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2022年8月30日火曜日

国際政治学者諸君は「覚悟が定まっている」のかね


 ペンタゴンはようやく認めたらしいな、ごく常識的なことを。ゼレンスキー自らが既に宣言していることを。


米国防総省、原発付近でのウクライナ軍砲撃の「可能性」を認める

ザポリージャを狙うキエフ軍についての質問に米政府高官が答えた。

Pentagon admits ‘likelihood’ of Ukrainian shelling near nuclear plant

US officials responded to questions about Kiev’s forces targeting Zaporozhye, 

30 Aug, 2022 



で、こういった情弱連中、これからどうするんだろ?





篠田英朗や彼の寝言ツイートをしきりに拡散してきた池内恵だけでなく、池内恵がお気に入りの東野篤子オネエサンとかさ。


直近のNHK日曜討論 「ウクライナ侵攻半年 戦闘終結の糸口は」 (2022年8月28日)で「ザポリージャ原発への攻撃はロシアの攻撃」とか日テレ深層ニュース(2022年8月29日)で、原発攻撃は「ロシア側の自作自演」とか言ってるけどさ。








篠田英朗が原口一博に向けて言い放ったように「覚悟が定まっている」のかね、篠田はもちろんのこと、池内恵やら東野篤子やらは。例えば小泉悠と高橋杉雄のような漫才師コンビに転職する覚悟とかさ。


それとも学者ってのは覚悟なしに発言してもいい職業でもともと漫才師なんだろうか?



文学や自然科学の学生にとってお極まりの捌け口、教職、研究、または何かはっきりしない職業などは、また別の性質のものである。これらの学科を選ぶ学生は、まだ子供っぽい世界に別れを告げていない。彼らはむしろ、そこに留まりたいと願っているのだ。教職は、大人になっても学校にいるための唯一の手段ではないか。文学や自然科学の学生は、彼らが集団の要求に対して向ける一種の拒絶によって特徴づけられる。ほとんど修道僧のような素振りで、彼らはしばらくのあいだ、あるいはもっと持続的に、学問という、移り過ぎて行く時からは独立した財産の保存と伝達に没頭するのである。〔・・・〕


彼らに向かって、君たちもまた社会に参加しているのだと言ってきかせるくらい偽りなことはない。〔・・・〕彼らの参加とは、結局は、自分が責任を免除されたままで居続けるための特別の在り方の一つに過ぎない。この意味で、教育や研究は、何かの職業のための見習修業と混同されてはならない。隠遁であるか使命であるということは、教育や研究の栄光であり悲惨である。(レヴィ= ストロース『悲しき熱帯』 Ⅰ 川田順造訳 p77-79)





ま、いずれにせよ連中は日本の伝統的タコツボ学者なんだろうよ、


自由が狭められているということを抽象的にでなく、感覚的に測る尺度は、その社会に何とはなしにタブーが増えていくことです。集団がたこつぼ型であればあるほど、その集団に言ってはいけないとか、やってはいけないとかいう、特有のタブーが必ずある。


ところが、職場に埋没していくにしたがって、こういうタブーをだんだん自覚しなくなる。自覚しなくなると、本人には主観的には結構自由感がある。これが危険なんだ。誰も王様は裸だとは言わないし、また言わないのを別に異様に思わない雰囲気がいつの間にか作り出される。…自分の価値観だと思いこんでいるものでも、本当に自分のものなのかどうかをよく吟味する必要がある。

自分の価値観だと称しているものが、実は時代の一般的雰囲気なり、仲間集団に漠然と通用している考え方なりとズルズルべったりに続いている場合が多い。だから精神の秩序の内部で、自分と環境との関係を断ち切らないと自立性がでてこない。


人間は社会的存在だから、実質的な社会関係の中で他人と切れるわけにはいかない。…またそれがすべて好ましいとも言えない。だから、自分の属している集団なり環境なりと断ち切るというのは、どこまでも精神の内部秩序の問題です。(「丸山真男氏を囲んで」1966年)



池内恵とか、次のようなことをシキリに言ってきたわけで、「ボク珍は蛸壺愛好家です!」と宣言しているようなもんだからな。




聞きたいことは信じやすいのです。はっきり言われていなくても、自分が聞きたいと思っていたことを誰かが言えばそれを聞こうとするし、しかも、それを信じやすいのです。聞きたくないと思っている話はなるべく避けて聞こうとしません。あるいは、耳に入ってきてもそれを信じないという形で反応します。(加藤周一「第2の戦前・今日」2004年)