松本卓也くんが取り上げたマリー=エレーヌ・ブルースMarie-Hélène Brousseの《統計学的超自我[le surmoi statistique]》ってのは、父の失墜(規範消失)の時代における新しい父の諸名[Les Noms du Père]に相当し、実際は「統計学的父の諸名」、あるいは元来の超自我に対する防衛としての「統計学的剰余超自我」とも呼んだほうがいい概念。少なくとも本来の超自我から見れば、二次的超自我だよ。
なんたってもともとの超自我は死の欲動なんだから。統計学的死の欲動ってヘンだろ?
◼️まず超自我は死の欲動の名である。 |
死の欲動は超自我の欲動である[la pulsion de mort ..., c'est la pulsion du surmoi] (ジャック=アラン・ミレールJ.-A. Miller, Biologie lacanienne, 2000) |
タナトスは超自我の別の名である[Thanatos, which is another name for the superego] (ピエール・ジル・ゲガーン Pierre Gilles Guéguen, The Freudian superego and The Lacanian one. 2016) |
これはフロイトが書いてる通り。 |
超自我が設置された時、攻撃欲動の相当量は自我の内部に固着され、そこで自己破壊的に作用する[Mit der Einsetzung des Überichs werden ansehnliche Beträge des Aggressionstriebes im Innern des Ichs fixiert und wirken dort selbstzerstörend]. (フロイト『精神分析概説』第2章、1939年) |
マゾヒズムはその目標として自己破壊をもっている[Masochismus …für die Existenz einer Strebung, welche die Selbstzerstörung zum Ziel hat.]〔・・・〕 我々が、欲動において自己破壊を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動の顕れと見なしうる。それはどんな生の過程からも見逃しえない[Erkennen wir in diesem Trieb die Selbstdestruktion unserer Annahme wieder, so dürfen wir diese als Ausdruck eines Todestriebes erfassen, der in keinem Lebensprozeß vermißt werden kann. ](フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年) |
超自我の設置➡︎欲動の固着(事実上の超自我への固着)➡︎自己破壊欲動=マゾヒズム➡︎死の欲動とある。 これがラカンの現実界の享楽=マゾヒズム=死の欲動。 |
享楽は現実界にある。現実界の享楽は、マゾヒズムによって構成されている。…マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である。フロイトはそれを発見したのである[la jouissance c'est du Réel. …Jouissance du réel comporte le masochisme, …Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel, il l'a découvert,] (Lacan, S23, 10 Février 1976) |
死の欲動は現実界である。死は現実界の基礎である[La pulsion de mort c'est le Réel …c'est la mort, dont c'est le fondement de Réel ](Lacan, S23, 16 Mars 1976) |
◼️とはいえより具体的に超自我ってなんだい、という問いがある筈。 |
心的装置の一般的図式は、心理学的に人間と同様の高等動物にもまた適用されうる。超自我は、人間のように幼児の依存の長引いた期間を持てばどこにでも想定されうる。そこでは自我とエスの分離が避けがたく想定される。Dies allgemeine Schema eines psychischen Apparates wird man auch für die höheren, dem Menschen seelisch ähnlichen Tiere gelten lassen. Ein Überich ist überall dort anzunehmen, wo es wie beim Menschen eine längere Zeit kindlicher Abhängigkeit gegeben hat. Eine Scheidung von Ich und Es ist unvermeidlich anzunehmen. (フロイト『精神分析概説』第1章、1939年) |
超自我は自我とエスを分離する審級で、幼児の依存にかかわるとある。 |
幼児の依存[kindlicher Abhängigkeit]=母への依存性[Mutterabhängigkeit](フロイト『女性の性愛 』第1章、1931年)であり、これが元来の超自我。 |
母なる超自我は原超自我である[le surmoi maternel… est le surmoi primordial ](Lacan, S5, 02 Juillet 1958、摘要) |
ーー《母なる超自我に属する全ては、この母への依存の周りに表現される[c'est bien autour de ce quelque chose qui s'appelle dépendance que tout ce qui est du surmoi maternel s'articule].》 (Lacan, S5, 02 Juillet 1958)
◼️そしてマゾヒズムとは固着にかかわる。 |
無意識的なリビドーの固着は性欲動のマゾヒズム的要素となる[die unbewußte Fixierung der Libido …vermittels der masochistischen Komponente des Sexualtriebes](フロイト『性理論三篇』第一篇Anatomische Überschreitungen , 1905年) |
初期幼児期の固着はほとんど常に母への固着。 |
おそらく、幼児期の母への固着の直接的な不変の継続がある[Diese war wahrscheinlich die direkte, unverwandelte Fortsetzung einer infantilen Fixierung an die Mutter. ](フロイト『女性同性愛の一事例の心的成因について』1920年) |
マゾヒズムの病理的ヴァージョンは、対象関係の前性器的欲動への過剰な固着を示している。それは母への固着である[le masochisme, …une version pathologique, qui, elle, renvoie à un excès de fixation aux pulsions pré-génitales de la relation d'objet. Elle est fixation sur la mère, ](エリック・ロランÉric Laurent発言) (J.-A. Miller, LE LIEU ET LE LIEN, 7 février 2001) |
母は超自我なのだから、母への固着とは超自我への固着。 |
◼️そして母とはフロイトラカンにおいてトラウマでもある。 |
母は幼児にとって過酷なトラウマの意味を持ちうる[die Mutter … für das Kind möglicherweise die Bedeutung von schweren Traumen haben](フロイト『制止、症状、不安』第9章、1926年) |
ラカンにおいて現実界=モノ=トラウマ=母である。 |
フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne …ce que j'appelle le Réel ](Lacan, S23, 13 Avril 1976) |
問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値を持っている[le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme. ](Lacan, S23, 13 Avril 1976) |
母なるモノ、母というモノ、これがフロイトのモノ[das Ding]の場を占める[la Chose maternelle, de la mère, en tant qu'elle occupe la place de cette Chose, de das Ding. ](Lacan, S7, 16 Décembre 1959) |
フロイトにおいてトラウマとは幼児が母に対して受動的な立場に置かれることであり、これがマゾヒズムの原点。 |
母のもとにいる幼児の最初の体験は、性的なものでも性的な色調をおびたものでも、もちろん受動的な性質のものである[Die ersten sexuellen und sexuell mitbetonten Erlebnisse des Kindes bei der Mutter sind natürlich passiver Natur. ](フロイト『女性の性愛 』第3章、1931年) |
トラウマを受動的に体験した自我[Das Ich, welches das Trauma passiv erlebt](フロイト『制止、症状、不安』第11章B、1926年) |
マゾヒズム的とはその根において、女性的受動的である[masochistisch, d. h. im Grunde weiblich passiv.](フロイト『ドストエフスキーと父親殺し』1928年) |
以上、母への固着=超自我への固着=トラウマへの固着であり、これが死の欲動。 |
トラウマへの固着➡︎反復強迫➡︎死の欲動である。 |
病因的トラウマ、この初期幼児期のトラウマはすべて五歳までに起こる[ätiologische Traumen …Alle diese Traumen gehören der frühen Kindheit bis etwa zu 5 Jahren an]〔・・・〕トラウマは自己身体の出来事もしくは感覚知覚である[Die Traumen sind entweder Erlebnisse am eigenen Körper oder Sinneswahrnehmungen]〔・・・〕 このトラウマの作用はトラウマへの固着と反復強迫として要約できる[Man faßt diese Bemühungen zusammen als Fixierung an das Trauma und als Wiederholungszwang. ](フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939年) |
われわれは反復強迫の特徴に、何よりもまず死の欲動を見出だす[Charakter eines Wiederholungszwanges …der uns zuerst zur Aufspürung der Todestriebe führte.](フロイト『快原理の彼岸』第6章、1920年)である。 |
◼️最晩年のラカンは次のように言っている。 |
私は病気だ。なぜなら、皆と同じように、超自我をもっているから[j'en suis malade, parce que j'ai un surmoi, comme tout le monde]( Lacan parle à Bruxelles、 26 Février 1977) |
これは事実上、人がみな病気なのは「母への固着=超自我への固着」があるためとなる。 |
抑圧の第一段階ーー原抑圧された欲動ーーは、あらゆる「抑圧」の先駆けでありその条件をなしている固着である[Die erste Phase besteht in der Fixierung, (primär verdrängten Triebe) dem Vorläufer und der Bedingung einer jeden »Verdrängung«. ]〔・・・〕この欲動の固着[Fixierungen der Triebe] は、以後に継起する病いの基盤を構成する[Fixierungen der Triebe die Disposition für die spätere Erkrankung liege, und können hinzufügen](フロイト『症例シュレーバー』1911年、摘要) |
以上、超自我の基本は母への固着にある。《統計学的超自我[le surmoi statistique]》とは母にはまったく関係がない。ドゥルーズのマゾッホ論における致命的誤謬《制度的超自我[surmoi d'institution]》概念よりはずっとマシだけど。むかしのことだからしょうがないけど、《制度的な超自我に、マゾヒストは、自我と口唇的母親との契約による連繋を対立させる[Au surmoi d'institution, il oppose l'alliance contractuelle du moi et de la mère orale]. 》(ドゥルーズ『マゾッホとサド』第11章)なんてのは超自我について何も分かっていなかった証拠(もっとも超自我概念はフロイトの記述が揺れ動いているせいもあり、ラカンでさえセミネールⅩⅦの段階であってもいささかmisleading 気味)。
統計学的超自我ってのは名前を変えれば、ーー例えば「統計学的父の諸名」等にーー面白い思考と言ってもよいけど。このインターネットの時代、この統計に囚われたヤツばっかりで、エビデンス至上主義なんかもそのひとつだから。