次のラカンの二文を混淆させれば、「反復の純粋差異」となる。 |
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この「一者」自体、それは純粋差異を徴づけるものである[Cet « 1 » comme tel, en tant qu'il marque la différence pure](Lacan, S9, 06 Décembre 1961) |
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反復の一者[1 de répétition](Lacan, S19, 10 Mai 1972) |
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次のドゥルーズの文も同様。「永遠回帰という反復の純粋差異」である。 |
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永遠回帰は、同じものや似ているものを回帰させることではなく、それ自身が純粋差異の世界から起こる[L'éternel retour ne fait pas revenir le même et le semblable, mais dérive lui-même d'un inonde de la pure différence. ](ドゥルーズ『差異と反復』第2章、1968年) |
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永遠回帰は反復である[L'Éternel Retour est la Répétition](ドゥルーズ『ニーチェ』1965年) |
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そして反復とは「固着の反復」のこと。 |
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固着と退行概念、それはトラウマと原光景を伴ったものだが、最初の要素である。自動反復=自動機械 [automatisme] という考え方は、固着された欲動の様相、いやむしろ固着と退行によって条件付けれた反復の様相を表現している。 Les concepts de fixation et de régression, et aussi de trauma, de scène originelle, expriment ce premier élément. […] : l'idée d'un « automatisme » exprime ici le mode de la pulsion fixée, ou plutôt de la répétition conditionnée par la fixation ou la régression.(ドゥルーズ『差異と反復』第2章、1968年) |
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欲動蠢動は「自動反復 Automatismus」の影響の下に起こるーー私はこれを反復強迫と呼ぶのを好むーー。〔・・・〕そして抑圧において固着する契機は「無意識のエスの反復強迫」である。Triebregung […] vollzieht sich unter dem Einfluß des Automatismus – ich zöge vor zu sagen: des Wiederholungszwanges –[…] Das fixierende Moment an der Verdrängung ist also der Wiederholungszwang des unbewußten Es,(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年、摘要) |
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※参照:なぜ「死の欲動とレミニサンスと永遠回帰」が等置されるのか |
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永遠回帰とは固着の反復=レミニサンス=死の欲動なのである。 |
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ラカンが、反復の一者[1 de répétition]というときの「一者」も固着である。 |
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➡︎「一者のシニフィアンは固着である」 |
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ドゥルーズはレミニサンスとしての無意識的記憶は内在化された差異と言った(プルーストの質的差異[différence qualitative]の言い換え)。 |
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無意志的記憶における本質的なものは、類似性でも、同一性でさえもない。それらは、無意志的記憶の条件にすぎないからである 本質的なものは、内的なものとなった、内在化された差異である。 L'essentiel dans la mémoire involontaire n'est pas la ressemblance, ni même l'identité, qui ne sont que des conditions. L'essentiel, c'est la différence intériorisée, devenue immanente。(ドゥルーズ 『プルーストとシーニュ』第4章) |
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これは現代ラカン派においては固着の内在化された差異である。 |
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一者(表象=シニフィアン)とエスの身体(異者としての身体)とに内在化された差異が反復強迫を引き起こす。 |
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この図こそレミニサンス=永遠回帰=死の欲動図である(参照:固着と異者図) |
固着とはフロイトラカンの定義において「身体の出来事」である。そしてこの固着こそラカンの享楽である。 |
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享楽は身体の出来事である。享楽はトラウマの審級にあり、固着の対象である[la jouissance est un événement de corps. […] la jouissance, elle est de l'ordre du traumatisme, […] elle est l'objet d'une fixation.] (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011) |
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身体の出来事はフロイトの固着の水準に位置づけられる。そこではトラウマが欲動を或る点に固着する[L’événement de corps se situe au niveau de la fixation freudienne, là où le traumatisme fixe la pulsion à un point] ( Anne Lysy, Événement de corps et fin d'analyse, NLS Congrès présente, 2021/01) |
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享楽は真に固着にある。人は常にその固着に回帰する[La jouissance, c'est vraiment à la fixation …on y revient toujours.] (J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse, 20/5/2009) |
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ラカン自身は享楽は固着だとはダイレクトには言っていない。だが彼が《反復は享楽の回帰に基づいている[la répétition est fondée sur un retour de la jouissance]》(Lacan, S17, 14 Janvier 1970)と言ったとき、この享楽の回帰は、一者と異者の「内在化された差異」に駆り立てられた「固着の回帰」なのである。 ………………………… ※付記 上に「ラカン自身は享楽は固着だとはダイレクトには言っていない」としたが、いくらか廻り道をすれば、享楽はフロイトの固着だと事実上示している。
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例えばニーチェの記述における繰り返される事例においては、月光と蜘蛛という身体の出来事への固着があり、その固着の異者が自我に同化されないゆえに永遠回帰するのである。 |
月光をあびてのろのろと匍っているこの蜘蛛、またこの月光そのもの、また門のほとりで永遠の事物についてささやきかわしているわたしとおまえーーこれらはみなすでに存在したことがあるのではないか。 diese langsame Spinne, die im Mondscheine kriecht, und dieser Mondschein selber, und ich und du im Thorwege, zusammen flüsternd, von ewigen Dingen flüsternd - müssen wir nicht Alle schon dagewesen sein? そしてそれらはみな回帰するのではないか、われわれの前方にあるもう一つの道、この長いそら恐ろしい道をいつかまた歩くのではないかーーわれわれは永遠回帰する定めを負うているのではないか。 - und wiederkommen und in jener anderen Gasse laufen, hinaus, vor uns, in dieser langen schaurigen Gasse - müssen wir nicht ewig wiederkommen? -(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第3部「 幻影と謎 Vom Gesicht und Räthsel」 第2節、1884年) |