「春秋二義戦ナシ」とは孟子の言葉である。日本国の十五年戦争、南京虐殺から従軍慰安婦、捕虜虐待から人体実験まで―を冒したことは、いうまでもない。そういうことのすべてが、いまからおよそ半世紀まえにおこった。 いくさや犯罪を生みだしたところの制度・社会構造・価値観―もしそれを文化とよぶとすれば、そういう面を認識し、分析し、批判し、それに反対するかしないかは、遠い過去の問題ではなく、当人がいつ生まれたかには係りのない、今日の問題である。直接の責任は、若い日本人にはない。しかし間接の責任は、どんな若い日本人も免れることはできない。かつていくさと犯罪を生み出した日本文化の一面と対決しない限り、またそうすることによって 再びいくさと犯罪が生み出される危険を防ごうと努力しない限り。たとえば閉鎖的集団主義、権威への屈服、大勢順応主義、生ぬるい批判精神、人種・男女・少数意見などあらゆる種類の差別...。(加藤周一『夕陽妄語2』2000年) |
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《閉鎖的集団主義、権威への屈服、大勢順応主義、生ぬるい批判精神、人種・男女・少数意見などあらゆる種類の差別…》というのは、実に赤裸々に現れたなあ、この2年間。とくにコロナとウクライナ戦争に関してだ。一般公衆だけではなく、いわゆる「知識人」と呼ばれる種族のあいだで覿面に現れた。 この病気は日本人の気質に染み付いていていくら批判してもムダなんじゃないかね。いまさらだが最近あらためて徒労感に襲われてならないよ。 |
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知識人の弱さ、あるいは卑劣さは致命的であった。日本人に真の知識人は存在しないと思わせる。知識人は、考える自由と、思想の完全性を守るために、強く、かつ勇敢でなければならない。(渡辺一夫『敗戦日記』1945 年 3 月 15 日) |
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閉鎖的集団主義、大勢順応主義等はかつてはムラ社会の特性[参照]、あるいは江戸文化の生活様式が生き残っているせいだと言われてきた。
でもムラ社会や江戸生活様式の残存と同じぐらい、あるいはそれ以上に言語の問題が大きいのだろうよ。 |
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「私」が発言する時、その「私」は「汝」にとっての「汝」であるという建て前から発言しているのである。日本人は相手のことを気にしながら発言するという時、それは単に心理的なものである以上、人間関係そのもの、言語構成そのものがそういう構造をもっているのである。(森有正『経験と思想』1977年) |
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いまさらながら、日本語の文章が相手の受け取り方を絶えず気にしていることに気づく。日本語の対話性と、それは相照らしあう。むろん、聴き手、読み手もそうであることを求めるから、日本語がそうなっていったのである。これは文を越えて、一般に発想から行動に至るまでの特徴である。文化だといってもよいだろう。(中井久夫「日本語の対話性」2002年『時のしずく』所収) |
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この日本語の特性が根回しと空気を読む文化の何よりもの基盤なんじゃないかね。 |
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日本社会では、公開の議論ではなく、事前の「根回し」によって決まる。人々は「世間」の動向を気にし、「空気」を読みながら行動する。(柄谷行人「キム・ウチャン(金禹昌)教授との対話に向けて」2013年) |
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で、ズルズルいっちゃうんだよ、とんでもないくだり坂の道を。ーー《農耕社会の強迫症親和性〔・・・〕彼らの大間題の不認識、とくに木村の post festum(事後=あとの祭)的な構えのゆえに、思わぬ破局に足を踏み入れてなお気づかず、彼らには得意の小破局の再建を「七転び八起き」と反復することはできるとしても、「大破局は目に見えない」という奇妙な盲点を彼らが持ちつづけることに変わりはない。そこで積極的な者ほど、盲目的な勤勉努力の果てに「レミング的悲劇」を起こすおそれがある--この小動物は時に、先の者の尾に盲目的に従って大群となって前進し、海に溺れてなお気づかぬという。》(中井久夫『分裂病と人類』第1章、1982年) |
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事実上は「誰か」が決定したのだが、誰もそれを決定せず、かつ誰もがそれを決定したかのようにみせかけられる。このような「生成」が、あからさまな権力や制度とは異質であったとしても、同様の、あるいはそれ以上の強制力を持っていることを忘れてはならない。(柄谷行人『批評とポスト・モダン』1985年) |
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この意味では厳密には加藤周一のいう「権威への屈服」ではないんだな、そうではなく不可視の「権力への屈服」だ。
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日本語自体が二者関係言語なんだからな。どうしたって権威なき権力関係になってしまう。
実は私、日本語全体がこういう意味で敬語だと思うのです。〔・・・〕 何か日本語でひとこと言った場合に、必ずその中には自分と相手とが同時に意識されている。と同時に自分も相手によって同じように意識されている。だから「私」と言った場合に、あくまで特定の「私」が話しかけている相手にとっての相手の「あなた」になっている。〔・・・〕私も実はあなたのあなたになって、ふたりとも「あなた」になってしまうわけです。これを私は日本語の二人称的性格と言います。ですから、私は日本語には根本的には一人称も三人称もないと思うんです。(森有正『経験と思想』1977年) |
日本語は、つねに語尾において、話し手と聞き手の「関係」を指示せずにおかないからであり、またそれによって「主語」がなくても誰のことをさすかを理解することができる。それはたんなる語としての敬語の問題ではない。時枝誠記が言うように、日本語は本質的に「敬語的」なのである。(柄谷行人「内面の発見」『日本近代文学の起源』1980年) |
・・・諦めちゃダメなんだろうけど、この、常に日本語を遣っている者たちの病気、生ぬるい日本的環境に置かれた者たちの病気というのは、対抗するには手強いねえ。
日本人が好む言葉「絆」やら「寄り添う」やらというのもこの社会の特性であり、「絆」「寄り添う」とは定義上、ファシズムなんだよな(ファシズムの原義は「束になる」こと)。
大勢順応主義における絆は、同質性を脅かす者たちを排除する。これが権威という理念なき日本的民主主義だ。
民主主義とは、国家(共同体)の民族的同質性を目指すものであり、異質なものを排除する。ここでは、個々人は共同体に内属している。したがって、民主主義は全体主義と矛盾しない。ファシズムや共産主義の体制は民主主義的なのである。(柄谷行人「歴史の終焉について」1990年『終焉をめぐって』所収) |
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民主主義に属しているものは、必然的に、まず第ーには同質性であり、第二にはーー必要な場合には-ー異質なものの排除または殲滅である。[…]民主主義が政治上どのような力をふるうかは、それが異邦人や平等でない者、即ち同質性を脅かす者を排除したり、隔離したりすることができることのうちに示されている。Zur Demokratie gehört also notwendig erstens Homogenität und zweitens - nötigenfalls -die Ausscheidung oder Vernichtung des Heterogenen.[…] Die politische Kraft einer Demokratie zeigt sich darin, daß sie das Fremde und Ungleiche, die Homogenität Bedrohende zu beseitigen oder fernzuhalten weiß. (カール・シュミット『現代議会主義の精神史的地位』1923年版) |
ボルシェヴィズム(共産主義)とファシズムとは、他のすべての独裁制と同様に、反自由主義的であるが、しかし、必ずしも反民主主義的ではない。民主主義の歴史には多くの独裁制があった。Bolschewismus und Fascismus dagegen sind wie jede Diktatur zwar antiliberal, aber nicht notwendig antidemokratisch. In der Geschichte der Demokratie gibt es manche Diktaturen, (カール・シュミット『現代議会主義の精神史的地位』1923年版) |
日本的民主主義の絆は、実際はファシズムのことだと十全に認知しておいたほうがいいんじゃないかね。
ファシズムはコーポラティズムと呼ぶのがより適切である。なぜならファシズムは国家と協調組織権力(≒寄り添った絆権力)の融合だから。El fascismo debería ser más apropiadamente llamado corporativismo, ya que es una fusión del Estado y del poder corporativo (ムッソリーニ Benito Mussolini) |
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思想史が権力と同型であるならば、日本の権力は日本の思想史と同型である。日本には、中心があって全体を統御するような権力が成立したことがなかった。それは、明治以後のドイツ化においても実は成立しなかった。戦争期のファシズムにおいてさえ、実際は、ドイツのヒットラーはいうまでもなく、今日のフランスでもミッテラン大統領がもつほどの集権的な権力が成立しなかったし、実はその必要もなかったのである。それは、ここでは、国家と社会の区別が厳密に存在しないということである。逆にいえば、社会に対するものとしての国家も、国家に対するものとしての社会も存在しない。ヒットラーが羨望したといわれる日本のファシズムは、いわば国家でも社会でもないcorporatismであって、それは今日では「会社主義」と呼ばれている。(柄谷行人「フーコーと日本」1992 年『ヒューモアとしての唯物論』所収) |
現在の米国だって属国日本を手懐けるのは容易いと感じている筈だよ、連中は想像以上にいわゆる「心理学」を政治に活用している。日本におけるプロパガンダ拡散のためのイデオログーは、権威主義タイプを使ったらダメで、共感を生む隣のお兄さんタイプがいいとかね。そんなのすぐワカルダロ、誰のようなタイプか?
例えば太平洋戦争直後、日本文化固有の規範を分析したベネディクト・アンダーソンの『菊と刀』(1946年)は、事実上、日本支配の仕方の指針だった。米国はこういったことを昔からやってきたのは「常識」。
で、この三カ月、「隣のお兄さん」が次のことを主にテレビや鳥語装置でやってきたんだよ。 |
もちろん、普通の人間は戦争を望まない。〔・・・〕しかし、政治を決定するのは国の指導者だ。国民を戦争に参加させるのは、つねに簡単なことだ。 国が民主主義であれ、ファシスト独裁であれ、議会制あるいは共産主義独裁であれ。〔・・・〕とても単純だ。国民には攻撃されつつあると言い、平和主義者を愛国心に欠けていると非難し、国を危険にさらしていると主張する以外には、何もする必要がない。この方法はどんな国でも有効だ。 Natürlich, das einfache Volk will keinen Krieg […] Aber schließlich sind es die Führer eines Landes, die die Politik bestimmen, und es ist immer leicht, das Volk zum Mitmachen zu bringen, ob es sich nun um eine Demokratie, eine faschistische Diktatur, um ein Parlament oder eine kommunistische Diktatur handelt. […] Das ist ganz einfach. Man braucht nichts zu tun, als dem Volk zu sagen, es würde angegriffen, und den Pazifisten ihren Mangel an Patriotismus vorzuwerfen und zu behaupten, sie brächten das Land in Gefahr. Diese Methode funktioniert in jedem Land. (ヘルマン・ゲーリングHermann Göring ーー独房での法廷心理学者との対話にて、1946年4月18日) |
わかるだろ、すぐに? |
あのマズゴミという説話論的磁場のなかでさ、 |
説話論的磁場。それは、誰が、何のために語っているのかが判然としない領域である。そこで口を開くとき、人は語るのではなく、語らされてしまう。語りつつある物語を分節化する主体としてではなく、物語の分節機能に従って説話論的な機能を演じる作中人物の一人となるほかないのである。にもかかわらず、人は、あたかも記号流通の階層的秩序が存在し、自分がその中心に、上層部に、もっと意味の濃密な地帯に位置しているかのごとく錯覚しつづけている。(蓮實重彦『物語批判序説』1985年) |
で、寄り添うことが好きな大半の日本人はいまだ錯覚し続けているんだろうよ、「隣のお兄さん」は鍋底戦況物語しかしてないのに、あそこには戦況分析の上層部があると。 |