ほぼ間違いなくドゥルーズの最悪の書『アンチ・オイディプス』は、単純化された「平面的」解決を通して、袋小路との十全な遭遇から逃げ出した結果ではないだろうか?Is Anti-Oedipus, arguably Deleuze's worst book, not the result of escaping the full confrontation of a deadlock via a simplified "flat" solution…? (Zizek,Organs without Bodies, 2004) |
これはジジェク流の言い過ぎの面があるが、とはいえ、ジジェクがここで言いたい核心はオイディプスの彼岸に自由なんかないということである。例えばフェミニストたちはが家父長制を打倒すれば自由があると錯覚してしまった。こういった1970年代から今にまで続く誤解釈を世界に流通させ思想界に大きな影響を与えてしまったという意味では「最悪」であり、人は可能な限りはやくこの誤謬から逃れる必要がある。 |
パラノイアのセクター化に対し、分裂病の断片化を対立しうる。私は言おう、ドゥルーズ とガタリの書(「アンチオイディプス」)における最も説得力のある部分は、パラノイアの領土化と分裂病の根源的脱領土化を対比させたことだ。ドゥルーズとガタリがなした唯一の欠陥は、それを文学化し、分裂病的断片化は自由の世界だと想像したことである。 A cette sectorisation paranoïaque, on peut opposer le morcellement schizophrénique. Je dirai que c'est la partie la plus convaincante du livre de Deleuze et Guattari que d'opposer ainsi la territorialisation paranoïaque à la foncière déterritorialisation schizophrénique. Le seul tort qu'ils ont, c'est d'en faire de la littérature et de s'imaginer que le morcellement schizophrénique soit le monde de la liberté. (J.-A. Miller, LA CLINIQUE LACANIENNE, 28 AVRIL 1982) |
ドゥルーズの誤謬は『アンチオイディプス』だけではない。それ以前のマゾッホ論において、フロイト概念の致命的な誤読がある。アンチオイディプスではこれを引き摺っているのである。 |
ダニエル・ラガーシュは、最近、自我/超自我のかかる分裂の可能性を強調したことがある。つまり彼は、ナルシシズム的自我-理想自我[moi narcissique - moi idéal]という体系と、超自我-自我理想[surmoi - idéal du moi] という体系とを識別し、事と次第によっては対立させてさえいるのである。〔・・・〕 否認は超自我を忌避し、純粋で、自律的で、超自我から独立した「理想自我」を生む権利を母に委託する[La dénégation récuse le surmoi et confère à la mère le pouvoir de faire naître un moi idéal, pur/autonome/indépendant du surmoi. ](ドゥルーズ『マゾッホとサド』第11章「サディズムの超自我とマゾヒズムの自我 Surmoi sadique et moi masochiste」1967年) |
ここでドゥルーズはラガーシューー当時の仏精神分析界の雄の一人ーーに依拠しつつ超自我と自我理想を等置してしまった。確かにフロイトが超自我概念を初めて提出した最初の次の文を読むとそう読めないことはない。 |
自我内部の分化は、自我理想あるいは超自我と呼ばれうる。eine Differenzierung innerhalb des Ichs, die Ich-Ideal oder Über-Ich zu nennen ist(フロイト『自我とエス』第3章、1923年) |
だがそうではないのである。フロイトは1930年にはこう書いている。 |
超自我はまた自我理想の媒体である[Über-Ich …Es ist auch der Träger des Ichideals](フロイト『続精神分析入門』第31講、1933年) |
あくまで超自我は自我理想の媒体であり、同じものではない。 |
フロイトの曖昧さの問題もある。だがフロイトを少し読み込めば、区別は厳然とある。 |
まず超自我とは、優位に立つ他者を同一化によって取り入れることによって生まれる。 |
幼児は、優位に立つ権威を同一化によって自分の中に取り入れる。 するとこの他者は、幼児の超自我になる[das Kind ...indem es diese unangreifbare Autorität durch Identifizierung in sich aufnimmt, die nun das Über-Ich wird ](フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第7章、1930年) |
フロイトは自我理想との同一化とは別のそれ以前にある同一化を指摘している。 |
最初の非常に幼い時代に起こった同一化の効果は、一般的でありかつ永続的であるにちがいない。このことは、われわれを自我理想Ichidealsの発生につれもどす。というのは、自我理想の背後には個人の最初の最も重要な同一化がかくされているからである。die Wirkungen der ersten, im frühesten Alter erfolgten Identifizierungen werden allgemeine und nachhaltige sein. Dies führt uns zur Entstehung des Ichideals zurück, denn hinter ihm verbirgt sich die erste und bedeutsamste Identifizierung des Individuums, (フロイト『自我とエス』、第3章、1923年) |
この同一化とは、父との同一化とは異なる母との同一化である。 |
父との同一化と同時に、おそらくはそれ以前にも、男児は、母にたいする依存型の本格的対象備給を向け始める。 Gleichzeitig mit dieser Identifizierung mit dem Vater, vielleicht sogar vorher, hat der Knabe begonnen, eine richtige Objektbesetzung der Mutter nach dem Anlehnungstypus vorzunehmen.(フロイト『集団心理学と自我の分析』第7章「同一化」、1921年) |
対象備給とあるが、これは原同一化のことである。 |
個人の原始的な口唇期の初めにおいて、対象備給と同一化は互いに区別されていなかった。Uranfänglich in der primitiven oralen Phase des Individuums sind Objektbesetzung und Identifizierung wohl nicht voneinander zu unterscheiden. (フロイト『自我とエス』第3章、1923年) |
この同一化が前エディプス期の母との同一化である。 |
前エディプス期の母との同一化[Die Mutteridentifizierung …die präödipale,](フロイト「女性性 Die Weiblichkeit」『続精神分析入門講義』第33講、1933年) |
『自我とエス』だけを読むと自我理想と超自我を等置してしまいがちだが、このように時期の異なるフロイトの記述を読み合わせれば、厳然と自我理想と超自我の相違がある。 |
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ラカンにおいてはどうか。ラカンは自我理想を象徴界(=言語界)としている。 |
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要するに自我理想は象徴界で終わる。言い換えれば、何も言わない。何かを言うことを促す力、言い換えれば、教えを促す魔性の力 …それは超自我だ。 l'Idéal du Moi, en somme, ça serait d'en finir avec le Symbolique, autrement dit de ne rien dire. Quelle est cette force démoniaque qui pousse à dire quelque chose, autrement dit à enseigner, c'est ce sur quoi j'en arrive à me dire que c'est ça, le Surmoi. (ラカン、S24, 08 Février 1977) |
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象徴界は言語である[Le Symbolique, c'est le langage](Lacan, S25, 10 Janvier 1978) |
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他方、超自我は現実界、現実界の享楽である(享楽とは「欲動の身体」である)。 |
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超自我はマゾヒズムの原因である[le surmoi est la cause du masochisme],(Lacan, S10, 16 janvier 1963) |
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享楽は現実界にある。現実界の享楽は、マゾヒズムから構成されている。マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である。フロイトはこれを見出したのである[la jouissance c'est du Réel. …Jouissance du réel comporte le masochisme, …Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel, il l'a découvert ](Lacan, S23, 10 Février 1976) |
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超自我が現実界とは、超自我は死の欲動ということである。 |
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死の欲動は現実界である。死は現実界の基盤である[La pulsion de mort c'est le Réel … la mort, dont c'est le fondement de Réel] (Lacan, S23, 16 Mars 1976) |
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死の欲動は超自我の欲動である[la pulsion de mort ... c'est la pulsion du surmoi] (J.-A. Miller, Biologie lacanienne, 2000) |
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ラカンは既に1966年の段階で超自我を現実界の対象aとしている。 |
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私は大他者に斜線を記す、Ⱥ(穴)と。…これは、大他者の場に呼び起こされるもの、すなわち対象aである。この対象aは現実界であり、表象化されえないものだ。この対象aはいまや超自我とのみ関係がある[Je raye sur le grand A cette barre : Ⱥ, ce en quoi c'est là, …sur le champ de l'Autre, …à savoir de ce petit(a). …qu'il est réel et non représenté, …Ce petit(a)…seulement maintenant - son rapport au surmoi : ](Lacan, S13, 09 Février 1966) |
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この対象aは固着のことである。 |
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対象aはリビドーの固着点に現れる[petit(a) …apparaît que les points de fixation de la libido ](Lacan, S10, 26 Juin 1963) |
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事実、最晩年のフロイトは超自我と固着を等置している。 |
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超自我が設置された時、攻撃欲動の相当量は自我の内部に固着され、そこで自己破壊的に作用する[Mit der Einsetzung des Überichs werden ansehnliche Beträge des Aggressionstriebes im Innern des Ichs fixiert und wirken dort selbstzerstörend]. (フロイト『精神分析概説』第2章、1939年) |
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「自己破棄的」とあるが、マゾヒズム=死の欲動のことであり、上に示したラカンおよびジャック=アラン・ミレールの言う通り、超自我の欲動は死の欲動である。 |
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マゾヒズムはその目標として自己破壊をもっている。〔・・・〕そしてマゾヒズムはサディズムより古い。サディズムは外部に向けられた破壊欲動であり、攻撃性の特徴をもつ。或る量の原破壊欲動は内部に残存したままでありうる。 Masochismus …für die Existenz einer Strebung, welche die Selbstzerstörung zum Ziel hat. …daß der Masochismus älter ist als der Sadismus, der Sadismus aber ist nach außen gewendeter Destruktionstrieb, der damit den Charakter der Aggression erwirbt. Soundsoviel vom ursprünglichen Destruktionstrieb mag noch im Inneren verbleiben; 〔・・・〕 我々が、欲動において自己破壊を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動の顕れと見なしうる。それはどんな生の過程からも見逃しえない。 Erkennen wir in diesem Trieb die Selbstdestruktion unserer Annahme wieder, so dürfen wir diese als Ausdruck eines Todestriebes erfassen, der in keinem Lebensprozeß vermißt werden kann. (フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年) |
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エディプスの彼岸には死の欲動がある。自由など決してない。エディプスとはこの死の欲動に対する防衛である。
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※付記 なお自我理想は父の名、超自我は母の名である。 |
父の名は象徴界にあり、現実界にはない[le Nom du père est dans le symbolique, il n'est pas dans le réel]( J.-A. MILLER, - Pièces détachées - 23/03/2005) |
われわれが父の名による隠喩作用を支える瞬間から、母の名は原享楽を表象するようになる[à partir du moment où on fait supporter cette opération de métaphore par le Nom-du-Père, alors c'est le nom de la mère qui vient représenter la jouissance primordial](J.-A. Miller, CAUSE ET CONSENTEMENT, 23 mars 1988) |
なお前期ラカンは父の名を父なる超自我、母の名を母なる超自我、あるいは「父なるシニフィアン/母なるシニフィアン」とも呼んだ。 |
エディプスなき神経症概念、それは母なる超自我と呼ばれる[Cette notion de la névrose sans Œdipe, … ce qu'on a appellé le surmoi maternel :] …問いがある。父なる超自我[Surmoi paternel] の背後にこの母なる超自我 [surmoi maternel]がないだろうか? 神経症においての父なる超自我よりも、さらにいっそう要求し、さらにいっそう圧制的、さらにいっそう破壊的、さらにいっそう執着的な母なる超自我が。 on posait la question : est-ce qu'il n'y a pas, derrière le surmoi paternel, ce surmoi maternel encore plus exigeant, encore plus opprimant, encore plus ravageant, encore plus insistant, dans la névrose, que le surmoi paternel ? (Lacan, S5, 15 Janvier 1958) |
エディプスコンプレックスにおける父の機能は、他のシニフィアンの代理シニフィアンである…他のシニフィアンとは、象徴化を導入する最初のシニフィアン(原シニフィアン)、母なるシニフィアンである。La fonction du père dans le complexe d'Œdipe, est d'être un signifiant substitué au signifiant, c'est-à-dire au premier signifiant introduit dans la symbolisation, le signifiant maternel. (Lacan, S5, 15 Janvier 1958) |
父とはあくまで原初にある母の代理であり、エディプス的父とは母の見せかけに過ぎない。 |
現実界は、象徴界と想像界を見せかけの地位に押し戻す。そしてこの現実界はドイツ語のモノdas Dingによって示される。この語をラカンは欲動として示した[le réel repousse le symbolique et l'imaginaire dans le statut de semblant, ce réel alors apparaît indexé par le mot allemand, …indexé par le mot de das Ding, la chose. Référence par quoi Lacan indiquait la pulsion. ](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 19/1/2011) |
母なるモノ、母というモノ、これがフロイトのモノ[das Ding]の場を占める[la Chose maternelle, de la mère, en tant qu'elle occupe la place de cette Chose, de das Ding. ](Lacan, S7, 16 Décembre 1959) |
ラカンが、フロイトのエディプスの形式化から抽出した「父の名」自体、見せかけに位置づけられる[Le Nom-du-Père que Lacan avait extrait de sa formalisation de l'Œdipe freudien est lui-même situé comme semblant](ジャン=ルイ・ゴー Jean-Louis Gault, Hommes et femmes selon Lacan, 2019) |