 年)への回帰、これが反復強迫としての享楽の回帰ーー《反復は享楽の回帰に基づいている[la répétition est fondée sur un retour de la jouissance]》(Lacan, S17, 14 Janvier 1970)ーーの内実である。


享楽は真に固着にある。人は常にその固着に回帰する。[La jouissance, c'est vraiment à la fixation …on y revient toujours. ](Miller, Choses de finesse en psychanalyse XVIII, 20/5/2009)


ラカンにとって享楽は穴=トラウマ、ーー《ラカンの穴=トラウマによる言葉遊び。トラウマの穴はあながたのすぐそこにある[le jeu de mots de Lacan sur le troumatisme. Le trou du traumatisme est là]》(J.-A. MILLER, - Illuminations profanes - 10/05/2006)ーーであり、もしお好きなら「トラウマの回帰=享楽の回帰」を「穴の回帰」と呼んでもよろしい。


幻聴・幻臭・幻肢等はすべてこの穴の回帰の審級にある。幻肢というのは、プルーストの言っている《肢体の無意志的記憶[une mémoire involontaire des membres]といったものがあるように思われる、それはあたかも下等なある種の動物や植物が人間よりも長く生きているように、それは生きのこっているのだ。》(『見出された時』)のヴァリエーション。蚊居肢の記憶はレミニサンスする。


それはときには喜ばしいトラウマの回帰でもありうる。


PTSDに定義されている外傷性記憶……それは必ずしもマイナスの記憶とは限らない。非常に激しい心の動きを伴う記憶は、喜ばしいものであっても f 記憶(フラッシュバック的記憶)の型をとると私は思う。しかし「外傷性記憶」の意味を「人格の営みの中で変形され消化されることなく一種の不変の刻印として永続する記憶」の意味にとれば外傷的といってよいかもしれない。(中井久夫「記憶について」1996年『アリアドネからの糸』所収)


ああ、あの女の匂の回帰! ああ、ああ、あの雌薫悦のレミニサンス! 


においを嗅ぐ悦[Riechlust]のうちには、さまざまの傾向が混じり合っているが、そのうちには、下等なものへの昔からの憧れ、周りをとり巻く自然との、土と泥との、直接的合一への憧れが生き残っている[alte Sehnsucht nach dem Unteren fort, nach der unmittelbaren Vereinigung mit umgebender Natur, mit Erde und Schlamm]。対象化することなしに魅せられるにおいを嗅ぐという働きは、あらゆる感性の特徴について、もっとも感覚的には、自分を失い他人と同化しようとする衝動[Drang]について、証しするものである。だからこそにおいを嗅ぐことは、知覚の対象と同時に作用であり――両者は実際の行為のうちでは一つになる――、他の感覚よりは多くを表現する。見ることにおいては、人は人であることにとどまっているが、嗅ぐことにおいて、人は消えてしまう[Im Sehen bleibt man, wer man ist, im Riechen geht man auf. ]。だから文明にとって嗅覚は恥辱[Geruch als Schmach]であり、社会的に低い階層、少数民族と卑しい動物たちの特徴という意味を持つ。文明人にはそういう悦[Lust]に身をまかせることは許されない。(アドルノ&ホルクハイマー『啓蒙の弁証法』第5章、1947年)


そのあたりの女の安シャボンや安香水のにおいとはわけが違うんだ、野生の女の野卑なかおり! 母なる大地の泥臭いデルタのかおり!


女の奥深い深淵の穴の感覚まで回帰してくるよ、たまらん!



男根が子宮口に当り、さらにその輪郭に沿って奥のほうへ潜りこんで貼り付いたようになってしまうとき、細い柔らかい触手のようなものが伸びてきて搦まりついてくる場合が、稀にある。小さな気泡が次々に弾ぜるような感覚がつたわってくる(吉行淳之介『暗室』)



ほかのことはどうでもよくなる・・・究極の「エロ事師」ヴァレリー『海辺の墓地』第五節ぐらいだ、どうでもよくないのは。


果実が溶けて快楽(けらく)となるように、

形の息絶える口の中で

その不在を甘さに変へるやうに、

私はここにわが未来の煙を吸ひ

空は燃え尽きた魂に歌ひかける、

岸辺の変るざわめきを。


Comme le fruit se fond en jouissance,

Comme en délice il change son absence

Dans une bouche où sa forme se meurt,

Je hume ici ma future fumée,

Et le ciel chante à l’âme consumée

Le changement des rives en rumeur.


ーーヴァレリー「海辺の墓地 Le Cimetière marin」



いやあホントによくない

ケラクのレミニサンスがあると

岸辺の変るざわめきばかりがきこえてきて




水べを渉る鷭の声に変化した女の声を聴く(吉岡実)

をりふしにおとがひあげて 鶴さはに鳴く(蚊居肢)

死にますの 声に末期の 水をのみ (誹風末摘花)