前回、オレクシイ・アレストビッチ(Oleksiy Arestovych)にかかわって引用した Dmitri氏は実にすばらしいことを言っている。
ウクライナ応援団でも彼のような態度が是非必要なのだ。
以下、機械翻訳を掲げておこう。
Dmitri @mdmitri91 May 27 |
ウクライナ戦争について、情報をフィルタリングし、神経をすり減らすのをやめるにはどうしたらいいか?私は時々、安心させるために尋ねられるので、これについての私の考えを何行かに分けて書いておこうと思いました。私は心理学者ではありませんが、おそらくいくつかのアイデアを提供することができます。 もしあなたの主な問題が人間の悲劇を見ることで、あなたが個人的にこれに関わっているわけではなく(ウクライナに家族がいるわけでもなく、純粋に観察者として)、ただ人間の苦しみに耐えられないのなら、あなたに本当にできることは、閲覧を減らすことだけです。 |
悲劇は当分続くのだから、たまにはそこから離れて、他のことに集中する必要がある。特に精神が弱くなる夕方には、運命予報を見るのをやめましょう。外出の機会を増やし、少なくとも数時間はニュースを見ないようにする。 戦争でウクライナが負ける/勝つ」ということを気にし続けるなら、この言葉は主観的なものだと理解してみてください。攻撃面ではロシアの勝利でも、世界の威信や経済、文化遺産という点では破滅的なものかもしれない。 |
同様に、勝利と敗北は必ずしもそうではありません。もしウクライナが最も組織的な方法で村から撤退し、より強固な防御態勢を取れば、ロシアはたとえ実体がなくても勝利を宣言する機会を失うことはないでしょう。 何が起こっているのか、客観的なイメージを構築してみること。客観的というのは、必ずしもポジティブとかネガティブとかいう意味ではない。今の戦争は、誰も負けていない、勝っていないというのが真実です。まだ未決定の部分が多く、私たちが予想しているのとは違った結末になる可能性が高いのです。 |
誰かを信じたいなら、ウクライナの公式ソースを信じなさい。客観性を見る良い方法は、情報が非感情的な方法で提示されていると感じるかどうかです。説明的でドライな情報源ほど、信頼できる可能性が高い。軍人はそういう話し方をします。 あなたが見ているコンテンツに注目してください。世の中にはクリックベイトがたくさんある。毎日ウクライナの勝利ばかり見ていると、一度敗北を経験すると、ウクライナは常に勝っていなければならないので、これで終わりと思うようになる。そんなことはありえない。 |
twitterの多くのコンテンツは、何千もの「いいね!」を得るためだけに発信されます。エンゲージメントの餌は、非常に現実的で効果的です。あなたは、そのようなアカウントをいくつか知っているでしょう。彼らは「気分の良い」ネタをノンストップで投稿し、あなたに間違った印象を与えます。 また、見出しは情報化時代の悩みの種であり、誰もがそれを利用する。特に、核戦争や第3次世界大戦の話題で顕著です。ニュースソースがこれらのことに触れるとすぐに心配になり、「クリック」したくなり、頭がクラクラし始めるのです。 |
また、人は主に(無意識に)自分のバイアスを支持する情報を探すようになる。ウクライナが勝っていると強く信じていれば、こうした見出しが目に入ることが多くなります。そして、うっかりすると、対照的な情報に出会ったときに、不協和音が生じることになるのです。 ロシア語やウクライナ語が話せないと観察できる内容が限られ、独自のバイアスを持つ情報源からの翻訳に頼らざるを得ないことは承知しています。しかし、少なくともそれを認識し、情報をフィルタリングすることは可能です。 |
信頼性が低いと思われる情報源からの情報を即座に捨ててはならない。「ウクライナは常に正しく、ロシアは常に間違っている」というアプローチは、単に非生産的である。信じたいことだけを信じるから、ロシアは当初の計画が水の泡になるのです。 要約すると、全体像を知ることができないことを受け入れましょう。ソクラテス(と言われている)が言ったように、「私は何も知らないことを知っている」のです。考えすぎは、現実とは無関係の荒唐無稽な想像によって引き起こされることがとても多いのです。 |
・twitterの多くのコンテンツは、何千もの「いいね!」を得るためだけに発信されます。
・人は主に(無意識に)自分のバイアスを支持する情報を探すようになる。
などは特に注意すべきだろう。
聞きたいことは信じやすいのです。はっきり言われていなくても、自分が聞きたいと思っていたことを誰かが言えばそれを聞こうとするし、しかも、それを信じやすいのです。聞きたくないと思っている話はなるべく避けて聞こうとしません。あるいは、耳に入ってきてもそれを信じないという形で反応します。(加藤周一「第2の戦前・今日」2004年) |
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人がデマゴギーと呼ぶところのものは、決してありもしない嘘出鱈目ではなく、物語への忠実さからくる本当らしさへの執着にほかならぬ〔・・・〕。人は、事実を歪曲して伝えることで他人を煽動しはしない。ほとんど本当に近い嘘を配置することで、人は多くの読者を獲得する。というのも、人が信じるものは語られた事実ではなく、本当らしい語り方にほかならぬからである。デマゴギーとは、物語への恐れを共有しあう話者と聴き手の間に成立する臆病で防禦的なコミュニケーションなのだ。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』1988年) |
多くの読者を獲得しているツイッターアカウントは常に注意しなければならない。その何千もの「いいね!」を得るためだけに発信している可能性を。
どこかで小耳にはさんだことの退屈な反復にすぎない言葉をこともなげに口にしながら、 なおも自分を例外的な存在であるとひそかに信じ、 しかもそう信じることの典型的な例外性が、 複数の無名性を代弁しつつ、 自分の所属している集団にとって有効な予言たりうるはずだと思いこんでいる人たちがあたりを埋めつくしている。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』1988年) |
説話論的磁場。それは、誰が、何のために語っているのかが判然としない領域である。そこで口を開くとき、人は語るのではなく、語らされてしまう。語りつつある物語を分節化する主体としてではなく、物語の分節機能に従って説話論的な機能を演じる作中人物の一人となるほかないのである。にもかかわらず、人は、あたかも記号流通の階層的秩序が存在し、自分がその中心に、上層部に、もっと意味の濃密な地帯に位置しているかのごとく錯覚しつづけている。(蓮實重彦『物語批判序説』1985年) |
ツイッターに代表されるSNSの説話論的磁場を常に疑うこと。この態度をもって初めてSNS装置の情報は有効に活用しうる。もちろんこれは自戒としてもこう記している。