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2022年5月9日月曜日

愛の技法と固着の反復(リシャールと蓮實重彦)

◼️ リシャールの愛の技法

蓮實)文学的にいって僕が進んで影響を受けた人物は二人しかいない。これは隠すまでもないし、しばしば公言していることですが、言葉やイメージにどう接近するかという姿勢において快いモデルとして、ジャン・ピエール・リシャールとアンリ・フォシオンを持っている。問題のたて方とか、方法論といった問題ではなく、対象としての言葉をどう愛撫するかという愛の技法を学んだのです。(柄谷行人-蓮實重彦対談集『闘争のエチカ』1988年)


リシャールにあって人を惹きつけるのは、あくまでも流れであって、遠近感覚の形成にはむしろさからっている。というより、かろうじてあるかにみえる領域の襞を浸透によって液化し、見えなくしてしまう。最終的にはそれらの関係が見えてしまっても、そこにたどりつく過程では、眼をつむったまま流れにひきこまれるような印象を持つほかない。おっしゃる通り、確かに「リシャール殺人事件」は、ブランショ、デリダの系譜の中で進行するのですが、実は初期からもっと小さな反論がいろいろ出まして、ジュネットも書いています。

それに対して、フーコーが反批判を試みている。「深さの暗喩に魅了された」リシャールが、「水面下のきらめき」をとらえようとしたとして非難されたが、それは誤りだとフーコーはいいます。ここに起こっているのは、いかなる境界も知らぬ言葉の塊だというのです。「まさに諸形式の溶解、それらの絶えざる敗走」を語ることで「言葉の裸形の体験」に迫ろうとする。それがリシャールの問題であり、多くの批判はあたらないというのです。こうして、デリダが問題にする五年くらい前に、フーコーによるリシャールの擁護があって、ある種の心理主義か形式主義に行きつくことのない流塊のようなものの運動について触れていたわけです。

とすると、デリダはその擁護を知りつつ、ということは、フーコー批判にも通じるかたちでリシャールを批判する。彼は、リシャールが「ブリ(襞)」というものをテーマにしてしまったのが気に入らないわけです。彼には「あいだ」という主題があって、その「あいだ」には何もない。その「あいだ」にグラデュエーションを設けてしまうのがリシャールであって、そうすると「あいだ」というものも消えてしまう。

しかし、問題は、そのような場における殺人ではない。つまりデリダは随分と戦略を持ってリシャールについて書いているんですけれども、そのことも知らずに、もっとも繊細なリシャール的な読み方さえ知らずに文学が語れると思ってしまう鈍感な人たちが、フランスのみならず、日本にもアメリカにも生産されてしまっているということが問題なのです。その生産に、デリダははからずも手をかしてしまい、その責任を、デリダは取ることができない。けれども、倫理は、デリダに取れと要請していると思う。ただ、その要請に関して、デリダは今のところ応えていないし、要請すらなかったことにしているのが、この殺人事件の最大の問題だと思うんですね。要するに、デリダは、「知」の放蕩息子の存在を否定してしまった。しかし、それはみずからが蕩児として振舞っているデリダ自身の否定につながりかねない ……(蓮實重彦『「知」的放蕩論序説』2002年)





◼️蓮實重彦『夏目漱石論』より

漱石における『水』は、それが池であれ、河であれ、あるいは海であれ、奥行きを持って拡がる風景ではなく、人の視線を垂直に惹きつける環境なのだ。


漱石にあっては、雨が遭遇を告げる一つの符牒であるかのように、人と人を結び合わせる。そして多くの場合、漱石的「存在」は、その遭遇によって後には引き換えしえない時空へと自分を宙吊りにすることになる。


雨が担う説話論的機能はあまりにも明瞭であろう。語り手に一つの場面を捨てて別の情景へと移行するのを許すものは、ほかならぬ雨への言及なのだ。雨の光景を描くというより、雨の一語を口にすること、それが物語に変化を導入する符牒である。


漱石的存在は、だからあまたの水の女たちに向かってきわめて曖昧な、二律背反的な態度でしか応ずることができないのだ。女たちが現在へと誘うとき彼らは決まって過去か未来へと逃れ、運動そのものを回避してその軌跡や予想図と戯れる。だが、それには十分な理由がある。というのも、現在として生きられる運動はきまって死への契機をはらんでいるからだ。縦の世界、垂直に働く磁力に身をさらすことは、とりもなおさず生の条件の放棄につながっているからである。水滴の厚い層をくぐりぬけること、そして溜った水の表面に視線を落とすこと、それは未来と記憶とを同時に失うという代償なしには実現しえない身振りである。漱石的存在とは、その危険を本能的に察知しながらも、水の手招きにはことのほか敏感に反応してしまう者たちなのである。その背理は、しばしば彼らに優柔不断な相貌をまとわせ、それが「低徊趣味」とか「余裕派」とかの言葉を神話化することにもなるのだが、しかし水の誘いに反応してしまうというのは決定的な事態なのだ。漱石的優柔不断は、もっとも危険の近くにあるもののみに可能な、せっぱつまった身振りにほかならない。実際、彼らがはじめから垂直の磁力に身をゆだねてしまっていたとしたら、漱石的「作品」などはありうべくもなかったろう。(蓮實重彦『夏目漱石論』)



溢れる水は漱石的存在に異性との遭遇の場を提供する。しかも、そこで身近に相手を確認しあう男女は、水の横溢によって外界から完全に遮断されてしまっているかにみえる。


あまたの漱石的「存在」が雨と呼ばれる厚い水滴の層をくぐりぬけたはてに出会うべきものは、ときには那美さんと呼ばれ、あるいは清子、あるいは嫂と呼ばれもする具体的な一人の女性ではなく、そうした水の女たちが体現する垂直の力学圏というか、縦に働く磁場そのものだということになろう。


落下すること、あるいは取り落とすこと。その垂直の運動もまた遭遇の一つの形態なのである。たとえば、鎌倉の海岸という水辺で演じられる『こころ』の冒頭の遭遇劇を思い出してみよう。「私」が「先生」とはじめて口を利く直接の契機となっているのは、浴衣についた砂を払おうとして振った瞬間に板の隙間から地上に落ちた「先生」の眼鏡ではなかったか。この振り落とされた眼鏡の挿話は〔・・・〕その運動の垂直性において「草枕』の鏡が池の深山椿のぼたりと落ちる運動と無媒介に響応しあうことになるのだ。水辺に咲いた椿の赤が那美さんを誘きよせたように、落下する眼鏡もまた「私」と「先生」とを結びつける。しかもその新たな遭遇者たちは、二人して「海へ飛び込ん」で行くのだ。落ちることは、だから水と深くかかわりあった運動なのである。


横たわること、それは漱石的小説にあっては、何らかの意味で言葉の発生と深くかかわりあった身振りである。仰臥の存在で言葉の発生と深くかかわり、人と人がであい、言葉がかわされ、そして物語がかたちづくられる。それ故に、作中人物の一人が確かな足どりで主人公への道を歩み、物語の叙述を促進し、作品の風土醸造にあずかろうとするとき、もはや横たわる場所を詳細に選んでいる暇など残されてはいない。(蓮實重彦『夏目漱石論』)




◼️ジャン=ピエール・リシャールのテーマ批評と固着の反復[la répétition de la fixation]


リシャールの批評は「テーマ批評」と呼ばれるが、この場合の「テーマ」とは作品の主題とか主張という意味ではなく、固着観念のように作品に繰りかえし登場する無意識的なテーマを意味する。本質的な作家は固着観念にとり憑かれているものだが、その固着観念を拾いだし、固着観念間のネットワークをあぶりだすために、従来見すごされてきた周縁的な作品まで含めて、あらゆるジャンルの作品を横断的に引照し、引用のパッチワークを作り上げる。(書評:加藤弘一 『マラルメの想像的宇宙』 ジャン=ピエール・リシャール


à partir de cette double fixation [le rigide et le clos], il devient aisé de lire l’histoire, le développement diégétique du personnage37  (Jean-Pierre Richard, Microlectures, 1979)


Un thème serait alors un principe concret d’organisation, un schème ou un objet fixes, autour duquel aurait tendance à se constituer et à se déployer un monde. L’essentiel, en lui, c’est cette parenté secrète dont parle Mallarmé, cette identité cachée qu’il s’agira de déceler sous les enveloppes les plus diverses. Le repérage des thèmes s’effectue le plus ordinairement d’après le critère de récurrence : les thèmes majeurs d’une œuvre, ceux qui en forment l’invisible architecture, et qui doivent pouvoir nous livrer la clef de son organisation, ce sont ceux qui s’y trouvent développés le plus souvent, qui s’y rencontrent avec une fréquence visible, exceptionnelle. La répétition, ici comme ailleurs, signale l’obsession.  (Jean-Pierre Richard, L’Univers imaginaire de Mallarmé, 1961)




……………


※参考


◼️フロイトラカン派における固着の反復分析



●現実界の症状サントームという「固着の反復」分析

われわれは言うことができる、サントームは固着の反復だと。サントームは反復プラス固着である。[On peut dire que le sinthome c'est la répétition d'une fixation, c'est même la répétition + la fixation]. (Alexandre Stevens, Fixation et Répétition ― NLS argument, 2021/06)

サントームは現実界であり、かつ現実界の反復である[Le sinthome, c'est le réel et sa répétition. ](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un - 9/2/2011)

分析経験の基盤は厳密にフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである[fondée dans l'expérience analytique, et précisément dans ce que Freud appelait Fixierung, la fixation. ](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)



●身体の出来事のトラウマ的固着

サントームは身体の出来事として定義される[Le sinthome est défini comme un événement de corps](J.-A. MILLER,, L'Être et l'Un, 30/3/2011

身体の出来事はフロイトの固着の水準に位置づけられる。そこではトラウマが欲動を或る点に固着する[L’événement de corps se situe au niveau de la fixation freudienne, là où le traumatisme fixe la pulsion à un point] ( Anne Lysy, Événement de corps et fin d'analyse, NLS Congrès présente, 2021)



●愛の条件の固着と愛の迷宮

愛は常に反復である。これは直接的に固着概念を指し示す。固着は欲動と症状にまといついている。愛の条件の固着がある[L'amour est donc toujours répétition, […]Ceci renvoie directement au concept de fixation, qui est attaché à la pulsion et au symptôme. Ce serait la fixation des conditions de l'amour. ](David Halfon「 愛の迷宮[Les labyrinthes de l'amour] 」ーー『AMOUR, DESIR et JOUISSANCE』論集所収, Novembre 2015)



●書かれることを止めない固着(固着を通した無意識のエスの反復強迫)

サントームは現実界、無意識の現実界に関係する[(Le) sinthome,  …ce qu'il a à faire avec le Réel, avec le Réel de l'Inconscient ]  (Lacan, S23, 17 Février 1976)

現実界は書かれることを止めない[le Réel ne cesse pas de s'écrire ](Lacan, S25, 10 Janvier 1978)

サントームは固着である[Le sinthome est la fixation]. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011、摘要


ーー《フロイトにとって症状は反復強迫[compulsion de répétition]に結びついたこの「止めないもの qui ne cesse pas」である。『制止、症状、不安』の第10章にて、フロイトは指摘している、症状は固着を意味し、固着する契機は無意識のエスの反復強迫に見出されると。[le symptôme implique une fixation et que le facteur de cette fixation est à trouver dans la compulsion de répétition du ça inconscient. ]》(J.-A. MILLER, L'Autre qui  n'existe pas  et ses comités d'éthique - 26/2/97)



●人はみな常に同じ固着点に回帰する

現実界は「常に同じ場処に回帰するもの」として現れる。le réel est apparu comme « ce qui revient toujours à la même place »  (Lacan, S16, 05  Mars  1969 )

フロイトが固着点と呼んだもの、この固着点の意味は、「享楽の一者がある」ということであり、常に同じ場処に回帰する。この理由で固着点に現実界の資格を与える[ce qu'il appelle un point de fixation. …Ce que veut dire point de fixation, c'est qu'il y a un Un de jouissance qui revient toujours à la même place, et c'est à ce titre que nous le qualifions de réel.] (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)





◼️斜線を引かれた主体は暗闇に蔓延る固着の異者である


●斜線を引かれた主体は穴であり、対象aである

現実界のなかの穴は主体である[Un trou dans le réel, voilà le sujet]. (Lacan, S13, 15 Décembre 1965)


ーー《穴は斜線を引かれた主体と等価である[A barré est équivalent à sujet barré. Ⱥ $]]》(J.-A. MILLER, -désenchantement- 20/03/2002)


対象aは穴である[l'objet(a), c'est le trou (ラカン、S16, 27 Novembre 1968


ーー《対象aは主体自体である[le petit a est le sujet lui-même $]」( J.-A. MILLER, - Illuminations profanes - 16/11/2005)


●対象aは固着の異者である

この対象aは、主体にとって本質的なものであり、異者性によって徴付けられている。 ce (a), comme essentiel au sujet et comme marqué de cette étrangeté, (Lacan, S16, 14  Mai  1969)

異者としての身体…問題となっている対象aは、まったき異者である[corps étranger,[…] le (a) dont il s'agit,[…] absolument étranger] (Lacan, S10, 30 Janvier 1963)

対象aはリビドーの固着点に現れる[petit(a) …apparaît que les points de fixation de la libido ](Lacan, S10, 26 Juin 1963)


●異者は暗闇に蔓延るトラウマ(穴)である

固着に伴い原抑圧がなされ、暗闇に異者が蔓延る[Urverdrängung…Mit dieser ist eine Fixierung gegeben; …wuchert dann sozusagen im Dunkeln, fremd erscheinen müssen](フロイト『抑圧』1915年、摘要)

トラウマないしはトラウマの記憶は、異者(異者身体 [Fremdkörper] )のように作用する[das psychische Trauma, respektive die Erinnerung an dasselbe, nach Art eines Fremdkörpers wirkt](フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年)

現実界は穴=トラウマをなす[le Réel …fait « troumatisme ».](ラカン、S21、19 Février 1974)


現実の断片がわれわれにとって異者のように現れるか、あるいはわれわれの自己自身が異者のように現れるかである。Diese Entfremdungen sind sehr merkwürdige, […] Man beobachtet sie in zweierlei Formen; entweder erscheint uns ein Stück der Realität als fremd oder ein Stück des eigenen Ichs.(フロイト書簡、ロマン・ロラン宛、Brief an Romain Rolland ( Eine erinnerungsstörung auf der akropolis) 1936年)