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2022年7月21日木曜日

ムラ社会的共感の共同体のおみこし騒ぎへの絶望?

 


日本社会には、そのあらゆる水準において、過去は水に流し、未来はその時の風向きに任せ、現在に生きる強い傾向がある。現在の出来事の意味は、過去の歴史および未来の目標との関係において定義されるのではなく、歴史や目標から独立に、それ自身として決定される。〔・・・〕


労働集約的な農業はムラ人の密接な協力を必要とし、協力は共通の地方心信仰やムラ人相互の関係を束縛する習慣とその制度化を前提とする。この前提、またはムラ人の行動様式の枠組は、容易に揺らがない。それを揺さぶる個人または少数集団がムラの内部からあらわれれば、ムラの多数派は強制的説得で対応し、それでも意見の統一が得られなければ、「村八分」で対応する。いずれにしても結果は意見と行動の全会一致であり、ムラ全体の安定である。(加藤周一『日本文化における時間と空間』2007年)

日本社会は被害者ファンタジーのようなものを共有していて、そこからはみ出すと排除の論理にさらされる。被害者意識の高進が、狭量な社会を生んでいるのではないでしょうか。(蓮池透ーー元「北朝鮮による拉致被害者家族連絡会」事務局長、朝日新聞2013.7.13)


ここに現出するのは典型的な「共感の共同体」の姿である。この共同体では人々は慰め合い哀れみ合うことはしても、災害の原因となる条件を解明したり災害の原因を生み出したりその危険性を隠蔽した者たちを探し出し、糾問し、処罰することは行われない。そのような「事を荒立てる」ことは国民共同体が、和の精神によって維持されているどころか、じつは、抗争と対立の場であるという「本当のこと」を、図らずも示してしまうからである。…(この)共感の共同体では人々は「仲よし同士」の慰安感を維持することが全てに優先しているかのように見えるのである。(酒井直樹「「無責任の体系」三たび」2011年『現代思想 東日本大震災』所収)

公的というより私的、言語的(シンボリック)というより前言語的(イマジナリー)、父権的というより母性的なレヴェルで構成される共感の共同体。......それ はむしろ、われわれを柔らかく、しかし抗しがたい力で束縛する不可視の牢獄と化している。(浅田彰「むずかしい批評」1988年)


国民集団としての日本人の弱点を思わずにいられない。それは、おみこしの熱狂と無責任とに例えられようか。輿を担ぐ者も、輿に載るものも、誰も輿の方向を定めることができない。ぶらさがっている者がいても、力は平均化して、輿は道路上を直線的に進む限りまず傾かない。この欠陥が露呈するのは曲がり角であり、輿が思わぬ方向に行き、あるいは傾いて破壊を自他に及ぼす。しかも、誰もが自分は全力をつくしていたのだと思っている。(中井久夫「戦争と平和についての観察」2005年『樹をみつめて』所収)


……………

もうすぐ5ヶ月になるが《わが国におけるほとんど唯一の国民的一致点は「被害者の尊重」》を受け入れて言えば、何よりもまずウクライナという被害者に脊髄反射的に同一化したのだよな、われわれのほとんどはあの戦争が8年前から続いていたことを知らずに。キエフ政権がネオナチに支配されていることを知らずに。米国主導のNATOがそれを強力に支援し続けていたことを知らずに。

この同一化のメカニズムは何も日本人だけに限らないが、そこから逃れることが最も遅い国民は日本人だろうね。なぜかね、それが一番の問いだね。ムラ社会的共感の共同体のせいだとひと言で言ってしまえば、それで片付いてしまえるが、もしそうなら日本の国民性を徹底的に侮蔑することになってしまうから、あっさり片付けたくない心持ちがいくらかはあるね。

とはいえこの現象は宇露戦争への応じ方にはまったく限らないのだな、コロナでも、安倍銃殺事件でも、さらに日本の少子高齢化社会における巨額の財政赤字累積を見ないふりしての反消費税騒ぎでも。

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◼️ 同情の不作法

わたしが同情心の持ち主たちを非難するのは、彼らが、恥じらいの気持、畏敬の念、自他の間に存する距離を忘れぬ心づかいというものを、とかく失いがちであり、共感がたちまち賤民のにおいを放って、不作法と見分けがつかなくなるからである。

Ich werfe den Mitleidigen vor, dass ihnen die Scham, die Ehrfurcht, das Zartgefühl vor Distanzen leicht abhanden kommt, dass Mitleiden im Handumdrehn nach Pöbel riecht und schlechten Manieren zum Verwechseln ähnlich sieht, (ニーチェ『この人を見よ』1888年)



◼️ 同情は同一化によって生まれる

同情は同一化によって生まれる[das Mitgefühl entsteht erst aus der Identifizierung]〔・・・〕

一人の自我が、他人の自我にある点で重要な類似をみつけたとき、われわれの例でいえば、同様な感情を用意している点で意味ふかい類似をみとめたとき、それにつづいてこの点で同一化が形成される[ Das eine Ich hat am anderen eine bedeutsame Analogie in einem Punkte wahrgenommen, in unserem Beispiel in der gleichen Gefühlsbereitschaft, es bildet sich daraufhin eine Identifizierung in diesem Punkte]〔・・・〕


第一に、同一化は対象にたいする感情結合の根源的な形式である[daß erstens die Identifizierung die ursprünglichste Form der Gefühlsbindung an ein Objekt ist]。


第二に、退行の道をたどって、同一化は、いわば対象を自我に取り入れることによって、リビドー的対象結合の代理物になる[zweitens, daß sie auf regressivem Wege zum Ersatz für eine libidinöse Objektbindung wird, gleichsam durch Introjektion des Objekts ins Ich]。


第三に、同一化は性欲動の対象ではない他人との、あらたにみつけた共通点のあるたびごとに生じる。この共通性が、重大なものであればあるほど、この部分的な同一化は、ますます効果のあるものになり、それは新たな結合の端緒を表すようになる[und daß sie drittens bei jeder neu wahrgenommenen Gemeinsamkeit mit einer Person, die nicht Objekt der Sexualtriebe ist, entstehen kann. Je bedeutsamer diese Gemeinsamkeit ist, desto erfolgreicher muß diese partielle Identifizierung werden können und so dem Anfang einer neuen Bindung entsprechen ]。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第7章「同一化」1921年)



◼️性欲動の発展としての同情

性欲動の発展としての同情と人類愛。復讐欲動の発展としての正義[Mitleid und Liebe zur Menschheit als Entwicklung des Geschlechtstriebes. Gerechtigkeit als Entwicklung des Rachetriebes. ](ニーチェ「力への意志」遺稿、1882 - Frühjahr 1887 )




◼️憐れみは苦しんでいる存在に同一化することによって生まれる

私たちはどのようにして憐れみに心を動かされるのであろうか。私たちを自分の外に連れ出して、苦しんでいる存在に同一化することによってである。

Comment nous laissons-nous émouvoir à la pitié ? En nous transportant hors de nous-mêmes ; en nous identifiant avec l'être souffrant.( ジャン=ジャック・ルソー『言語起源論』1781年)


◼️三つの格率(親切・人間性・共感・慈善)

Trois maximes. (la bonté, l'humanité, la commisération, la bienfaisance,)

【第一の格率】:人間の心は自分よりも幸福な人の地位に自分をおいて考えることはできない。自分よりもあわれな人の地位に自分をおいて考えることができるだけである。

PREMIÈRE MAXIME 

Il n'est pas dans le cœur humain de se mettre à la place des gens qui sont plus heureux que nous, mais seulement de ceux qui sont plus à plaindre.


【第二の格率】:人はただ自分もまぬがれられないと考えている他人の不幸だけをあわれむ。

DEUXIÈME MAXIME 

On ne plaint jamais dans autrui que les maux dont on ne se croit pas exempt soi-même.


【第三の格率】:他人の不幸にたいして感じる同情は、その不幸の大小ではなく、その不幸に悩んでいる人が感じていると思われる感情に左右される。

TROISIÈME MAXIME 

La pitié qu'on a du mal d'autrui ne se mesure pas sur la quantité de ce mal, mais sur le sentiment qu'on prête à ceux qui le souffrent.

(ジャン=ジャック・ルソー『エミール』1762年)




◼️被害者との同一化と利用されやすい庶民的正義感のはけ口

被害者の側に立つこと、被害者との同一視(同一化)は、私たちの荷を軽くしてくれ、私たちの加害者的側面を一時忘れさせ、私たちを正義の側に立たせてくれる。それは、たとえば、過去の戦争における加害者としての日本の人間であるという事実の忘却である。その他にもいろいろあるかもしれない。その昇華ということもありうる。


社会的にも、現在、わが国におけるほとんど唯一の国民的一致点は「被害者の尊重」である。これに反対するものはいない。ではなぜ、たとえば犯罪被害者が無視されてきたのか。司法からすれば、犯罪とは国家共同体に対してなされるものであり(ゼーリヒ『犯罪学』)、被害者は極言すれば、反国家的行為の単なる舞台であり、せいぜい証言者にすぎなかった。その一面性を問題にするのでなければ、表面的な、利用されやすい庶民的正義感のはけ口に終わるおそれがある。(中井久夫「トラウマとその治療経験」2000年『徴候・外傷・記憶』所収)



◼️同一化による精神衛生向上

行動化は、暴力的・破壊的なものであっても、その最中には、因果関係の上に立っているという感覚を与える。自分は、かくかくの理由でこの相手を殴っているのだ、殺すのだ、戦争を開始するのだ、など。時代小説を読んでも、このモードの変化とそれに伴うカタルシスは理解できる。読者、観客の場合は同一化である。ボクサーや球団やサッカーチームとの同一化が起こり、同じ効果をもたらすのは日常の体験である。この同一化の最中には日常の心配や葛藤は一時棚上げされる。その限りであるが精神衛生によいのである。(中井久夫「「踏み越え」について」2003年『徴候・外傷・記憶』所収)



………………



無思慮の同情

「もはや私のことを思わない。」――まあ本当に徹底的にとくと考えてもらいたい。眼の前で誰かが水の中に落ちると、たとえそうしたくないにせよ、われわれがそのあとから飛びこむのは、なぜか? 同情のためである。そのときわれわれはもう他人のことだけを思っている。――と無思慮[Gedankenlosigkeit]がいう。誰かが血を吐くと、彼に対して悪意や敵意さえ持っているの に、われわれが苦痛と不快を感じるのは、なぜか? 同情のためである。われわれはその際まさしくもはや自分のことは思っていない。――と無思慮が言う。  

無私の同情の嘘

真実は、同情というときーー私は間違ったやり方で通常同情と呼ばれるのが常であるもののことを考えているのだが、――われわれはなるほどもはや意識的にわれわれのことを思っていないけれども、極めて強く無意識的にわれわれのことを思っているのである。ちょうど足がすべったとき、われわれにとって現在意識されていないが、最も目的にかなった反射運動をし、同時に明らかにわれわれの知性全体を使用しているように。  

自己の名誉による同情

他人の不幸は、われわれの感情を害する。われわれがそれを助けようとしないなら、それはわれわれの無力を、ことによるとわれわれの卑怯を確認させるであろう。言いかえると、 それはすでにそれ自体で、他人に対するわれわれの名誉の、またはわれわれ自身に対するわれわれの名誉の減少を必然的にともなう。換言すれば、他人の不幸と苦しみの中にはわれわれに対する危険の指示がある。そして人間的な危うさと脆さ一般の目印としてだけでも、それらはわれわれに苦痛を感じさせる。  

自己防衛としての同情

われわれは、この種の苦痛と侮辱を拒絶し、同情するという行為によって、それらに報復する。この行為の中には、精巧な自己防衛やあるいは復讐[feine Nothwehr oder auch Rache]さえもありうる。われわれが根底において強くわれわれのことを思うということは、われわれが苦しむもの、窮乏するもの、 悲嘆するものの姿を避けることのできるすべての場合に、われわれの行なう決心からして推測される。


われわれが不幸な人物たちを避けることをしまいと決心するのは、われわれが一層強力なもの、助けるものとしてやって来ることができるとき、喝采を博することの確実であるとき、われわれの幸福の反対のものを感じるのを望むとき、あるいはまたその姿によって退屈から脱出することを期待するときである。


そのような姿を見るときわれわれに加えられ、しかも極めて多種多様でありうる憂苦を同情と名づけることは、誤謬を招く。なぜなら、どんな事情があっても、 それは、われわれの前で苦しんでいる者とは関係がない憂苦であるからである。  

快としての同情

しかしわれわれはこの種のことを、決してひとつの動機から行なうのではない。われわれが その際苦しみからの解放を望んでいることが全く確実であるように、われわれが同じ行為において、快の衝動[Antriebe der Lust]に服従することもやはり確実である。――快が生じるのは、われわれの状態の反対のものの姿を見るときである。われわれが望みさえすれば助けうるという考えをもつときである。われわれが助けた場合、賞賛され、感謝されるという思いを抱くときである。行為がうまくゆき、そしてそれが一歩一歩成功するものとして実行者自身を楽しませるかぎり、助けるという行為そのものの中においてである。しかしとくに、われわれの行為が腹立たしい不正を制限する(彼の腹立たしさの爆発だけでも気分をさわやかにする)という感覚の中においてである。

ショーペンハウアーの誤謬

この一切合財に、さらに一層精巧なものがつけ加わると、 「同情」である。――言語はそのひとつの言葉を用いて、何と不格好に、そのように多声的な存在の上に襲いかかることであろう! ――これに反して、苦しみを眺めるときに起きる同情が、その苦しみと同種のものであること、あるいは、同情が苦しみに対して特別に精巧な、透徹した理解をもつこと、この二つのことは、経験と矛盾する。そして同情をほかならぬこの二つの視点で称賛した者は、まさに道徳的なもののこの領域において、十分な経験を欠いていたのである。ショーペンハウアーが同情について報告することのできるすべての信じがたい事柄にもかかわらず、これが私の懐疑である。彼はわれわれをして、彼の大きな新発明品を信じさせようとしている。それによると、同情はーー彼によって極めて不完全な観察がなされ、全く粗悪な記述がなされた、まさにその同情はーー、一切のあらゆる以前の、また将来の道徳的な行為の源泉であるーーしかも彼がはじめて捏造して、 同情になすりつけたほかならぬその能力のためにそうなのである。――  

同情をもたない人間の心理

おしまいに、同情をもたない人間は、同情する人間と何で区別されるか? 何よりもまずー ーここでもやはり荒っぽくのべるだけであるがーー同情をもたない人間は、恐怖という刺激されやすい想像力や、危険をかぎつける鋭い能力をもっていない。さらに、何事か起きても、かれらが阻止できるならば、彼らの自惚れはそんなに速やかに傷つけられはしない (彼らの誇りの慎重さは、関係のない事柄に無益な干渉をしないように、彼らに命令する。 それどころか、彼らは自発的に、各人が自分自身を助け、自分自身のトランプで遊ぶことを好むのである)。その上彼らは大てい、同情的な人間よりも、苦痛に堪えることに馴れている。さらに彼ら自身苦しんできたのであるから、他人が苦しむことは、彼らにはそう不公平には思われない。

同情という利己主義

最後に彼らにとっては心の優しい状態は、ちょうど同情する人間にとってストア主義的な無関心の状態が苦痛であるように、苦痛である。彼らはその状態に軽蔑的な言葉を付加し、自分の男らしさと冷たい勇気がそれによって危険にさらされたと思う。 ――彼らは涙を他人の眼からかくし、自己自身に立腹して、それをぬぐう。同情する人間とは別の種類の利己主義である[sie verheimlichen die Thräne vor Anderen und wischen sie ab, unwillig über sich selber. Es ist eine andere Art von Egoisten, als die Mitleidigen]。――しかし彼らを紛れもない意味で悪いと呼び、 同情する人間をよいと呼ぶことは、時をえているひとつの道徳的な流行にほかならない。 ちょうど反対の流行にも時が、しかも長い時があったように! (ニーチェ『曙光』第133番、1881年)