日記というのは奥歯みたいに書くもんじゃないかね、折ある毎に何度も何度も回帰するね
2002年7月17日(木)二階堂奥歯 先日行ったレストランは、大学1年から2年にかけてつきあった人の部屋の匂いがした。 昨日洋服箪笥を整理していて、中学生の時に着ていたカットソーを着てみたら、かぶる時に本当にかすかにその頃つけていた香水が香った。 そんな時、その頃の気持ちがそのままよみがえる。思い出すのではなくて。 その時の空気をそのまま吸い込むことができるのだ。 |
ほとんどすべてがあるよ、彼女には。マゾヒズムが、自己破壊欲動が、つまり死の欲動が。そしてレミニサンスが。感性の極度の繊細さが。 |
過去の復活[résurrections du passé] は、その状態が持続している短いあいだは、あまりにも全的で、並木に沿った線路とあげ潮とかをながめるわれわれの目は、われわれがいる間近の部屋を見る余裕をなくさせられるばかりか、われわれの鼻孔は、はるかに遠い昔の場所の空気を吸うことを強制され[Elles forcent nos narines à respirer l'air de lieux pourtant si lointains]、われわれの意志は、そうした遠い場所がさがしだす種々の計画の選定にあたらせられ、われわれの全身は、そうした場所にとりかこまれていると信じさせられるか、そうでなければすくなくとも、そうした場所と現在の場所とのあいだで足をすくわれ、ねむりにはいる瞬間に名状しがたい視像をまえにしたときどき感じる不安定にも似たもののなかで、昏倒させられるからである。 (プルースト「見出された時」) |
『見出された時』の大きなテーマは、真実の探求が、無意志的なもの[l'involontaire]に固有の冒険だということである。思考は、強制して思考させるもの[force à penser]、思考に暴力をふるう何かがなければ、成立しない。思考より重要なことは、《思考させる donne à penser》ものがあるということである。哲学者よりも、詩人が重要である[plus important que le philosophe, le poète]。〔・・・〕『見出された時』のライトモチーフは、「強制する forcer」という言葉である。たとえば、我々に見ることを強制する印象とか、我々に解釈を強制する出会いとか、我々に思考を強制する表現、などである。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』結論「思考のイマージュ」の章、第2版、1970年) |
ーー《強制された運動の機械(タナトス)[machines à movement forcé (Thanatos)] 》(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「三つの機械 Les trois machines」第2版 1970年) 自己破壊というところまで行かなくても、レミニサンス自体が死の欲動なんだよ、「反復強迫=反復強制」自体が死の欲動なんだから、ーー《われわれは反復強迫の特徴に、何よりもまず死の欲動を見出だす[Charakter eines Wiederholungszwanges …der uns zuerst zur Aufspürung der Todestriebe führte.]》(フロイト『快原理の彼岸』第6章、1920年) |
死の欲動は現実界である[La pulsion de mort c'est le Réel](Lacan, S23, 16 Mars 1976) |
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問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値をもっている。…これを「強制」呼ぼう。これを感じること、これに触れることは可能である、レミニサンスと呼ばれるものによって。…レミニサンスは想起とは異なる。 Je considère que …le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme. …Disons que c'est un forçage. …c'est ça qui rend sensible, qui fait toucher du doigt… mais de façon tout à fait illusoire …ce que peut être ce qu'on appelle la réminiscence. …la réminiscence est distincte de la remémoration (ラカン、S.23, 13 Avril 1976、摘要) |
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ーーフロイトラカンのトラウマとは「身体の出来事」のこと、ーー《トラウマは自己身体の出来事もしくは感覚知覚である[Die Traumen sind entweder Erlebnisse am eigenen Körper oder Sinneswahrnehmungen]》(フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939年)。つまり匂いの記憶も身体の出来事だ。 |
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トラウマないしはトラウマの記憶は、異者としての身体 [Fremdkörper] のように作用する。これは後の時間に目覚めた意識のなかに心的痛みを呼び起こし、殆どの場合、レミニサンス[Reminiszenzen]を引き起こす。 das psychische Trauma, respektive die Erinnerung an dasselbe, nach Art eines Fremdkörpers wirkt,..…als auslösende Ursache, wie etwa ein im wachen Bewußtsein erinnerter psychischer Schmerz … leide größtenteils an Reminiszenzen.(フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年、摘要) |
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ーー《現実界のなかの異者概念は明瞭に、享楽と結びついた最も深淵な地位にある[une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance ]》(J.-A. MILLER, Orientation lacanienne , 6 -16/06/2004)
異者の回帰とは身体の出来事の回帰、身体の記憶の回帰のこと。 ◼️かつて少年だった異者のレミニサンス |
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私の現時の思考とあまりにも不調和な何かの印象に打たれたような気がして、はじめ私は不快を感じたが、ついに涙を催すまでにこみあげた感動とともに、その印象がどんなに現時の思考に一致しているかを認めるにいたった。〔・・・〕最初の瞬間、私は腹立たしくなって、誰だ、ひょっこりやってきておれの気分をそこねた見知らぬやつ(異者)は、と自問したのだった。その異者は、私自身だった、かつての少年の私だった。 je me sentis désagréablement frappé comme par quelque impression trop en désaccord avec mes pensées actuelles, jusqu'au moment où, avec une émotion qui alla jusqu'à me faire pleurer, je reconnus combien cette impression était d'accord avec elles.[…] Je m'étais au premier instant demandé avec colère quel était l'étranger qui venait me faire mal, et l'étranger c'était moi-même, c'était l'enfant que j'étais alors(プルースト「見出された時」) |
私の身体は、歴史がかたちづくった私の幼児期である[mon corps, c'est mon enfance, telle que l'histoire l'a faite]。…匂いや疲れ、人声の響き、競争、光線など[des odeurs, des fatigues, des sons de voix, des courses, des lumières]、…失われた時の記憶[le souvenir du temps perdu]を作り出すという以外に意味のないもの…(幼児期の国を読むとは)身体と記憶[le corps et la mémoire]によって、身体の記憶[la mémoire du corps]によって、知覚することだ。(ロラン・バルト「南西部の光 LA LUMIÈRE DU SUD-OUEST」1977年) |
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