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2022年7月25日月曜日

要約は共同体が容認する物語への「優雅な」翻訳

 要約しないことだよ、何よりも重要なのは。ツイッターが最悪なのは要約装置のせいだ。

蓮實)僕がやっている批評のほとんどは無駄に近い列挙なんです。〔・・・〕ところがいまの若い人たちは列挙しないんですね。非常に優雅に自分の言葉に置き換えちゃっている。〔・・・〕僕の無駄というのは、その無謀な列挙にある。なぜ列挙するかというと、列挙することそのものがかろうじて根拠たりうるようなものしか論じないからです。〔・・・〕


流通するのは、いつも要約のほうなんです。書物そのものは絶対に流通しない。ダーヴィンにしろマルクスにしろ、要約で流通しているにすぎません。要約というのは、共同体が容認する物語への翻訳ですよね。つまり、イメージのある差異に置き換えることです。これを僕は凡庸化というのだけれど、そこで、批評の可能性が消えてしまう。主義者が生まれるのは、そのためでしょう。書物というのは、流通しないけど反復される。ドゥルーズ的な意味での反復ですよね。そして要約そのものはその反復をいたるところで抑圧する。批評は、この抑圧への闘争でなければならない。(蓮實重彦-柄谷行人対談集『闘争のエチカ』1988年)


「きみにはこんな経験がないかね? 何かを考えたり書こうとしたりするとすぐに、それについて最適な言葉を記した誰かの書物が頭に思い浮かぶのだ。しかしいかんせん、うろ覚えではっきりとは思い出せない。確認する必要が生じる──そう、本当に素晴らしい言葉なら、正確に引用しなければならないからな。そこで、その本を探して書棚を漁り、なければ図書館に足を運び、それでも駄目なら書店を梯子したりする。そうやって苦労して見つけた本を繙き、該当箇所を確認するだけのつもりが、読み始め、思わずのめりこんでゆく。そしてようやく読み終えた頃には既に、最初に考えていた、あるいは書きつけようとしていた何かのことなど、もはやどうでもよくなっているか、すっかり忘れてしまっているのだ。しかもその書物を読んだことによって、また別の気がかりが始まったことに気付く。だがそれも当然だろう、本を一冊読むためには、それなりの時間と思考を必要とするものなのだから。ある程度時間が経てば、興味の対象がどんどん変化し移り変わってもおかしくあるまい? だがね、そうやってわれわれは人生の時間を失ってしまうものなのだよ。移り気な思考は、結局、何も考えなかったことに等しいのだ」(ボルヘス「読書について──ある年老いた男の話」)




生徒にならないことだ、教師のモノマネをしないことだ。


本質規定からいって、教師の言述は要約することができる(あるいは、できなければならない)という性格を帯びる(これは国会議員の演説と共通する特権である)。周知のように、わが国の学校では、テクストの要約と呼ばれる訓練が行わている。この呼び方が、まさに、要約のイデオロギーをいい当てている。すなわち、一方に、《思想》という、メッセージの対象であり、行動の要素、科学の要素である。他動的な、あるいは、批判的な力があり、もう一方に、《文体》という、贅沢、閑暇、したがって、無用なものに属する装飾がある。文体から思想を切り離すことは、いわば、言述から聖職的な衣をはぎ取ることであり、メッセージを世俗化することである(そこから、教師と代議士とのブルジョワ的結合が生ずる)。《形式》は圧縮し得るものであると考えられているのえあり、この圧縮は本質的に害を与えるものとは考えられていない。実際、遠い所、つまり、わが西欧の境界を越えた所では、生きているジヴァロの頭と縮小したジヴァロの頭との差異はそれほど重大だろうか。

訳者註)ジヴァロ:アマゾン河上流のインディアン。戦いの後、敵の首を切り、その皮をはぎ、食物の煎じ汁につけたり、熟した石で加工し、拳大の大きさに縮小するという。

教師にとって、自分の講義中、生徒の取る《ノート》を見るのはむずかしい。彼はほとんど見ようとしない。慎みからからか(なぜなら、この作業の儀礼的な性格にもかかわらず、《ノート》ほど個人的なものはないからである)、あるいは、こちらの方が当たっていそうだが、同族の者に加工されたジヴァロのように、死んで、物質的で、しかも縮小された状態にある自分を見るのが怖いからであろう。パロールの流れの中から取られた(差し引かれた)ものがどこにも当てはまる言表(公式、文)であるのか、推論の要点なのか、わかりはしない。どちらの場合にも、失われたものは付加物であるが、そこにこそ言語活動の賭け金が投ぜられているのである。要約はエクリチュールの拒否である。

逆の結論として、要約されることのできない(要約すると、ただちに、メッセージとしての自分の性格を破壊する)《メッセージ》の送り手は、皆、《作家》(この語は、つねに、社会的価値ではなく、実践を指す)と呼ぶことができる。《メッセージ》が要約できないというのが、作家が、狂人、饒舌家、数学者と共有する条件である。しかし、それは、まさに、エクリチュール(すなわち、ある種のシニフィアンの実践が明確にしなければならない条件である。(ロラン・バルト「作家、知識人、教師」1971、沢崎浩平訳)



例えばマルクスやニーチェ、フロイト・ラカン学者がやってることは要約ばかりだ。だから連中はいつまでも核心を外し続けている。


要約は共同体が容認する物語への「優雅な」翻訳だ。これが最悪なんだ。