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2022年6月19日日曜日

アンチシステム運動の餌食としての「国際秩序」

 池内恵というのは「分析」に値する人物だな


何かのひどい「症状」があるんじゃないか、かつて、上の世代の左翼系教授にひどく苛められたとか、現代思想を奉じる連中に嘲弄されたとか。

もっともフロイトラカン的には「症状」とは次の意味で誰にもあるものだが。


すべての症状形成は、不安を避けるためのものである[alle Symptombildung nur unternommen werden, um der Angst zu entgehen](フロイト 『制止、不安、症状』第9章、1926年)

症状のない主体はない [il n'y a pas de sujet sans symptôme](コレット・ソレールColette Soler, Les affects lacaniens , 2011)


とはいえこの三カ月ほど観察してきた範囲では、いわゆる「名誉教授」のたぐいやらリベラル左翼系「知識人」、あるいは「現代思想」と括られるらしい連中への過剰なまでのヒステリー的反発が著しいということがある。何ものかの過去の出来事のトラウマ的不安に対する強い防衛反応じゃないかと疑いたくなってしまう。




ま、これ以上は「症状」については書かないでおくし、こんな場で書いてはならない。もっとも日本語Twitter上で集中的に批判対象になりつつあるのは「国際政治学者」に違いないとはよほどニブクなければ既に自覚的だろうよ。なにか「救い」の手蔓がないもんかね、もはや「同情」しちゃうよ。歴史は勝者が作るのだから、西ウクライナの連中に東ウクライナやさらにその向こうの民を徹底的に「虐殺」してもらえば「救い」になるのかもね、で、いつまでも徹底抗戦なる「徹底ジェノサイド派」なのかい? 最近はことさらひどくボカスカやってるのは知ってるだろ、ドンバスエリアの「市民」やドネツクの「病院」に向けて。露軍に向けるならいいさ、でも仕返しが怖いのか「東ウクライナ市民」に向けてボカスカやるってのはどういうわけだい?どうなんだろ、これがマジで好きかい? これに一切触れない貴君たちや日本のメディア、そして「ロシアがー!」と叫ぶばかりの羊脳大衆ってのにはひどく「感心」しちゃうね

いずれにせよ、《おまえの口、すなわちおまえの口にこびりついている嘔気だけは、真実だよ。》(ニーチェ「魔術師」『ツァラトゥストラ』第4部、1885年)


他人に対する一連の非難は、同様な内容をもった、一連の自己非難の存在を予想させる。個々の非難を、それを語った当人に戻してみることこそ、必要なのである[Eine Reihe von Vorwürfen gegen andere Personen läßt eine Reihe von Selbstvorwürfen des gleichen Inhalts vermuten. ] (フロイト『あるヒステリー患者の分析の断片(症例ドラ)』1905年)


というわけで蚊居肢子は自らに向かって「アホか」と言わねばならない、どこかの誰かと同様に。ーー《自己を語る遠まわしの方法[une manière de parler de soi détournée]であるかのように、人が語るのはつねに他人の欠点で、それは罪がゆるされるよろこびに告白するよろこびを加えるものなのだ[qui joint au plaisir de s'absoudre celui d'avouer.]》(プルースト「花咲く乙女たちのかげに」)


人はみなそれぞれの仕方でアホである、ーー《私は相対的には阿呆にすぎないよ…言わせてもらえば、全世界の連中と同様に相対的には阿呆だ。というのは、たぶん私は、いささか啓蒙されているからな[Comme je ne suis débile mental que relativement… je veux dire que je le suis comme tout le monde …comme je ne suis débile mental que relativement, c'est peut-être qu'une petite lumière me serait arrivée. ]》(Lacan, S24, 17 Mai 1977)ーーしかし蚊居肢子は米ネオコンイデオロギーにまったく啓蒙されていないという「不幸」をもっている。マデレーン・オルブライトのたぐいの正義の剣」の系譜は実に耐えがたいのである。


・・・話を戻さねばならない。池内恵に限らず冷戦終了後に育った国際政治学者たちは、今回の出来事で「国際秩序」を語るとき、2003年の米国のイラク侵攻という出来事、ーーつまり「ルールに基づく国際秩序は死んだ。ワシントンが国際秩序を殺した[The "Rules-Based International Order" Is Dead. Washington Killed It.]」(Ryan McMaken  04/05/2022ーーになぜほとんどほとんど触れないのかね、さらに言えば、当時の米国侵攻と今回のロシア侵攻と比較してみることをなぜしないのか、特に池内恵のような「有能な」中東研究者までが?(それともどこかでやってるのだろうか)

例えば池内恵は一瞬で「とってもおバカな二元論」だとわかるこんな記事をリツイートして拡散している。なぜなのか、不思議でならない。




少なくとも1990年以降、米国が主導して「ルールに基づいた国際秩序」を崩壊させてきたのは明らかではないのか。米国にはルールを語る資格はない。米国にとって、国際ルールは一貫して自国の利益及び覇権に従属し、かつそれに仕えるものでしかない。米国は両者が合致するときはルールを根拠とするが、両者が相反するときにはルールを無視する。そうだろ、チガウカイ?

とても穏やかに言えばこういうことだ。



ハドソン研究所なるところで米ネオコン文化にしっかり「啓蒙」されたらしき村野将君あるいはその同盟者の恵ちゃんのたぐいに以下の問に対する答を聞きたい。①米国がみだりに主権国家に対して戦争を発動し、「カラー革命」を演出するとき、ルールはどこにあったか。②米国が不法な一方的制裁を行い、関係国の民衆を塗炭の苦しみに味わわせるとき、ルールはどこにあったか。③米国は連続して国連に対する分担金10億ドル、平和維持活動に対する分担金14億ドルを納めていないが、ルールはどこにあるのか。④米国は、米英豪安全保障パートナーシップ、QUADをやり、「インド太平洋版NATO」を作ろうとしてアジア太平洋をかき乱し、国際的核不拡散体制を破壊しているが、ルールはどこにあるのか。⑤米国はいわゆる「デモクラシー」を旗印にしていわゆる「民主サミット」をやり、世界の多くの国々を除外したが、ルールはどこにあったのか。⑥WTOが米国の対中関税戦争はグローバルな貿易ルールに違反すると明確に認定した時、米国はそれに従わなかったが、ルールはどこにあったか。(以上はさるところからのパクリであるがパクリ先は示さないでおく)


池内恵は2014年には「国際秩序」についていいこと言ってたんだがな。

◼️イスラム国躍進の構造と力  

『公研』2014 年 10 月号 「対話」 池内恵 VS 山形浩生 

ーーイスラームの中心、たとえばサウジアラビアなどには、中東の将来に対して何らかの理想への意思を持ち合わせているのでしょうか。  


池内:ないんじゃないでしょうかね。主体がありませんからね。宗教者は政治権力に密着しているだけで、その政治権力のほうは国ごとの利益、自分たちの政権の生き残りばかりを考えているわけです。まさに「それではダメだ」とイスラーム国が言うと、「うん。その通りだ」 と社会のレベルでは共感してしまうという現状がありますね。  


山形:その一方で、我々日本人が未来に対する強いイメージを持っているのかと言われると、それもつらいところではありますね。  


池内:そうなんですよ。だから、世界的にそれがないと言われた時に、これはある種のアンチ・システム運動になってしまっているのだと思うんです。要するに今の国際秩序も国内についてもルールをよく知らないのだけど、「現状はダメだ」と言ってしまう次元の反発です。 単純にむしゃくしゃしたからやったみたいな話になっている。これは中東地域だけに条件があるのではなく普遍的な現象になっているのではないか。イスラーム教徒以外にもそういう現象が見られると思います。むしゃくしゃした人たちがネトウヨ、ネトサヨになって、それが実際にいろいろな現象となって現れているのだと思うんですね。ネトウヨは、しょせんそれぞれの国で「俺の国はすごい」とか言っているだけですが、それがイスラーム世界でそれが展開すると話が国を越えて、大問題になってしまうところがある。ですから、世界中のあらゆる社会において非常に浅いアンチ・システム運動がいろいろなかたちで表出しているのではないか。 


これはイスラムの問題に限らない。米国覇権主義、その市場原理主義の「アンチ・システム運動」を最も問題にしなければならない。


“大洪水よ、わが亡きあとに来たれ!”(後は野となれ山となれ!)、これがすべての資本家およびすべての資本主義国民のスローガンである[Après moi le déluge! ist der Wahlruf jedes Kapitalisten und jeder Kapitalistennation. ](マルクス『資本論』第1巻「絶対的剰余価値の生産」)


米ネオコン政治主体とは「後は野となれ山となれ」のベンサム主義者に他ならない。


(資本システムにおいて)労働力の売買がその枠内で行なわれる流通または商品交換の領域は,実際,天賦人権の真の楽園であった。

ここで支配しているのは,自由,平等,所有,およびベンサムだけである[Was allein hier herrscht, ist Freiheit, Gleichheit, Eigentum und Bentham.]〔・・・〕


ベンサム! なぜなら双方のいずれにとっても、問題なのは自分のことだけだからである。彼らを結びつけて一つの関係のなかに置く唯一の力は、彼らの自己利益、彼らの特別利得、彼らの私益という力だけである。

Bentham! Denn jedem von den beiden ist es nur um sich zu tun. Die einzige Macht, die sie zusammen und in ein Verhältnis bringt, ist die ihres Eigennutzes, ihres Sondervorteils, ihrer Privatinteressen. (マルクス『資本論』第1巻第2篇第4章「貨幣の資本への転化 Die Verwandlung von Geld in Kapital」1867年)


仮に意識的にはそれを知らなくても、彼らは無意識的にベンサム主義者になるーー《彼らはそれを知らないが、そうする[ Sie wissen das nicht, aber sie tun es]》(マルクス『資本論』第1巻「一般的価値形態から貨幣形態への移行」)


言語における仮面が唯一意味をもつのは、無意識的あるいは、実際の仮面の故意の表出のときのみである。この場合、功利関係はきわめて決定的な意味をもっている。すなわち、私は他人を害することによって自分を利する(人間による人間の搾取) ということである。

Die Maskerade in der Sprache hat nur dann einen Sinn, wenn sie der unbewußte oder bewußte Ausdruck einer wirklichen Maskerade ist. In diesem Falle hat das Nützlichkeitsverhältnis einen ganz bestimmten Sinn, nämlich den, daß ich mir dadurch nütze, daß ich einem Andern Abbruch tue (exploitation de l'homme par l'homme <Ausbeutung des Menschen durch den Menschen>); (マルクス&エンゲルス『ドイツイデオロギー』「聖マックス」1845-1846 年)

この相互搾取理論は、ベンサムがうんざりするほど詳論したものだ[Wie sehr diese Theorie der wechselseitigen Exploitation, die Bentham bis zum Überdruß ausführte, ](マルクス&エンゲルス『ドイツイデオロギー』「聖マックス」 1846年)


仮に批判的であれ、冷戦後の世代はマルクスにほとんど触れることがなくなってしまった。資本主義のメカニズムにほとんど無知になってしまった。このひどい不幸が連中にはある。

現代思想などどうでもよろしい、ーー《「現代思想」――または、店晒しにされた「厚顔無恥」》(蓮實重彦「バルトとフィクション」2006年)ーー重要なのは例えばドゥルーズの次の言葉である。


マルクスは間違っていたなどという主張を耳にする時、私には人が何を言いたいのか理解できません。マルクスは終わったなどと聞く時はなおさらです。現在急を要する仕事は、世界市場とは何なのか、その変化は何なのかを分析することです。そのためにはマルクスにもう一度立ち返らなければなりません。〔・・・〕


次の著作は『マルクスの偉大さ La grandeur de Marx』というタイトルになるでしょう。それが最後の本です。(ドゥルーズ「思い出すこと」インタビュー1993年)


資本の論理を知らずして国際政治を語れると思うなかれ。少なくとも冷戦終了後における「国際秩序」なるシニフィアンの底には、常にベンサムーーあるいは新自由主義という名の市場原理主義ーーが隠れている。



イラクへの攻撃の三つの「真の」理由(①西洋のデモクラシーへのイデオロギー的信念、②新しい世界秩序における米国のヘゲモニーの主張、③石油という経済的利益)は、パララックスとして扱わねばならない。どれか一つが他の二つの真理ではない。「真理」はむしろ三つのあいだの視野のシフト自体である。それらはISR(想像界・象徴界・現実界)のボロメオの環のように互いに関係している。民主主義的イデオロギーの想像界、政治的ヘゲモニーの象徴界、エコノミーの現実界である。[the Imaginary of democratic ideology, the Symbolic of political hegemony, the Real of the economy](ジジェク Zizek, Iraq: The Borrowed Kettle, 2004)








最後に若き岩井克人による最も簡潔な資本主義の定義を掲げておこう。


資本主義ーーそれは、資本の無限の増殖をその目的とし、利潤のたえざる獲得を追及していく経済機構の別名である。利潤は差異から生まれる。利潤とは、ふたつの価値体系のあいだにある差異を資本が媒介することによって生み出されるものである。それは、すでに見たように、商業資本主義、産業資本主義、ポスト産業主義と、具体的にメカニズムには差異があっても、差異を媒介するというその基本原理にかんしては何の差異も存在しない。(岩井克人『ヴェニスの商人の資本論』1985)


資本の論理とは絶えまず「差異=差別」を探し求める自己革新の循環運動であり、まさにアンチシステム運動」に他ならない。「国際秩序」などという上っ面のルールはこの運動に常に貪り喰われている。